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コジキジゲン

だびで・・・傍若無人・・・

2015-06-24 20:22:43 | 古事記字源

 ・・・似ているモノは「双子」で、幾何学では「相似」である・・・人物は違うが「天若日子=あめノわかヒコ)=天稚彦」と「阿遅鋤高日子根神=あじすきたかひこねノかみ=味耜高彦根神」の似ている友達同志のハナシ・・・兄弟でもないのに「瓜二つ」であった。同士の裏切りは何をいみするのか?・・・それに「天照大御神」と「下照姫(下光姫・高姫)」は対語の「天と下」である「天照」、「下照」・・・ナゼ、「天と地」の「天照」、「地照」としなかったんだろう。
 「天照大御神」は別記で「大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ)」、「大日女尊(おおひるめのみこと)」、「大日霊(おおひるめ)」、「大日女(おおひめ)」、「天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)」である。同一人物(神・かみ)だが、漢字表記は別漢字である。「万葉仮名」的に「漢字音」を採り「表記」した。「音」だけで「同一人物だと理解してくれ」って・・・比較する同一内容の書物がなければムリかも・・・
 「天照大御神」の弟(おとうと・おと・で・ダイ)が「月夜見尊=月読命」で性別不詳だが記録からは女性だろう。もう一人の弟は「須佐之男=建素戔嗚尊=速素戔男尊=素戔嗚尊」で「男」であるが、この別表記の漢字から同一人物かどうかを理解するのには、それなりの知識としての「既知」が無ければムリである・・・
 「音と文字」の関係からはドウか・・・文明の初源、始源を時間的に考えれば「第一に音声ありき」である。そして「第二に文字の発明」である。「コトバありき」とは「音声ありき」であった。
 だが、日本の「文字文化の輸入」は「渡来人・帰化人」の「存在」だった。彼らは「既に漢字文字の知識」を知っていて「日本人の発声言語」と接したのである。
 それらの「漢字知識を日本語に翻訳」したのが「訓読」である・・・「訓読」は「日本語発声音の概念・本質・範疇・カテゴリー」である。
 「渡来人・帰化人」には「第一に文字知識ありき」であったのだ。そして「漢字文字」を「日本語に音声化」したのである・・・漢字の「同音異字漢字」は多数あり、言語数に乏しかった「日本語」には、その日本語音声の意味する漢字を選択して使用するのは簡単だった・・・
 「万葉仮名」は「漢字」である。当然、「漢字の意味内容」も「同音」として採ったのである。だからこそ「独自の日本文学」は「同音異字漢字のアソビ」として発展してきた・・・
 「和歌」は「同音異字漢字」の「複数の意味」を「掛けコトバ」として「文明、文化」されてきたのである。
 そして、当然にも「アルファベットの横文字」も「片仮名」にしてしまった。その「片仮名」を更に「漢字化」して「日本語として意味化」したのである・・・「究理=キュウリ=胡瓜・窮理」である・・・カナ。
ーーーーー
 天稚彦(あめわかひこ)=天若日子
 テンチガン      テンジャクヒシ
 ↓↑  若=わかい・もし・もしくは・ごとし・if
 ↓↑    ジャク・ニャク・ニャ
 ↓↑    若年・若輩
 ↓↑    ~の ようだ・ごとし
 ↓↑    傍若無人
 ↓↑    形容の語を作る助字
 ↓↑    自若・瞠若 
 豊葦原(とよあしはら)の
 ホウロゲン
 千秋長五百秋(ながいおあき)の
 センシュウチョウゴヒャクシュウ
 水穂國へ
 スイホコク
 第一次に派遣した
 天照大御神の
 第二子
 天之菩卑能命=天穂日命=天菩比神
 天菩比神(あめのほひのみこと)からは、
 テンホヒジン
 三年が過ぎても、
 連絡が無し
 迎えに遣った
 武三熊之大人(たけみくまのおとな)からも、
 ブサンユウシダイジン
 報告なし
  ↓
 天菩比神(天穂日命)の
 地上への
 第一次派遣が失敗
  ↓
 高皇産霊(たかみむすひ)尊=高御産巣日神=高木神
 コウコウサンレイ         コウボクジン
 高御産巣日神
 コウオンサンスヒジン
 と
 天照大神は
 テンショウダイジン
 第二次派遣として
 高御産巣日神の子である
 思金神(おもひかねのかみ)の提案で
 シキンジン
  ↓
 伊耶那美の嘔吐物から生まれた
 金山彦の子である
 天津国玉(あまつくにたま)神の子の
 テンシンコクギョクジン
 (伊耶那美→金山彦→天津国玉→天若日子)
  ↓
 天若日子(天稚彦)
 テンジャクヒコ
 に
 天之麻迦古弓
 テンシマカコキュウ
 と
 天之波波矢
 テンシハハヤ
 を与え
  ↓
 葦原中国(あしはらのなかつくに)征討に
 第二次として派遣
  ↓
 だが
 大国主神
 ダイコクシュジン
 と
 胸形(むなかた)の
 キョウケイ
 奥津宮(おきつみや)の神、
 オウシンキュウ
 多紀理毘賣命(田霧姫命)
 タキリビバイメイ(デンムヒメイ)
 との
 間に生まれた
 阿遅鋤高日子根神の妹
 アチジョコウヒシコンジン
 の
 下照姫(したてるひめ
 ゲショウヒ
     亦の名は
     下光比賣命)
     ゲコウヒバイメイ
 と
 結婚し
 八年(やとせ)も
 復命しないので,
  ↓
 雉(きざし・きじ・きぎし・きぎす
   チ
   名は
   鳴女(なきめ・ななきめ)
   「メイ・ミョウ・ミャウ」のジョ
 が派遣され、
 これに詰問されたが
 天佐具賣(あめのさぐめ)
 テンサグバイ
 に唆された
 天若日子(天稚彦)は
 雉を射殺
 雉が帰らなかったことから、
 雉之頓使(きぎしのひたづかひ・記事の頓詞?)
 チシトンシ
 という
  ↓
 新嘗(にいなめ)祭をしていたとき
 シンショウサイ・・・臥薪嘗胆の(歳・差異)
 その矢が
 高天原に到達し
 コウテンゲン
 なげかえされ
 天稚彦(天若日子)は
 それに
 中(あた)って
 死んだ・・・カミの子も死ぬ?
  ↓
 葬儀のとき
 訪ねてきた
 味耜高彦根神(あじすきたかひこねノかみ)
 ミシコウゲンコンジン
 が
 似ていたため
 天稚彦
 が生き返ったものと
 父の
 天津国玉に勘違いされる・・・
  ↓↑
 天にいた
 天若日子の父や母が、
 地上に降りて来、
 息子の死を悲しみ、
 その地に
 喪屋(もや)を作って、
 八日八夜にわたって弔った
  ↓↑
 その場にいた
 阿遅志貴高日子根神が、
 天若日子にも似ていたことから、
 天津国玉が
 我が子と勘違いして
 手足に取り縋って泣いた。
  ↓↑
 間違えられた
 阿遅志貴高日子根神は、
 怒って、
 穢(よご)れた
 死人と比べるなと言って、
 十掬劔(とつかのつるぎ)を抜いて、
 その喪屋(もや)を斬り伏せて、
 さらに
 足で蹴飛ばした。
 これが
 美濃國(みののくに)の
 藍見河(あゐみがわ)の・・・・岐阜県
               武儀郡
               江戸時代末期の
               地域は天領
               1889年(明治22年)
               七月一日
               笠神村、極楽寺村、横越村
               が合併し、
               藍見村
 河上にある
 喪山(もやま)である
 喪屋を斬った大刀の名は
 大量(おほはかり)、
 またの名は
 神度劔(かむどのつるぎ)・・・
 ・・・喪山を
    美濃國(みののくに)の
    藍見河(あゐみがわ)のほとりに
    蹴飛ばした
   「阿遅鋤高日子根神
    味耜高彦根神
    阿治志貴高日子根」の
    妹の
   「高比賣命」が兄の
   「思顯」を
    誇らかに歌ったのが
   「夷振(ひなぶり)」・・・
  ↓
 古事記原文
  ↓
 爾高御產巢日藭・天照大御藭之命以、
 於天安河之河原、藭集八百萬藭集而、
 思金藭令思而詔
 「此葦原中國者、我御子之所知國、
  言依所賜之國也。
  故、
  以爲於此國
  道
  速振
  荒振國藭等之多在。
  是使何藭而、將言趣。」
 爾思金藭及八百萬藭、
 議白之
 「天菩比藭、是可遣。」
 故、
 遣天菩比藭者、
 乃媚附大國主藭、
 至于三年、不復奏。
 是以、
 高御產巢日藭・天照大御藭、
 亦問諸藭等
 「所遣
  葦原中國
  之
  天菩比藭、
  久不復奏。亦使何藭之吉。」
 爾思金藭
 答白
 「可遣天津國玉藭之子、天若日子。」
 故爾、
 以
 天之麻迦古弓
 (自麻下三字以音)
 天之波波
 (此二字以音)
 矢、
 賜
 天若日子
 而遣。
 於是、天若日子、降到其國、
 卽
 娶
 大國主藭之女、
 下照比賣、
 亦
 慮獲其國、
 至于八年、不復奏。
 故爾、
 天照大御藭・高御產巢日藭、
 亦問諸藭等
 「天若日子、久不復奏。
  又
  遣曷藭以問
  天若日子
  之
  淹留所由。」
  於是諸藭及思金藭、
 答白
 「可遣
  雉
  名
  鳴女」
 時、詔之
 「汝、
  行問
  天若日子狀者、
  汝所以使
  葦原中國者、
  言趣和
  其國
  之
  荒振藭等之者也、
  何至于
  八年不復奏。」
 故爾
 鳴女、自天降到、
 居
 天若日子
 之
 門湯津楓上而、
 言委曲如
 天藭之詔命。
 爾
 天佐具賣(此三字以音)
 聞此鳥言而、
 語
 天若日子言
 「此鳥者、其鳴音甚惡。故、可射殺。」
 云進、卽
 天若日子、
 持
 天藭所
 賜
 天之波士弓
 ・
 天之加久矢、
 射殺其雉。
 爾
 其矢、
 自雉胸通而、
 逆射上、
 逮坐
 天安河之河原、
 天照大御藭
 ・
 高木藭之
 御所。
 是
 高木藭者、高御產巢日藭
 之
 別名。
 故、
 高木藭、取其矢見者、血著其矢羽。
 於是、
 高木藭告之
 「此矢者、
  所
  賜
  天若日子
  之矢。」
 卽示諸藭等、
 詔者
 「或天若日子、不誤命、
  爲射
  惡藭之矢之至者、
  不中
  天若日子。
  或有邪心者、
  天若日子、
  於此矢
  麻賀禮(此三字以音)。」
 云而、
 取其矢、
 自其矢
 穴衝返下者、
 中
 天若日子
 寢朝床
 之
 高胸坂
 以死。
 此
 還矢
 之
 本也。
 亦其
 雉
 不還、
 故於
 今諺曰
 「雉之頓使」
 是也。
 故、
 天若日子之妻・下照比賣之哭聲、與風響到天。
 於是在天、
 天若日子之父
 ・
 天津國玉藭、
 及
 其
 妻子聞而、
 降來哭悲、
 乃於其處
 作
 喪屋而、
 河雁爲岐佐理持(自岐下三字以音)、
 鷺 爲掃持、
 翠鳥爲御食人、
 雀 爲碓女、
 雉 爲哭女、
 如此行定而、
 日
 八日
 夜
 八夜
 遊也。
 此時、
 阿遲志貴高日子根藭
 (自阿下四字以音)
 到而、弔
 天若日子
 之喪時、
 自天降到
 天若日子之父、
 亦其
 妻、
 皆哭云
 「我子者
  不死有祁理。(此二字以音)、下效此。」
 「我君者
  不死坐祁理。」
 云、
 取懸
 手足而哭悲也。其過所以者、
 此二柱藭之容姿、甚能相似、故是以過也。
 於是
 阿遲志貴高日子根藭、
 大怒曰
 「我者
  愛友
  故
  弔來耳。
  何
  吾比
  穢死人。」
 云而、
 拔所
 御佩之十掬劒、
 切伏
 其
 喪屋、
 以
 足蹶離遣。
 此者
 在
 美濃國
 藍見河之河上、
 喪山
 之者也。
 其持所切
 大刀名、
 謂
 大量、
 亦名
 謂
 藭度劒。(度字以音)。
 故、
 阿治志貴高日子根藭者、
 忿而飛去之時、
 ↓
 其
 伊呂
 妹
 高比賣命、・・・妹の
         高比賣命(たかひめみこと)
         またの名は
         下光比賣命(したてるひめのみこと)
         兄は
         阿遅鋤高日子根=鉏高日子根
                  迦毛大御
               (かものおほみかみ)
 思顯
 其
 御名、
 故
 歌曰、
 ↓↑
 阿米那流夜 淤登多那婆多能
 あめなるや おとたなばたの→亜米名留也
               音多名葉他埜
 宇那賀世流 多麻能美須麻流
 うながせる たまのみすまる→有名臥施留
 促がせる          多真之見諏間留
 美須麻流邇 阿那陀麻波夜 →見素真留似
 みすまるに あなだまはや  亜名拿万葉也
 美多邇   布多和多良須 →見他似
 みたに   ふたわたらす  二渡らす
       蓋=亠(なべぶた冠)=「音」の略字
 阿治志貴多迦 比古泥能迦微曾也
 あじしきたか ひこねのかびそや
 亜字史記多寡 比虚音廼歌美素也
 此歌者、
 夷振(ひなぶり)→比名振理
 イシン・・・・・維新・異心・遺臣・以心
         医診・威信
 也。
 (天なるや 弟棚機の 項(うな)がせる
  玉の御統(みすまる)
  御統に
  穴玉はや
  み谷
  二渡らす
  阿治志貴高
  日子根の神ぞ)・・・?・・・岩波解釈
 「天上にいる機織女が首に掛けている玉の首飾り
  首飾りの穴の開いた玉のように、
  谷二つに渡っているのは
  阿治志貴高日子根である」・・・?
   ↓↑
 「日本書紀」
   ↓↑
 時
 味耜高彦根神
 光儀華艶映
 于(まわる・迂回)
 二丘
 二谷
 之間。
 故
 喪會者
 歌之曰。
 或云。
 味耜高彦根神
 之妹
 下照媛。・・・別名は「高姫・下照」
 欲令
 衆人
 知
 映
 丘谷者。
 是
 味耜高彦根神。
 故
 歌之曰。
 阿妹奈屢夜 乙登多奈婆多廼
 あめなるや おとたなばたの
 汚奈餓勢屢 多磨廼彌素磨屢廼
 うながせる たまのみすまるの
 阿奈陀磨波夜 彌多爾
 あなだまはや みたに
 輔柁和柁邏須 阿泥素企多伽避顧禰
 ふたわたらす あにそきたかひこね
 又歌之曰、
 阿磨佐箇屢 避奈菟謎廼
 あまさかる ひなとめの
 以和多邏素西渡 以嗣箇播箇柁輔智
 いわたらそせと いしかはかだふち
 箇多輔智爾 阿彌播利和柁嗣
 かたふちに あやはりわだし
 妹慮豫嗣爾 豫嗣豫利據禰→據=拠
 めしよしに よしよりこね
 以
 嗣箇播箇柁輔智
 しかはかだふち
 此
 兩首歌辭、
 今號
 夷曲。
 イキョク
  ↓↑
ーーーーー
 旧約聖書
 サムエル記
 撒母耳 記(下)
 ↓
第2章
2:1
この後、ダビデは主に問うて言った、
「私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)は
 ユダ
 の一つの町に
 上るべきでしょうか」。
主は彼に言われた、
「上りなさい」。
ダビデは言った、
「どこへ上るべきでしょうか」。
主は言われた、
「ヘブロンへ」。
2:2
そこで
ダビデはその所へ上った。
彼の
二人(ふたり)の妻、
エズレル
の女
アヒノアム
と、
カルメル
びと
ナバル

妻であった
アビガイル
も上った。
2:3
ダビデは
また
自分と共にいた人々を、
皆その家族と共に連れて上った。
そして
彼らは
ヘブロン
の町々に住んだ。
2:4
時に
ユダの人々がきて、
その所で
ダビデに油を注ぎ、
ユダ



王とした。
人々が
ダビデに告げて、
「サウルを
 葬ったのは
 ヤベシ
 ・
 ギレアデ
 の人々である」
と言ったので、
2:5
ダビデは使者を
ヤベシ

ギレアデ

人々に
つかわして
彼らに言った、
「彼方(あなた・貴方)がたは、
 主君
 サウル
 にこの
 忠誠を
 あらわして
 彼を葬った。
 どうぞ
 主が彼方(あなた・貴方)がたを
 祝福されるように。
2:6
 どうぞ
 主が
 いま
 彼方(あなた・貴方)がたに、
 慈(いつく・愛・ジ)しみ
 と
 真実を示されるように。
 彼方(あなた・貴方)がたが、
 この事をしたので、
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)も
 また
 彼方(あなた・貴方)がたに
 好意を示すであろう。
2:7
 今
 彼方(あなた・貴方)がたは
 手を強くし、
 雄々しくあれ。
 彼方(あなた・貴方)がたの
 主君
 サウル
 は
 死に、
 ユダ
 の
 家が
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)に
 油を注いで、
 彼らの
 王としたからである」。
2:8
さて
サウルの軍の長、
ネル
の子
アブネル
は、
さきに
サウルの子
イシボセテ
を取り、
マハナイム
に連れて渡り、
2:9
彼を
ギレアデ、
アシュル
びと、
エズレル、
エフライム、
ベニヤミン
および
全イスラエル


とした。
2:10
サウルの子
イシボセテ

イスラエル


となった時、
四十歳
であって、
二年の間、
世を治めたが、
ユダの家は
ダビデ
に従った。
2:11
ダビデが
ヘブロン
にいて
ユダの家の
王であった
日数は
七年

六か月
であった。
2:12
ネル
の子
アブネル、
および
サウルの子
イシボセテ
の家来たちは
マハナイム
を出て
ギベオン
へ行った。
2:13
ゼルヤ
の子
ヨアブ

ダビデの家来たちも出ていって、
ギベオン



そば
で彼らと出会い、
一方は
池のこちら側に、
一方は
池のあちら側に
すわった。
2:14
アブネル

ヨアブ
に言った、
「さあ、
 若者(わかもの・ジャクシャ)たちを
 立たせて、
 我々(われわれ・ガガ)の前で
 勝負をさせよう」。
ヨアブ
は言った、
「彼らを立たせよう」。
2:15
こうして
サウルの子
イシボセテ

ベニヤミン
びととのために
十二人、
および
ダビデの家来たち
十二人
を数えて出した。
彼らは立って進み、
2:16
おのおの
相手の
頭を捕え、
剣(つるぎ・ケン)を
相手の
脇腹(わきばら)

刺し、
こうして
彼らは
共に倒れた。
それゆえ、
その所は
ヘルカテ

ハヅリム
と呼ばれた。
それは
ギベオン
にある。
2:17
その日、
戦いは
非常(ひじょう)に
激しく、
アブネル

イスラエルの人々は
ダビデ

家来たちの前に
敗れた。
2:18
その所に
ゼルヤ

三人の子、
ヨアブ、
アビシャイ、
および
アサヘル
がいたが、
アサヘル



早いこと、
野の
カモ鹿(しか・ロク)
のようであった。
2:19
アサヘル

アブネル

後(あと・のち・ゴ)

追っていったが、
行(い・ギョウ・コウ・アン)くのに
右にも
左にも
曲ることなく、
アブネル
のあとに走った。
2:20
アブネル

後を
振向(ふりむ)いて言った、
「彼方(あなた・貴方)は
 アサヘル
 であったか」。
アサヘル
は答えた、
「私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)です」。
2:21
アブネルは彼に言った、
「右か左に曲って、
 若者(わかもの・ジャクシャ)の
 ひとりを捕え、
 その
 よろいを奪いなさい」。
しかし
アサヘル

アブネル
を追うことを
止(や・とめ・シ)めず、
ほかに
向かおうともしなかった。
2:22
アブネル

再(ふたた)び
アサヘル
に言った、
「私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)を
追うことをやめて、
ほかに向かいなさい。
彼方(あなた・貴方)を


撃ち倒すことなど、
どうして
私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)に
できようか。
それをすれば、
私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)は、
どうして
彼方(あなた・貴方)の

ヨアブ



合わせる
ことが
できようか」。
2:23
それでも
なお
彼は、
ほかに
向かうことを
拒んだので、
アブネル
は、
槍(やり・ソウ)

石突きで
彼の腹を突いたので、
槍(やり・ソウ)は
その
背中(せなか・ハイチュウ)
に出た。
彼は
そこに倒れて、
その場で死んだ。
そして
アサヘル
が倒れて
死んでいる場所に来る者は
皆立ちとどまった。
2:24
しかし
ヨアブ

アビシャイ
とは、
なお
アブネル

あとを追ったが、
彼らが
ギベオン
の荒野の
道の
畔(ほとり・ハン・辺)、
ギア
の前にある
アンマ

山にきた時、
日は暮れた。
2:25
ベニヤミンの人々は
アブネル

あとについてきて、
集まり、
一隊となって、
一つの
山の頂に立った。
2:26
その時
アブネルは
ヨアブに呼ばわって言った、
「いつまでも
 剣(つるぎ・ケン)を
 もって
 滅ぼそうとするのか。
 彼方(あなた・貴方)は
 その結果の
 悲惨なのを知らないのか。
 いつまで
 民に
 その
 兄弟
 を
 追うことをやめよと
 命じないのか」。
2:27
ヨアブは言った、
「神は
 生きておられる。
 もし
 彼方(あなた・貴方)が
 言いださなかったならば、
 民は
 おのおの
 その
 兄弟を追わずに、
 朝のうちに
 去っていたであろう」。
2:28
こうして
ヨアブは
角笛

吹いたので、
民はみな立ちとどまって、
もはや
イスラエルの
あとを追わず、
また
重ねて
戦わなかった。
2:29
アブネルとその従者たちは、
夜もすがら、
アラバ
を通って行き、
ヨルダン
を渡り、
昼まで
行進を続けて
マハナイム
に着いた。
2:30
ヨアブ

アブネル
を追うことをやめて帰り、
民をみな集めたが、
ダビデ
の家来たち
十九人

アサヘル
とが
見当らなかった。
2:31
しかし、
ダビデの家来たちは、
アブネルの従者である
ベニヤミンの人々
三百六十人

撃ち殺した。
2:32
人々は
アサヘル
を取り上げて
ベツレヘム
にある
その父の墓に葬った。
ヨアブ

その従者たちは、
夜もすがら行って、
夜明けに
ヘブロン
に着いた。
ーーーーー
 ・・・

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母の耳をばら撒く?

2015-06-24 00:41:54 | 古事記字源

 ・・・「耳(みみ・のみ・ジ」の漢字・・・平家の滅亡は「耳なし芳一(みみなしほういち)」によって語られた「安徳天皇や平家一門を祀った阿弥陀寺(赤間神宮、山口県下関市)を舞台とした物語」で、「小泉八雲」の「怪談」でも語られた。八雲が典拠としたのは、「一夕散人(いっせきさんじん)」著の「臥遊奇談・第二巻」の「琵琶秘曲泣幽霊」であった。「小泉八雲」は「1850年6月27日~1904年(明治37年)9月26日)は、 ギリシャ出身の新聞記者(探訪記者)、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家、 日本民俗学者」。 出生名はパトリック・ ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn) 」・・・「嘉永三年(1850)6月27日ギリシャのレフカダ島(リューカディア)でアイルランド人の父と、ギリシャ人の母との間に生まれた。 2歳の時、アイルランドの ダブリンに移住。後、父母の離婚により同じダブリンに住む大叔母(サラ・ブレナン)に引き取られた」・・・母の名は「ローザ・カシマティ」・・・十六歳の時に左目を失明。「隻眼」である。日本での14年間に13冊の本を出版。妻は「小泉湊」の娘「セツ」である・・・アメリカの女性ジャーナリストの「エリザベス・ビスランド(ビズランド)・ウェットモア (Elizabeth Bisland Wetmore)」と親交があった・・・「耳」に関するデータは揃った・・・カナ?・・・
 「撒母耳(サムエル)記」・・・ダイタイからして、ナゼ「サムエル(Samuel)=彼の名は神の意?=先見者→預言者」が「撒母耳」の漢字が与えられているんだか・・・妄想をタケてみる・・・「Hearn=ハーン」である。
 「Hearn」は日本語で「ヘルン」と表記された・・・「ウイッキペデア」の注記には「一般的には本人がサギ(heron・ヘレン・ヘロン)=鴫(シギ・ゴイ鷺も含む)と発音が似ていたから気に入ったとされる」・・・「鷺(さぎ・ロ)」の英語が「heron(ヘレン・ヘロン・エロン)」である。
 モチロン、「サギ」の漢字は「詐欺・詐偽」であり「茶義・茶木・佐木・作義」である・・・
 「撒(サン)・母耳(モジ)」
 「撒母(サンボ)・耳(ジ・ニ)」
 「撒(まく)=手+散(廿+月+攵)」
 「母(はは・も・カァ・カカ)→類字は毌(つらぬく・カン)、毋(ない・なかれ・ブ・ム)」、「耳(みみ・のみ・だけ)」・・・
 「サムエル(Samuel)」の
 父の名前は
 「エルカナ」、
 母の名前は
 「ハンナ(Hanna・Hanna; Hannah)」である・・・
 預けられた所が「シロ」、預けられた人物は神殿祭司の「エリ」・・・「日本書紀・古事記」にこれらの「カタカナ」を重ねるならば、
 「重留中(えるなか)」、
 「判名(ハンナ)」、
 「シロ(白・城・代・詞賂・史賂」
 である。「白」は「源氏」であり、「清和」であり、「新羅」である・・・天皇別に21(3×7)の流派であり、清和天皇の皇子のうち4人、孫の王のうち12人が臣籍降下し「武家団」を形成した・・・
ーーーーー
 ゲンジ
  ↓↑
 第六皇子
 貞純親王の子の
 経基王(源経基)の子孫が繁栄
 経基の子の
 源満仲
 (多田満仲)・・・・多田(ただ・オオタ)
           大田・太田→多伝
           おほたタネコ(種子)
 は、
 藤原北家の
 摂関政治に協力し
 摂津国
 川辺郡
 多田・・・・・・・・
 の地に武士団を形成
 彼の子である
 頼光、
 頼親、
 頼信
 らも父と同様に
 藤原摂関家に仕え
 主流となる
 頼信の嫡流が
 東国の武士団を支配下に置き
 源頼朝・・・妻は
       北条政子=尼将軍
       保元二年(1157年)
         ~
       嘉禄元年七月十一日(1225年8月16日)
 が
 鎌倉幕府
 の武家政権を確立
ーーーーー
  ↓↑
 「耳(みみ・のみ・ジ・ニ)」にコダワル・・・
 ↓
 漢文で限定(~だけ・~のみ)
 「耳」
 「而已」
 「已」
 「爾(尓)」
 「已矣」
 「而已矣」
 などは
 いずれも
 「~のみ」と読む
 非定形では
 「~ざるのみ」
 以下の漢字は単独でも
 「唯・惟・只・徒・特・独(獨)」
 「ただ~のみ」と読む
  ↓↑
  多他(他拿・多汰)の
 「蚤・鑿・呑・飲・爾・已・鐫」
 の「能美(濃尾)の能見」
  ↓
 耳元・空耳・早耳・福耳
  ↓
 耳垢・耳茸・耳朶・茸腫・耳漏
  ↓
 白耳義(ベルギー)
  ↓
 耳·耶·耿·耻·耽·耺·聊·聆·聒·聖
 聘·聡·聞·聟·聢·聚·聨·聦·聴·聲
  ↓
 以下は「直字」のボク的な解釈から程遠いが併記・・・?
 ↓
 四字熟語・・・カタカナを同音異字漢字にトライ・・・
 馬耳東風=聞き流し
      馬の耳は東の風
      バのジのトウのフウ
 掩耳盗鐘=耳をふさいで鐘を盗む
      エンのジのトウのショウ
 掩耳盗鈴=耳をふさいで鈴を盗む
      頭隠して尻を隠さず
      掩(エン)=被う・隠す・かばう
      掩護・掩蔽
      隠した耳で鐘(鈴)を盗む
      掩=手+奄→奄美
      エンのジのトウのレイ     
 鳶目兎耳=観察、傍聴、間諜・情報収集
      ワシのモク、ウサギのジ
 貴耳賤目=聞いて信じ込み、見て不信
      現実軽視、前例慣行重視
      キジのセンモク
 口耳講説=受け売り・エピゴーネン
      コウジのコウセツ
 口耳之学=軽薄、浅はかな学問、知識
      コウジ、シ、学
 口耳末学=軽薄な学問、知識
      コウジのマツのガク
 口耳四寸=受け売り・エピゴーネン
      コウジのシスン
 交頭接耳=内緒のハナシはアのネのネ
      コウトウのセツジ
 衆目衆耳=皆が知る、周知
      シュウモクのシュウジ
 飛耳長目=書籍・書物
      ヒジのチョウモク
 耳視目食=見栄張る
      ジシのモクショク(モクジキ)
 耳食之学=耳で聞いて実証せず
      ジショク、シ、学
 耳食之談=噂を信じて撒き散らす
      ジショクのダン
 耳豎垂肩=耳をたて、肩をおとす
      若造青二才のガッカリ?
      ジトウのスイケン
 耳聡目明=賢い
      ジソウのモクメイ(モクミョウ)
 耳提面訓=よく含み聞かせる
      ジテイのメンクン
 耳提面命=よく含み聞かせる
      ジテイのメンレイ
 耳聞目見=百聞は一見に如かず
      聴くよりも見れ
      ジブンのモクケン
 耳聞目撃=確かな見聞
      ジブンのモクゲキ
 耳聞目睹=確かなことは視覚
      ジブンのモクト
 耳目聡明=賢い奴
      ジモクのソウメイ
 耳目之欲=証拠不十分である
      ジモク、シ、ヨク
 充耳不聞=浮の空
      ジュウジぼフモン
 垂頭塞耳=頭を垂れ耳を塞ぐ
      スイトウのヘイジ
 舌敝耳聾=お喋りは厭(倦)きられる
      ゼツヘイのジロウ
 忠言逆耳=忠告は煩い
      チュウゲンの逆字→言中のジ・みみ
 長目飛耳=情報収集
      チョウモクのヒジ
 提耳面命=直面で命令、訓令
      テイジのメンレイ
 踏足付耳=踏む足に耳を付ける?
      トウソクのフジ
 俛首帖耳=ご機嫌取り・太鼓持ち
      フシュのチョウジ
 附耳之言=秘密は漏れやすい
      フジ、シ、ゲン→至言
         箴 言
       戒め、教訓の言葉
      「箴言集」=旧約聖書中の一書
 付耳之言=秘密は漏れやすい
      壁に耳あり
      フジ、シ、ゲン
 面命耳提=よく含み聞かせる
      メンレイのジテイ
 目食耳視=味よりも外見
      モクショクのジシ
 六十耳順=云い分は判るけど
      ロクジュウのジ順→陸拾の字順
      六拾(干支)の字順
      納音(ナッチン・ノウオン)
ーーーーー
 「日本書紀」
  ↓↑
 允恭天皇(インギョウテンコウ)
 第十九代天皇
 雄朝津間稚子宿禰尊
 (おあさづま わくごの-すく-ねの-みこと)
 男浅津間若子宿禰王
  ↓↑
 二年春二月丙申朔己酉
 ・・・
 初皇后
 隨母在家、
 獨遊苑中、
 時
 鬪鶏國造、
 從傍徑行之、
 乘馬而莅籬、
 謂
 皇后
 嘲
 之曰
 「能作園乎、汝者也。」
 汝、此云
 那鼻苔也。
 且曰
 「壓乞、
 戸母、・・・・・戸母 (とじ・トボ) ?
 其
 蘭一莖焉。」
 壓乞、
 此云
 異提。
 戸母、・・・・・戸母 (とじ・トボ) ?
 此云
 覩自。
 皇后
 則
 採
 一根
 蘭、
 與於
 乘馬者、
 因以、
 問曰
 「何用
  求
  蘭
  耶。」
 乘馬者
 對曰
 「行山撥蠛也。」
 蠛、
 此云
 摩愚那岐。
 時
 皇后、
 結之
 意裏
 乘馬者
 辭旡禮、
 卽謂
 之曰
 「首也、
 余
 不忘矣。」
 是後、
 皇后
 登祚之年、
 覓乘馬乞
 蘭者
 而
 數
 昔日
 之罪
 以
 欲殺、
 爰乞
 蘭者、
 顙搶地
 叩頭曰
 「臣
 之罪
 實當
 萬死。
 然
 當
 其日、
 不知貴者。」
 於是
 皇后、
 赦
 死刑、
 貶其
 姓
 謂
 稻置。
 五年秋七月丙子朔己丑、
 地震。
 先是、
 命
 葛城襲津彥
 之
 孫
 玉田宿禰、
 主
 瑞齒別天皇之殯。
 則當
 地震夕、
 遣
 尾張連
 吾襲、
 察
 殯宮之消息、
 時
 諸人悉聚無闕、
 唯
 玉田宿禰
 無之也。
 吾襲奏言
 「殯宮大夫
  玉田宿禰、
  非見
  殯所。」
 則
 亦
 遣
 吾襲
 於
 葛城、
 令視
 玉田宿禰、
 是日、
 玉田宿禰、
 方集
 男女而酒宴焉。
 吾襲、
 舉狀、
 具告
 玉田宿禰。
 宿禰
 則
 畏有事、
 以
 馬
 一匹
 授
 吾
 襲
 爲
 禮幣、
 乃
 密遮
 吾襲
 而
 殺
 于道路、
 卽
 逃隱
 武內宿禰
 之
 墓域。
 冬十有一月甲戌朔甲申、
 葬
 瑞齒別天皇・・・
 于
 耳原陵。
  ↓↑
 卌二年春正月乙亥朔戊子、
 天皇崩、
 時年若干。
 於是
 新羅王、
 聞
 天皇
 既
 崩
 而
 驚愁之、
 貢上
 調船
 八十艘
 及
 種々
 樂人
 八十、
 是
 泊
 對馬
 而
 大哭、
 到
 筑紫
 亦
 大哭、
 泊于
 難波津
 則
 皆
 素服之、
 悉捧
 御調
 且
 張
 種々樂器、
 自
 難波
 至
 于
 京、
 或
 哭泣
 或
 儛歌、
 遂
 參會
 於
 殯宮也。
 冬十一月、
 新羅
 弔使等、
 喪禮
 既
 闋
 而
 還之。
 爰
 新羅人、
 恆愛
 京城
 傍
 耳成山・・・・
 ・
 畝傍山、・・・
 則
 到
 琴引坂、
 顧之曰
 「宇泥竎巴椰、
  彌々巴椰。」
 是
 未習
 風俗
 之
 言語、
 故
 訛
 畝傍山・・・
 謂
 宇泥竎、・・
 訛
 耳成山・・・
 謂
 瀰々耳。・・
 時、
 倭飼部、
 從
 新羅人
 聞
 是辭
 而
 疑之以爲、
 新羅人
 通
 采女耳、
 乃
 返之
 啓于
 大泊瀬皇子。
 皇子
 則
 悉禁固
 新羅使者
 而推問、
 時
 新羅使者
 啓之曰
 「無犯采女。
  唯
  愛京
  傍之
  兩山
  而
  言
  耳。」
 則
 知
 虛言、
 皆原之。
 於
 是
 新羅人
 大恨、
 更
 減
 貢上
 之
 物色
 及
 船數。
 冬十月庚午朔己卯、
 葬
 天皇
 於
 河內
 長野原陵。
ーーーーー
 ↓↑
 大和三山
 畝傍山(うねびやま)
  ↓
 「畝」=せ・うねる・ホウ・ボ
     亠(トウ・ズ)+田(た・デン)
             +
             久(ひさしい・キュウ)
     亠(なべぶた・音の略字→おと・おん・ね)
             田=囗(くに・コク)
               +
               十(とう・ジュウ)
 「傍」=かたわら・そぼ・ボウ・ホウ
     イ(人・イ)+旁(かたわら・ボウ)
       旁=亠+八+冖+方
 「山」=やま・サン・ザン
     |(ぼう・コン)+凵(くぼむ・あな
                カン・コン)
  ↓
 畝=トウデンキュウ→東伝究(求)・唐伝求(究)
 傍=ジンボウ→人望・神保・訊氓(流民)・尋虻
 山=サンカン→三巻・三韓・纂刊・残痕
  ↓
 かつては
 「畝火山」は、
 「雲根火山」、・・・・ウンコン火山
 「宇禰縻夜摩」・・・・ウネビ山
            宇=のき・いえ・そら
              ウ
            禰=みたまや・おたまや
              ネ・デイ
            縻=きづな・つなぐ
              ビ・ミ
              類字は
              「靡(なびく)」
              邪靡堆→堆→小碓
              則
              魏志
              所謂
              邪馬臺者也
              隋書俀国伝
 とも記され、
 「慈明寺山」、・・・・ジメイジサン
 「御峯山」・・・・・・オンホウサン
 などと呼ばれることもあった
 万葉集の中では
 「瑞山(みずやま)」・・・ズイザン・スイサン
             瑞=たま・しるし・みず
             瑞皐=高野長英
             瑞典=スエーデン
             瑞西=スイス
 とも
 詠まれた
  ↓
 畝傍=「火がうねる」
    田の畝のように
    くねくねした尾根を多く持つことから
 瀬戸内火山帯に属し
 古代人がこの山を火山と認識していた・・・
 頂上近くの緩い傾斜面部分は、
 黒雲-母安山岩から形成
 柘榴(石榴・ざくろ)石・・・
 黒-雲母-流紋岩・・・・・・・
 の
 流離構造を示す
 貫入岩も存在
 釣鐘型・・・・・・・・・・
 の火山のような
 山容を持つが、
 第三紀に噴出した
 火山岩が侵食されて、
 その一部のみが残存した
 侵食地形である。
 噴火時の大きさは
 現在の2倍以上であった・・・
 中腹以下の部分は
 片麻岩・・・・・・・・・・
 で形成
 江戸時代より以前
 山に70以上もの寺院があった・・・
 現代でも西麓には
 曹洞宗慈明寺が残る。
  ↓↑
 明治に入ってから、
 国は
 神武天皇の
 宮(畝傍橿原宮)があったとされる
 畝傍山の麓に
 橿原神宮を興し、
 それまで
 多武峰
 で
 奉斎してきた
 神武天皇の
 「御霊」を移した
  ↓
 付近には
 藤原京跡、
 飛鳥京跡
 などの
 都城跡や古墳群がある。
 万葉集
 「思ひあまり
  甚(いた)もすべ無み
  玉だすき
  畝火の山に
  われは
  標(しめ)結ふ (巻7-1335)・作者不詳」
  ↓↑
 天香久山
 天香具山(あまのかぐやま、あめのかぐやま)
 香久山、香具山(かぐやま)
 三山の中では標高は
 2番目
 他の二山が
 単独峰であることに比して
 多武峰から続く
 竜門山地の端にあたる
  ↓↑
 太古の時代
 多武峰から続く山裾の部分
 その後の
 浸食作用で失われなかった
 残り部分といわれている。
 小高い丘
 古代から
 「天」という尊称が付く
 天から山が
 2つに分かれて落ち、
 1つが伊予国(愛媛県)
 「天山(あめやま)」となり
 1つが大和国
 「天加具山」になったと
 『伊予国風土記』逸文に記録
 藤原京の東にある
 山頂からは畝傍山を望むことができる
 山頂には
 國常立命を祭神とする
 國常立(くにとこたち)神社
 小さな祠のうちの1つには
 高靇神が祀られている。
 北麓には
 櫛真智命神(くしまちのみことのかみ)を
 祭神とする
 天香山(あまのかぐやま)神社
 南麓には
 天照大神の
 岩戸隠れの伝承地とされる
 岩穴や巨石を神体とした
 天岩戸(あまのいわと)神社がある
  ↓↑
 「天」を含む
 「天香久山」
 と
 「天香具山」、
 および
 「天」を含まない
 「香久山」
 と
 「香具山」
 の各表記があるが、
 国土地理院の地図では
 「天香久山」
  ↓↑
 この山は
 万葉集に
 単独で
 9首
  ↓↑
 舒明天皇の歌
 「大和には
  群山あれど
  とりよろふ
  天の香具山
  登り立ち
  国見をすれば
  国原は
  煙り立ち立つ
  海原は
  かまめ立ち立つ
  うまし国ぞ
  あきづ島
  大和の国は (巻1-2)」
 原文
 「山常庭
  村山有等取
  與呂布
  天乃香具山
  騰立
  國見乎為者
  國原波
  煙立龍
  海原波
  加萬目立多都
  怜𪫧國曽
  蜻嶋
  八間跡能國者」
  ↓↑
 中大兄皇子の歌
 「香具山は
  畝傍を
  をしと
  耳梨と
  相争ひき
  神代より
  かくにあるらし
  古(いにしへ)も
  然(しか)にあれこそ
  うつせみも
  妻をあらそふ
  らしき (巻1-13)」
 原文
 「高山波
  雲根火雄
  男志等
  耳梨與
  相諍競伎
  神代従
  如此尓有良之
  古昔母
  然尓有許曽
  虚蝉毛
  嬬乎相挌
  良思吉」
  ↓↑
 持統天皇の歌
 「春過ぎて
  夏来たるらし
  白たへの
  衣干したり
  天香具山 (巻1-28)」
  ↓↑
 大伴旅人の歌
 「わすれ草
  わが紐に付く
  香具山の
  故(ふ)りにし里を
  忘れむがため (巻3-334)」
  ↓↑
 作者不詳
 「いにしへの
  事は知らぬを
  われ見ても
  久しくなりぬ
  天の香具山 (巻7-1096)」
  ↓↑
 柿本人麻呂の歌
 「久方の
  天の香具山
  このゆふべ
  霞たなびく
  春立つらしも (巻10-1812)」
  ↓↑
 膳(かしわで)氏の・・・高橋膳部
 本拠地にして、
  ↓↑
 聖徳太子妃、
 膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)
 の生家
 山の
 北の地名は
 膳夫町(かしわてちょう)・・・
ーーーーー
 ・・・

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