切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

本満寺・仏陀寺・十念寺・阿弥陀寺 京都市上京区・・・何れもよく整備されたお寺、花もそこそこ

2018-06-14 00:05:44 | 撮影

 5月下旬、花の撮影を求めて4箇所のお寺を回ってきた。
 この4箇所は出町柳のすぐ近く。鴨川西側にある寺町通に面している。お互いに隣り合う4箇所のお寺だ。
 回った順番に花撮影のみについて紹介するが、本満寺については既に、桜などで紹介済みなので、そちらを参照してほしい。あとの3箇所は何れも駒札の説明書きをそのまま載せておくので、参考にしていただいたらと思う。

1.本満寺
 桜があまりにも見事だったので、その後どのような花が咲いているか期待して行った。枝垂れ桜は見事な緑の葉桜になっていた。境内のあちこちに皐月やつつじが咲いており、さらに桔梗などの花も綺麗な色を放っている。決して多いわけではないが、境内にまんべんなく広がっており、お寺全体にいい雰囲気をもたらしている。やはり花の寺としていろいろ紹介されているだけのことはあると思う。次は多分、秋の紅葉になると思うが、大きな期待を持つことができる。
 なお前にも言ったように、植物については極めて苦手で、花の名前についてはかなり不確かである。写真見ていただいて確認してもらえればと思う。

            

2.『佛陀寺
 大蔵院佛陀寺と号し、朱雀・村上天皇を開基とする勅願所の古刹で、西山浄土宗に属す。
 平安朝の昔、朱雀天皇が天慶九年(九四六)ご讓位の後、醍醐天皇の菩提のために日蔵道賢上人を戒師として落飾し、法名を佛陀寺と号し朱雀大路の仙洞に遷られ天歴六年(九五二)崩御された。よって村上天皇はその仙洞朱雀院を改めて寺とし、先帝の遺志を継いで別殿大蔵院を建立し、又法号に因んで佛陀寺と称せられたのが当寺の興りて、村上天皇も晩年日蔵上人について落飾し、覚貞法皇となられた。
 中世室町時代、堂塔は萬里小路春日の北(今の御所御苑東南)にあったが、文正二年(一四六七)応仁の乱で焼失したため、暁堂邦諫上人が後土御門天皇の帰依をうけ文明八年(一四七六)土御門西洞院(今の上長者町西洞院)の地に中興して以来、勅願所となり新たに浄土門西山西谷流を伝える寺となった。
 邦諫は、当代浄土門を代表する法器で、動乱相次ぐ京洛を中心に畿内各地を隈無く巡錫し、盛んに法輪を論じ、庶民の帰依を一身に集めたが、その獅子吼の説法は雲上にも轟き内裏に居並ぶ殿上人を随喜感動せしめたほどで、西三条実隆公記には「法味神炒驚く河し」と、又「弁説火を吐き感涙を催す」と記されている。
 一条烏丸の地より現在の地に移ったのは天正十九年、秀吉の𨨶土居樂造の頃で、当寺の建造物は万治四年(一六六一)と天明八年(一七八八)との再度の大火に類焼したため、現在の堂宇は総てその後の造営である。
 山門脇には朱雀天皇の守護佛であり平安京の守護佛である王城地祭地蔵を安置している。
 本堂の本尊阿弥陀如来座像(重文)は温和で端正な尊像で、衣文の写実なところから平安時代の造顕といわれ、寄木造金箔押、高さは約九〇糎て、中品中生の説法印をむすぶ。』
 (駒札より)

 こちらも本満寺同様、境内のあちこちに皐月やつつじ、その他の花が赤や紫などの綺麗な色を放っていた。境内全体も綺麗に整備されており、非常に好感が持てる。
 本堂には重要文化財の阿弥陀如来坐像があるが、がっちり閉まっていて見ることはできなかった。その代わり王城地祭地蔵を見ることはできた。全体的な規模は決して大きくはないが、こじんまりした中に落ち着いた優雅な雰囲気を漂わせている。是非とも本尊の阿弥陀如来を見てみたいと思う。

          

3.『十念寺
 華宮山宝樹院と号し、西山浄土宗に属する寺である。
 永享三年(一四三一) に後亀山天皇の皇子・真阿上人が、室町幕府六代将軍足利義教の帰依を受け、元誓願寺通小川にあった誓願寺内に一坊を建てたのが始まりで、天正十九年(一五九一)に豊臣秀吉によってこの地に移された。
 本堂は、建築家としても知られる一心寺(大阪市) の住職の設計により、平成五年(一九九三) に建立された近代的な寺院建築で、東山の旧雲居寺にあった平安時代のものといわれる阿弥陀如来坐像が安置されている。
 寺宝として、室町時代の説話絵である仏鬼軍絵巻一巻(重要文化財)などを所蔵している。
 寺内には、足利義教をはじめ、後陽成天皇の皇子・高雲院宮、医者として活躍した曲直瀬道三、施薬院全宗、鋳造師・金座銀座両家、徳大寺公城などの墓がある。
 京都市』  (駒札より)

 こちらはなぜか、山門もすぐ横の出入口も閉まっていて、中に入ることができなかった。山門から眺めた範囲内では、本堂らしき建物があり、後は緑に覆われていて花そのものは目に入らなかった。
 この日たまたま閉まっていたのか、それとも普段からこうなのかはわからない。またの機会があれば訪れてみることにしよう。

  

4.『阿弥陀寺
 蓮台山と号する浄土宗の寺院で、本尊は丈六の阿弥陀如来である。当寺は天文年間(一五三二~一五五四)、清玉上人の開創になり、当初は西ノ京蓮台野芝薬師西町(現在の今出川大宮東)に八町四方の境内と塔頭十一ケ寺を構えていた。また当時、正親町天皇は清玉上人に深く帰依し、東大寺大仏殿の勧進職を命じるとともに、当寺を勅願所とされた。
 清玉上人は織田家と深い親交があり、天正十年(一五八二)六月二日の本能寺変の折、本能寺等にかけつけ、織田信長、信忠父子及び家臣百有余名の遺骸を当寺に埋葬したといわれる。
 本堂には織田信長、信忠父子の木像等が安置され、墓地には信長、信忠や本能寺の変討死衆の墓、儒者皆川淇園、俳人蝶夢の墓等がある。京都四十八願寺巡拝の十六番札所でもある当寺は、天正十五年(一五八七)、蓮台野からこの地に移され、現在に至っている。
 京都市』 (駒札より)

 最後に回った阿弥陀寺。ここも同様な規模で典型的なお寺らしいお寺。境内もきれいに整備されており、ツツジやサツキなどの花が本堂の周辺に綺麗に咲いていた。ただ全体的には花は少なく、境内の一部のみという感じになる。
 このお寺は織田家との関わりがあり、信長の墓や彼に関わる人物の墓などもあるとのことで拝見してきた。信長の墓所については諸説あるらしいが、大正時代に宮内庁調査によって、このお寺の墓所が信長の物だと確認されたとのことらしい。学術的な真偽については他の可能性もあるんだろうと思う。

        

 午後から4ヶ所回ったが、お互いに隣り合っているので、その意味では非常に楽だった。しかも全て交通の便の良い所であり、お寺の駐車場に駐めて比較的短時間で回れるのが良い。すぐ近くには御霊神社をはじめとして、相国寺など有名寺院も多いので、この近辺を徒歩で回るのも非常に良いと思う。
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