『ニメとツバメと、あと一人』
「どうしてニメさんは、あんな事を言ったんだろう」
二十歳を迎えた近野ツバメは、鼻に微かな彼女の残り香を感じながら、安アパートの一角で、ただ悶々としていた。
ツバメと歳は同じ、背格好はツバメより小さい、だけど何故か、自分より手慣れた大人を感じさせる、そんな魅力的な女性。思い人、坂下ニメへの抗えない恋愛感情は増すばかり。
(……どうにか、してくれる?)
誘惑されて理性が飛び、ただ己の熱情に駆られて、ニメとしてしまった初めてのキス。
そして、その後の『大人の階段』手前の行動を思い出せば、沸騰するほど頬が熱くなり、何とも言えない満たされた気持ちになる。
だが、そんなツバメにも一つ、疑問があった。
「あの時ハト時計がならなかったら、ニメさんは本当に僕を受け入れてくれたんだろうか。ううん、それより、ニメさんが言った、デートの相手って……」
あの時。
大胆なニメの甘い言葉にそそのかされて、ツバメの理性のブレーキは壊れていた。
ツバメが感情に任せて行動に移ろうとした時、ニメは部屋にあったハト時計の音を聞いて、幾つかの素っ気無い言葉を残し、期待に胸膨らますツバメを置いて、そそくさと部屋を出て行ったのだ。
ツバメの思い人。他ならぬニメの方から誘ってきたはずなのに、ツバメは彼女の言った「デートの相手」が気になっていた。その時、始まるはずだった、互いの愛欲を確認する行為を前に、肩透かしを食らったような他の男の存在を意味する、「デート」という言葉。
そしてニメが部屋を出る前に言った、最後の言葉。
「嘘つきだけど、好き。って、どういう事なんだ……」
ツバメは明らかに混乱していた。
思い返せば、まだ唇に残る小悪魔のぬくもりと、微かに香る彼女の匂いを頼りに、ツバメはベッドの上に寝転びながら、ありもしない妄想を始めた。
実はニメは、ああ見えて純潔で、最期までするのが怖くなって、あんな嘘を言ったのでは。
実はニメは、ああ見えて雰囲気を大事にするタイプで、ハト時計に雰囲気をぶち壊されたのを怒っているのでは。
実はニメは、ああ見えて純情で、結婚するまでそういう行為は親に禁止されているとかなんじゃ。
……実はニメは、ああ見えて性悪で、他の男との約束の前に、俺をからかって面白がっていたんじゃ。
「考えれば考えるほど嫌な気持ちだ。こんな事なら、あんな事無かった方が良かった」
ツバメはそう言ったが、脳裏には彼女のぬくもりと匂いが鮮明に焼きついており、消そうと思っても消えない記憶の一部は、眼を閉じれば明確に見えてくる。初めてマジマジと見たニメの顔、直に触れたニメの肌、耳元で聞こえた誘うようなニメの声。ただ上ずった声をあげ、終始オドオドしていたツバメとは違い、ニメのそれはどれも甘美で、刺激的。
ニメという女性の全てを愛してしまった、ツバメという愚かな男は、彼女へ悶々とした気持ちを覚えながらも、何をして良いのかわからず、今また愚かな行動に及ぶ。
携帯は無造作にニメの番号……ではなく、一学年上の先輩、カナメにかけられていた。
――――
「お、やっと来たのねツバメ君」
「す、すいません。夜分遅くに呼びつけちゃって」
「良いの良いの。相方がぶっ倒れちゃって、ちょうど暇してたとこなのよ。で、話したいことって何? 前に言ってた好きな子がどうとかって話?」
「ええ、まあ……」
次の日が休講ということもあり、カナメは今日も自分のエスコート役を連れて、気に入りのショットバーに入店していた。
どんなに高いアルコール度数を誇る酒も、水のようにケロッと飲むので有名な酒豪、学年一の女傑と謳われるカナメの相手をし、酔いつぶれてしまったエスコート役の男性を尻目に、ツバメはクリーム色のコートを椅子にかけ、カナメの隣に座った。
そして、今日ニメがとった行動について、今自分が思っている事について、取り留めのない相談をニ、三、繰り返した。
「あー、ニメちゃん? んー、あの子は学年上の男どもの話でも、あんまり良い噂は聞かないわね」
新たに運ばれてきたモスコミュールを間髪いれずに飲み干すと、カナメは似合いの眼鏡をクイッと持ち上げ、虚ろでぼやけた焦点を隣に座るツバメに向ける。
「で、ツバメ君は恋をしちゃったニメちゃんにお預けくらって、悶々としちゃってるという訳ね。おもに下半身が」
「かっ、下半身って! カナメさんには、僕がそんな男に見えますか!」
気恥ずかしさからか、ツバメは慌てて椅子から背を離し、カナメに向かって否定の言葉を投げかけた。
だが、カナメはまるで動じていない。むしろ、運ばれてきた新しいカクテルを手に取り、顔を真っ赤にするツバメを前にして、笑っている。
「はっはっは、見える見える。もう少しでニメちゃんと最期までデキたのに、悔しいって顔に書いてあるよ」
「な、何言ってるんですか! カナメさんは知ってるでしょ。僕が恋愛一つまともにした事がないって、だから僕はニメさんのとった行動について、知りたいですよ! か、下半身とか……そういうのは抜きで!」
「やれやれ、そんな事言われてもね。説得力ないよなぁ」
「何がですか! 僕は純粋にニメさんのことが……」
「だからさ。ニメちゃんに、期待しちゃってるんでしょ。それ」
少し酒の入ったツバメの語調は、いつになく強かったが、カナメが指でニ回ツバメの下半身のある箇所を指すと、ツバメは何かを隠すように慌てて椅子に座り、恥ずかしさの余りアワアワと口ごもったあげく、そのまま笑顔を浮かべてカクテルを煽るカナメの顔も見ず、押し黙った。
カナメに話をするうちに、あの時ニメとしたことを思い出して、ある部分が思いがけず『隆起』してしまっていたのだ。
いくら良く知る先輩のカナメだからと言って、女性に男の生理現象を指摘されるのは、この上もなく恥ずかしい。顔を真っ赤にし恥ずかしさを堪えるツバメ、それをカクテルを煽りながらケタケタと笑うカナメ。
深い夜に入るショットバーのカウンターで、隣同士の対照比。
口を先に開いたのは、やはりカナメだった。
「ウブねえ。あの子に……ニメちゃんに、そんなに期待しちゃったわけ?」
「……」
ツバメは頭の中で、台形の面積の求め方を繰り返し唱えて、下半身の一刻も早い納まりを念じながら、カナメの呟きを耳に入れていく。
「まっ、確かに可愛い子だとは思うけどね。やめといたほうが良いと思うよ」
「……なんでですか」
ツバメは、呪文を唱えながら質問する。
カナメは、カクテルグラスの遠くに映る酒瓶を、眼鏡の奥の細目で覗きながら、言い難そうに、こう口ずさんだ。
「そりゃあんた。なんていうか、その……。ツバメ君みたいなウブな子には、不釣合いだよ。あの子は特に」
その時のカナメの歯切れの悪い言葉を聞いて、ツバメは一つ思い出した。
そう、部屋を出る時にニメが言った、他の男の存在を感じさせた、デートの事だ。
「も、もしかして……」
ツバメの怪訝そうな表情を察しながら、まだカクテルグラス越しに、遠くを見つめるカナメ。
「知ってるんですか? ニメさんが……彼女が……付き合ってる人の事」
カナメはツバメの声を聞く前に、見つめていたカクテルグラスを、己の口の中へと煽った。
気付けばツバメが来てから、彼女が注文したカクテルも、六杯目を数えていた。
「カナメさん……知ってるんですね。ニメさんが、デートするって言ってた人の事」
「知ってどうすんのさ。ウブなツバメ君には、少し刺激が強すぎる内容なんだよ?」
口ぶりからして、カナメは確実に知っている風だ。
だからこそ、ツバメは気になってしまう。
「それに、知ったらツバメ君も私も不幸になる。お互いに損するのなんて、馬鹿らしいじゃない?」
「……」
ツバメは押し黙りながらも、心は憤慨していた。
誰だ。
愛しいニメの心を奪って、僕から遠ざけるのは一体誰だ。
あの顔を、あの肌を、あの声を、あの心を、自由に奪って弄んで、ただ一人ニメ自身から愛する事を許された、その男は誰だ。
カナメの煮え切らない言葉を聞けば聞くほど、ツバメの心は、まだ顔をあわせたこともない、ニメを奪った男への憎しみと嫉妬に支配されていく。
「言ってくださいよカナメさん。僕は、覚悟してますから。言ってくださいよ」
ツバメの口ぶりは、いつになく饒舌で、強い。
気迫の内から禍々しい殺意さえ感じさせる、冷徹なる意思こそが、今、愛を失いかけたツバメを支えている、何か。
「うーん、私の口からは言い難いんだけどねえ……」
と、迫るツバメの勢いに負け、カナメが言おうとした、その時であった。
バァン!!
「あっ! カナメお姉さま、こんなとこに居たのね! もう探したんだから!」
ショットバーの扉を、ぶち破らんがばかりの勢いで入店してきたのは、コートを翻し、マフラーを首に巻きつけ、細い足に力強くブーツを履きこんだ、渦中の人物、坂下ニメ、その人だった。
「に、ニメさん!?」
「ありゃりゃ。見つかっちゃったわ」
「お姉さまっ! 私を寒空の下に置いて、何処か行くなんて、酷いです!」
まさかのニメの登場にさっきまでの迫力は何処吹く風で驚くツバメ、しまったと頭を抱えるカナメ、そして泣きそうな顔で怒り、カナメの席へと近づいてくるニメ。
「でも、そんなカナメお姉さまの冷たいところも、好きーっ」
二メの泣き顔は、頭を抱えるカナメの姿を見て一変し、つぶらな眼を閉じて、カナメの背を抱く。
カナメは、背中に当たる二メの胸板を感じながら、ただ横で呆然とするツバメを見て、バツが悪そうに、こう言った。
「まあ、そういうわけなんだ。ごめんね。ツバメ君」
「えっ!?」
「カナメお姉さまー今度こそデートしてくださいねー!」
「えっ!?」
ツバメは、それぞれが投げかける言葉の情報量の多さに、何処から突っ込んで良いかわからなくなった。
目の前には、今まで見たこともない、子どものようにカナメにせっつく二メと、眼鏡の内にクールさを秘めるカナメの、ニメへのニヒルな視線、そこに隠されたこそばゆい笑顔。
超高速に情報処理を続けていたツバメは、それを見て何かを察した。
ツバメを誘惑したニメが、出て行く時に言ったデートの相手はカナメで、ツバメはニメに、ニメはカナメに、恋をしていたという事。
全ての謎が解けて、全ての疑問が消えたその時、ショットバーに、男の奇声があがった。
「ええええっ!? そういうことーーーっ!?」
近野ツバメ、二十歳。
彼の苦労は、まだまだまだ続く。
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>後書き
この話の大本は、
これ。
個人的な感想よりも、返答代わりに短編書いたほうが早い……いや、
仕返しのカウンタージャブ代わりになって調度良い
と、思いまして、ちょっと手早く仕上げた次第でござい。
続編と言いつつも、完全kirekoテイストになっているので、
設定読み間違えとかあったら、教えてくれるとありがたい。
以上。
寝るわよ!
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