東アジア歴史文化研究会

日本人の素晴らしい伝統と文化を再発見しよう
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共産主義者に操られたルーズベルト大統領が、日本を開戦に追い込み、ソ連を護り育て、世界に戦争の危機をばらまいた(国際派日本人養成講座)

2018-04-05 | 歴史の真実
■1.「狂人(ルーズベルト)の欲望」

米国の第31代大統領ハーバート・フーバーは、退任後の昭和21(1946)年5月、日本を占領中のマッカーサー総司令官を訪れて対談した。そこで次のようなやり取りがあった、とフーバーは記録している。

「日本との戦争の全ては、戦争に入りたいという狂人(ルーズベルト)の欲望であった」と私(フーバー)がいうとマッカーサーは同意した。・・・

私(フーバー)は更に続けて次のように言った。「1941年7月の(日本への)経済制裁は、・・・例え自殺行為であると分っていても、日本に戦争を余儀なくさせるものであった。なぜなら、この経済制裁は、殺人と破壊を除く、あらゆる戦争の悲惨さを(日本に)強制するものであり、誇りのある国ならとても忍耐できるものではないからだ」。この私の発言にもマッカーサーは同意した。[1,p7] ・・・

さらにマッカーサーは言葉を続けて「ルーズベルトは1941年の9月に近衛と和平を達成できたはずだ。そうすれば太平洋と中国の自由、そして恐らく満州の自由を確保するというアメリカの目標をすべて獲得出来ていたに違いない」と言った。

フーバーはルーズベルト大統領の前任者で、その回想録"Freedom Betrayed(『裏切られた自由』)が47年ぶりに出版された。そこでは第二次大戦が「民主主義 対 全体主義」の戦いだったというアメリカの史観は完全に否定されている。この回想録が完成後半世紀近くも刊行されなかったという事実が、その衝撃を表している。

同様の史観は今までにいろいろな歴史学者、軍人、政治家が発表して、弊誌でも紹介してきたが[a,b,c]、前大統領の発言となれば重みが違う。しかもフーバーは30冊もの著書を残した著述家であり、20数年かけて、後に資料25百万点を備えるスタンフォード大学のフーバー研究所に発展するほどの資料を収集して書いたのが、この本なのだ。

あと20年もすれば、この史観が世の定説になるのではないか。そのためにも、まず日本人自身がこういう本を読んで、自虐史観から脱しなければならない。今回は、フーバーの著書から、ルーズベルトが日本を開戦に追い込んだ経緯を見ていこう。

■2.共産ロシアを1933年11月に承認

フーバーはルーズベルトが冒した19の過ちを列挙しているが、その2番目に以下がある。

ルーズベルトの第2の失策が、共産ロシアを1933年11月に承認したことである。四人の大統領と、五人の国務長官にわたって、共和党か民主党かを問わずに、そのような承認行為を、(国際共産主義運動の目的と手法の全体を知った上で)ずっと拒否してきた。

共産主義者は、宗教の信仰、人間の自由と民族や国家の独立をぶちこわすようなばい菌を運び、アメリカに浸透してくることを、彼ら(四人の大統領と五人の国務長官)は知っていたからである。彼らは、米国が共産ロシアを承認すれば、ソ連の威信と国力が高まることを知っていた。

ルーズベルトが(スターリンと)結んだ愚かな合意、つまり共産主義者は、米国の国境の内側では活動しないという約束は、48時間後には公然と反故にされた。共産主義の機関車と、それに乗った共産主義の乗客が、政府の高いレベルに入り込み、第五列の活動が全国にひろがり、フランクリン・ルーズベルトが大統領であった12年間に亘って、国家反逆者の行為が長く続く事になった。

ルーズベルト政権に多くの共産主義者が入り込み、その政策を親ソ反日にねじ曲げていった様子がヴェノナ文書などで明らかにされている。公民権活動や、中国支援などの看板を掲げつつ、内実はソ連のために活動していた組織が1千もできた。これが日米開戦の悲劇の最大の要因となった。

■3.ソ連への軍事支援、航空機1万4千7百機、、、

ルーズベルト政権の親ソ路線は、ますます露骨になっていく。

アメリカの歴史の全史を通じてもっとも政治の大道が失われたのが、ヒトラーがロシアを1941年に攻鑿したときに、共産ロシアを支援して、アメリカとロシアが非公然の同盟関係になったことである。・・・

ロシアを米国が支援すると言うことは、共産主義が世界に広がることであった。ドイツとロシアの戦争に米国は巻き込まれるべきではなかった。平和が持続するという最大のチャンスがあったのだが、ルーズベルト大統領は、その機会を捉えることができなかった。

共産主義のソ連とナチスドイツの二つの全体主義国家が戦っているのだから、アメリカは独ソ戦を傍観していれば、とも倒れになり、アメリカも欧州も「平和が持続するという最大のチャンスがあった」というのが、フーバーの考えである。

それなのにルーズベルトはソ連に対して凄まじい軍事支援を行う。その内容は、航空機1万4千7百機(零戦の全生産量に匹敵)、戦車7千両、装甲車6千3百両、トラック37万5千台、ジープ5万2千台という規模であった。

もちろん、これだけの規模の軍事支援は、ルーズベルトだけでなく、実務面も含めて多数のソ連工作員が政権内に蠢(うごめ)いていたからこそ、可能になったのだろう。

■4.経済封鎖による「宣戦なき戦争」

第5の誤りは、41年の冬にルーズベルト大統領が、米国がドイツと日本に対して、宣戦をしないで戦争を始めた事である。これは、数週間前の大統領選の公約に全面的に違反するものであった。

1940年秋、ルーズベルトは、「米国は海外でのいかなる戦いにも巻き込まれない」との公約で、大統領再選を果たした。そのわずか数ヶ月後の41年冬には、日独に対して経済封鎖という「宣戦なき戦争」を始める。

同年1月、幕末に黒船の圧力で強要した日米友好通商条約を破棄し、いつでも日本に対する原油や鉄鋼などの輸出を止めることができるようになった。「経済封鎖は戦争行為である」とはパリ不戦条約批准の際にケロッグ米国務長官の議会での発言である。

第8番目の、ルーズベルトが犯した巨大な誤りは、1941年7月、つまり、スターリンとの隠然たる同盟関係となったその一ヶ月後に、日本に対して全面的な経済制裁を行ったことである。その経済制裁は、弾こそ射っていなかったが本質的には戦争であった。

ルーズベルトは、自分の腹心の部下からも再三に亘って、そんな挑発をすれば遅かれ早かれ報復のための戦争を引き起こすことになると警告を受けていた。

この7月、米国は工作機械、石油、屑鉄などを輸出許可制とした。これらの品目を米国からの輸入に頼っていた我が国の新聞は、これは経済的対日挑戦であると論じ、駐米大使が正式抗議を申し入れた。ルーズベルトはさらに日本の在米資産を凍結し、8月には石油の対日全面禁輸を実施した。

「参戦しない」という公約を守りながら、戦争を始めるには、日本から攻撃をさせる必要があり、そのために日本を経済的窮地に追い込んでいったのである。

■5.近衛総理大臣の和平の提案を受け入れ拒否

第9の過ちは:

ルーズベルトが近衛総理大臣の和平の提案を受け入れ拒否したこと。この和平の提案が受け入れられることを、日本に駐在するアメリカの大使もイギリスの大使も積極的に働きかけたし、又祈る様な気持で見守っていた。近衛が提案した条件は、満州の返還を除く全てのアメリカの目的を達成するものであった。

しかも、満州の返還ですら、議論する余地を残していた。皮肉に考える人は、ルーズベルトは、この重要ではない問題をきっかけにして自分の側でもっと大きな戦争を引き起こしたいと思い、しかも満州を共産ロシアに与えようとしたのではないかと考えることになるだろう。

昭和16(1941)年9月、石油禁輸のもとで、あてどない対米交渉を続けていくのは座して死を待つのみ、と近衛内閣は10月下旬までに平和的交渉が決着しなければ対米開戦すると決意したが、昭和天皇は御前会議で「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむきようく」との明治天皇御製を読み上げられた。

この御心を受けて、近衛は日米首脳会談による打開を決意し、ルーズベルトに申し入れたが、拒否されたのである。

■6.「90日の冷却期間」提案を拒否

それでも、日本はなおも忍耐強く和平交渉の道を探ったが、ルーズベルトは第10の過ちで応える。

昭和16年の11月に、天皇陛下が三ヶ月間のスタンドスティル、すなわち冷却期間をおこなうとの提案を、駐日の米国大使を通じてされたが、ルーズベルトは是を拒否した。米国の軍高官も、冷却期間の提案を受け入れるべきであるとルーズベルト大統領に促した。

当時、日本はロシアが、同盟関係にあったヒトラーを打倒する可能性を警戒していたのである。90日の冷却期間があって、(戦端開始の)遅れがあれば、日本から全ての戦意を喪失させて、太平洋で戦争する必要を無くしたに違いない。

日本の真珠湾攻撃は12月8日だったが、この頃にはソ連軍の冬期大反抗が開始され、ドイツ軍をモスクワ正面から後退させていた。3ヶ月の冷却期間があれば、ドイツ軍の敗色は日本の朝野にも明らかになり、開戦の意思は萎(しぼ)んでいただろう。

スティムソンの日記が明らかにしたように、ルーズベルトとその幕僚は、日本側から目立った行動が取られるように挑発する方法を探していたのだ。だから、ハルは、馬鹿げた最後通牒を発出して、そして我々は真珠湾で負けたのだ。

陸軍長官スティムソンの日記には、日本にハル・ノートをつきつけたコーデル・ハル国務長官が「私はこの件(日米交渉)から手を引いた。あとはあなたとノックス海軍長官の出番だ」と語ったとある。

ハル・ノートは米国からの最後通牒として出されたものであり、それがソ連工作員ハリー・デクスター・ホワイトによって作成された事が明らかになっている。

■7.日本に無条件降伏を要求し、原爆投下

こうして日本は対米戦争に追い込まれ、当初は西太平洋、東南アジアから米英勢力を駆逐したが、昭和20(1945)年には敗色濃厚となり、講和の道を探っていた。そこにポツダム宣言が出される。

ポツダムにおけるトルーマンの過ちが、第16番目の過ちである。・・・

これ(JOG注: ソ連の東欧への勢力拡張を許した事)に加え、指導者の人々の忠告に反して、日本に無条件降伏の最後通牒が出されたことである。アメリカの経験ある多くの專門家が勧告した、天皇(みかど)を維持することを許す救済条項を入れないで、無条件降伏を要求したのである。日本側は、回答として、この条件のみを求めたが、原子爆弾が投下された。そして、最後になって、この条件が受け入れられた。

第17番目のアメリカの政治の大道からの逸脱は、トルーマンが日本人の上に原子爆弾を落とすという非道徳的な命令を下したことである。日本は繰り返して平和を求めていたにもかかわらず。これはアメリカの全ての歴史のなかで、他に比較するもののない残忍な行為であった。これはアメリカの良心に対して、永久に重くのしかかるであろう。

■8.「竜の歯が、世界中の至る所にばらまかれた」

こうして、ルーズベルトは共産主義の防壁である日独を打ち破って、ソ連に東独から北朝鮮に至る勢力圏を築かせた。さらに後任のトルーマンは中国の共産化を許した。

「第三次世界大戦を引き起こす危険のある竜の歯が、世界中の至る所にばらまかれた」とは、第19の過ちの一節だ。ギリシャ神話には、大地に播かれた竜の歯から武装戦士たちが生まれ出た、という逸話がある。

その予言の通り、冷戦と朝鮮戦争、ベトナム戦争の種はこうして蒔かれた。のちの共和党レーガン政権は日独の協力を得て、冷戦に打ち勝ち、ソ連の打倒を果たしたが、その際に利用した中国が強大化して、現在の世界を危機に陥れている。

日米戦争は、共産主義者に操られたルーズベルトの錯誤によって引き起こされたものだが、その時に播かれた竜の歯はいまも世界の平和を脅かし続けているのである。
(文責:伊勢雅臣)

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