東アジア歴史文化研究会

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『近衛文麿 野望と挫折』林千勝著(ワック) 近衛文麿は自殺したのではない 

2018-11-04 | 日本の歴史
大化の改新、645年(大化1)、中大兄皇子(のちの天智天皇)・中臣鎌足らが蘇我氏を打倒して始めた古代政治史上の一大改革。蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)父子を滅ぼした中大兄皇子は孝徳天皇を即位させ、自らは皇太子として実権を握った。中大兄皇子は、その功が大だった中臣鎌足に『藤原氏』を名乗らせる。

その後、藤原氏の権勢は拡大し、栄耀栄華を誇り、藤原道長はその頂点にたった。
「この世をば わが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば」

近衛氏は、その藤原氏嫡流の五摂家、九条、一条、二条、鷹司家の筆頭の家柄である。近衛文麿は十二歳で近衛家の当主になっている。その「本心には、『華族』の軛から逃れたいという気持もあった」と著者はいう。

一時期共産主義にかぶれたといわれているが、父親の地位を嗣いで東亜同文書院の院長として「支那」に行く。それから、アジアの諸民族の団結を訴える論文を書き始める。その代表作が「英米本位の平和主義を排す」「世界の現状を改造せよ、偽善的平和論を排撃する」など国粋主義に溢れる内容のものだった。

このような近衛が「支那事変勃発直前から日本軍による南進と真珠湾攻撃の50日前まで、まさに戦前の激動期に我が国の政治中枢を」担った。

しかし、支那事変では、共産党の挑発に乗り、戦線を拡大した。近衛は「日本の北支進出に肯定的」だったからだ。「事変拡大を煽動する声明を出し陸軍や世論を」煽った。一方で、「『国民政府を相手にせず』と声明したり、事変拡大を予算面で手当てしながら、不拡大政策については不作為の連続」、そして戦線の拡大に反対した石原莞爾を更迭する。

近衛は「昭和研究会」を梃子(てこ)に、事変拡大、『東亜新秩序』『大東亜共栄圏』を打ち出した。ところがこの「昭和研究会」は、世界共産主義者連盟(コミンテルン)の工作員(スパイ)の巣窟であった。「昭和研究会」の尾崎秀実は、独ソ二重スパイ・ゾルゲに機密情報を漏らし続けた。近衛自身は、これらの共産主義者を駒として利用していると考えていたようだ。

「国家総動員法」「総力戦体制」「日独伊三国同盟」はすべて近衛政権における政策である。側近には筋金入りの共産主義者で反米親支那の風見章もいた。「近衛は風見という確信的な共産主義者を政権中枢にいれて、共産主義者たちが企図する敗戦革命を自らの覇権獲得計画におりこみ利用した」

一方で近衛は強く反共を訴え陸軍皇道派にも近づいている。

鳩山一郎は、『日記』の中で、こうした近衛政権に付いて、『新体制の正体不明』『近衛に日本を引き回されては堪えきれない』と書いた。

この近衛の行動の軌跡からは政治的陰謀の匂いがかぎ取れる。彼は、何か確信が在ったとしか思えないような政策を採用し続けているのだ。

林千勝氏の労作は、近衛の先祖をたどって藤原氏に行き着くところから始まる。1300年前に日本を変えた男を血筋に持つ近衛が、再度国難を目前にして日本をそれこそ根本的に変えたのだ。

近衛は、東京裁判に備えて、反証の文章を準備していた。このことからすると、近衛が青酸カリを飲んで自殺したとは考えにくい、と著者は推論する。自殺したとされた日の前夜から近衛家に泊まり込んでいた人々の証言はすべて異なっていたのだ。

著者は、関係者の証言を比較しつつ、近衛は政敵に殺されたのではないかと結論を下す。

思えば、あのまま日本が支那・朝鮮に関わっていたら恐らく日本は、敗戦よりももっとひどい状況、つまり国体が完全に破壊される状況になっていたにちがいない。

近衛は、支那に行って支那人に実際に接してみてそのことを直感したのだと思われる。日本の国体を守るために、大なる意思が、近衛を首相にし、彼をして敗戦へと導いたのではないのか。
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