仏教反対派の物部守屋の一族は、彼らが奉じた皇子とともに滅ばされた。物部氏の残党は斬られたか下僕にされ、生きのびた人々は古志や備中へ逃れた。全国に物部を祀る神社が多い事実がそのことを雄弁に物語る。
悲劇の皇子として法隆寺のそばの藤ノ木古墳に祀られる穴穂部皇子は欽明天皇の子。母は蘇我稲目の娘・小姉君。異母兄に敏達天皇と用明天皇。聖徳太子の叔父にあたり、同母弟が馬子に暗殺される崇峻天皇である。
法隆寺の傍にある藤ノ木古墳に穴穂部皇子は葬られている。
名門中の名門だった穴穂部皇子は、当然ながら皇位を望んだ。ところが兄・敏達天皇が崩御後、用明天皇が即位した。不満を抱いた穴穂部皇子は物部守屋と結んだ。これが伏線となって「丁末の乱」(あるいは物部守屋の乱)となった。
用明天皇2年(587)、用明天皇が仏法を信奉したいと群臣に諮った。排仏派の守屋は反対し、崇仏派の馬子は賛意をしめした。用明天皇は既に崇仏派だから、立場を失った物部氏は河内国へ退いた。朝廷において、この時点から神道派が衰退し、仏教派が本格台頭する。
蘇我馬子の絶頂期は厩戸王子を引き込むことで権力基盤を暴力でもぎ取り、傲慢不遜、崇仏は外交的なポーズでしかなく、内実のまつりごとは「私欲を恣にし」(頼山陽)た。あまつさえ崇峻天皇が馬子排撃の動きを見せるやすばやく動き、配下の渡来人・東漢駒に命じて天皇暗殺という恐るべき暴挙に出た。
仏教は再び禁止されることはなく、むしろ勢いを得た。
頼山陽は「鞭声粛々として夜河を渡る」など詩吟を唸るような名調子の『日本外史』のほうが有名だが、晩年心血を注ぎ、最後は弟子たちがまとめた畢生の歴史書は『日本政史』である。
儒学から朱子学へ傾斜する基調で貫かれ、仁、義、忠が価値判断の基準となる。ために蘇我馬子は当然としても、聖武天皇などへの評価が低い。武烈、雄略天皇の通俗的解釈であり、「悪業天皇」説もそのまま踏襲している。このことは江戸中期の思想的背景を考慮しないと現代人は誤解しかねないかも知れない。
仏教渡来と併行して、儒教も日本に伝わったのだが、こちらの方は根付かなかった。
この道徳、節度、思いやり寛大さが歴代天皇の治世に共通した。それは戦争のない、一万年以上の平和を実現させた縄文文明という先達があったゆえに儒教を拒んだのである。
十五年ほど前、石平と一緒に北京長安路の巨大な軍事博物館を見学した。中国四千年の戦争の歴をパノラマ風に、おおきな戦争はジオラマの設備、入り口にはいきなりミサイル展示で学校の遠足研修にも使われる場所である。見終わって石平が感銘深く言った。
「要するにこの博物館の展示には『戦争が悪い』とは一言も説明がなされていませんね」。