たまたま出先でテレビをつけると、大河ドラマの再放送をやっていた。徳川家康の『小牧長久手』だった。このシリーズ、初めて見た。
一言の結論。『のけぞった』。あまりに単細胞的であり、あまりに表面的解釈であり、戦闘場面が貧弱な映像であることなぞ、論ずるまでもない。そのうえ役者たちが若すぎるのか重量感も風圧もない。
「中入れ」は戦国時代でも常識的に禁じ手である。失敗したケースが99%。たとえば賤ヶ岳の決戦で柴田勝家の前衛・佐久間は中入れに一度は成功したが、急遽大垣から戻った秀吉の電光石火作戦に引っかかり惨敗を喫した。柴田勝家は敗退し越前へ逃亡した。
大河ドラマでは戦功を焦る池田勝入斉と森長可が強引に中入れを進言し、空っぽの家康本丸岡崎を叩こうとした。秀吉は「一晩考えて』、決断した(本当は三晩考えた)。
池田、森のあと三番隊に強豪の掘を指名し、総大将を秀次とした。大河ドラマはこの秀次の無様な惨敗を描いていない。
実際には秀吉の先輩格である池田が五月蠅く、功を焦っていることは見え見えだが、秀吉は両面を考えたのである。
成功すれば第四番隊でのんびり行軍する「総大将」の秀次の手柄にできる。中入れが失敗すれば、池田、森という信長麾下だった二人のうるさ型がいなくなるではないか。
家康のほうは、中入れを事前に知っていた。ドラマでの物見の注進で知ったという設定には無理がある。そもそも池田勝入斉恒興を嗾けて中入りをやらせるという謀略は家康の右腕・石川和正の企みだった。徳川軍はしんがりの秀次を先に屠った。
その後の数正の裏切り(秀吉側へ出奔)は、ドラマの展開とはまるで異なり、石川数正が自ら囮として秀吉へ飛び込んだのである。家康も秀吉も、そのことを知っていた。
以下は拙著『こう読み直せ日本の歴史』(ワック)から当該箇所の抜粋。
日本史における諜報戦争の象徴的事例として秀吉と家康が熾烈な諜報線を展開した「小牧・長久手の役」がある。歴史家で「小牧・長久手の役」の諜報戦の重要性を強調する学者は少数である。
天正十年六月、秀吉が師と仰いだ織田信長は明智光秀の謀反に倒れ、「権力の空白」が不意に訪れた。例外的な強運の持ち主が羽柴秀吉だった。信長横死の情報を得るやいなや、秀吉は備中高松城の水攻めを電光石火に毛利勢と手打ちを行って中止し、城主の切腹を見届けると、いわゆる「中国大返し」をはかった。毛利を情報戦で騙したのだ。
天下分け目となった山崎の合戦で秀吉は明智光秀をこともなく倒し、翌年には信長家臣団の主導権争いのなかで強敵・柴田勝家を賤ヶ岳に葬った。柴田権六勝家は武士の誉れ高く、衆望も厚い武将だったから、よもや成り上がりの秀吉如きに破れるなどと予想できた者は少なかった。この柴田の敗因は、途中で敵深くに兵を入れた佐久間の軽挙妄動にあるとはいえ、この「中入れ」の失敗で、それを見ていた前田利家はさっと兵を引いた。
「中入れ」
これはよほどの強運に恵まれないと失敗必定となる危険な軍策である。
天下の行方は織田家の跡目を継ごうとする秀吉の輝くばかりの勢いに収斂されつつあった。(こんなことがあってよいのか)
何人もの武将がそう言って首を傾げた。わけても腹の虫がおさまらないのは信長の遺児たちだ。清洲会議で秀吉が長男・信忠の遺児・三法師をたてるという奇策に出たため信長政権の後継を巡る争いを始めた次男・信雄、三男・信孝は鬱勃としている(この場面をコミカルな映画にしたのは三谷幸喜(『清洲会議』)。
そこで織田信雄に頼られた家康が、この風雲を千載一遇の宿運として、数万を率いて三河から駆けつけ、小牧に強靱な陣を敷いた。一気に秀吉政権を滅ぼせる、と家康は踏んだ。
家康の右腕、石川数正が提案した。それは秀吉陣営にある闘将・池田恒興と森長可を逆に調略してしまうのである。歴戦の勇士である池田恒興と森長可をして「転ばせる」と石川数正は耳打ちした。
秀吉が信頼する池田と森長可は信長麾下の輝ける星だった。したがっていとも簡単に出来星の秀吉に組みしたわけではなかろう。じじつ、森長可に対して秀吉は「遠州と駿河」を与えると将来の領国を約した。それは家康の領土、つまり手柄を立てたら徳川家の領分をそのまま支配する太守が約束された。暴れん坊として名を馳せる森長可は信長の寵児だった森欄丸の長兄でもあり、このころは美濃金山城を治めていた。
信長と乳兄弟だった池田恒興はもっと驕慢だった。恒興にしてみれば出自からみても格から見ても、自分のほうが秀吉ごときよりは上と、つい過去の経緯も苦々しく浮かんで驕慢さが態度にのぞく。ときに露骨にそれが顔に出た。
そうした秀吉の陣営内の動き、各将の腹の中は犬山から大垣にかけて大量に放った家康の間者から報告されていた。孫子の兵法そのままの実践である。
「敵は怖るるに足らず。この矛盾をうまく突けば、秀吉軍は四分五裂しましょうぞ」
というのが石川数正の口癖だった。闘わずして勝つ最良の方法は敵を内訌させよ、と孫子の兵法も言っているではないか。
だから池田恒興の燃えたぎる野心を逆に利用しようという企みなのだ。
敵をかき乱すことも兵法の第一歩である。
家康も初陣合戦以来、姉川では浅井氏殲滅作戦で果敢に戦った経験があり、戦闘集団を後方でささえる兵站のこともわきまえている。家康はすでに小牧に近い所領の岩崎城下で道路の拡張を急がせ、軍用道路を農閑期に百姓を動員して拡張整備していた。
一方、家康がたてた名目上の大将は信長の次男、織田信雄である。彼は愚鈍で軍用道路拡張の発想さえなく、治めた領地の旧街道はといえば草ぼうぼうのぬかるみが多い。
家康はすでに信雄と同盟を結ぶ前から忍者集団を派遣して秀吉の後方攪乱作戦を命じてあった。柴田勝家を倒し、いよいよ天下様に近づいた秀吉は華麗な拵えの大阪城の突貫工事に酔っていた。
秀吉には金と利害で十八万人もの兵力が蝟集しているが、蜜に群がる蟻同然で統制が取れていない。嘗て信長を裏切った三好入道も松永弾正も荒木村重も、上方に蟠踞した猛者だったように同類の侍たちが秀吉のもとに打算で加わっているからだ。
しかしながらその利にさとい上方の周辺にも、利よりも義、金よりも報徳という集団があった。一向宗の石山本願寺と紀伊の雑賀衆だ。さらには中国伝来の武術と鉄砲を蓄える根来衆もいた。徳川方は早くからこの勢力に注目してきた。
石川数正が一向宗の信徒であることを三河では表向き出してはいないが、三河全土はほぼ一向宗で埋めつくされていた。
その一向宗の地下人脈が全国に拡がっており、石山本願寺に心を寄せてきた信徒たちは雑賀に、根来に、加賀にと全国に散ったが、依然としてキリシタン・バテレンを庇護し、天台宗の比叡を焼き払った信長を怨んでいた。
長島一揆を皆殺しにし、石山本願寺に十年戦争を仕掛けて、ついに一向門徒を大阪から退去させ、数万の一向の信徒たちが信長の犠牲となった。信長は法敵であり、その政権を継いだ秀吉を許すはずがない。だから家康は後方攪乱を仕掛けた。
「中入れ」である。
家康の巧妙な誘導に煽られて、池田と森連合はうっかりと中入れを強行した。秀吉は土壇場まで中入れに反対したが、どうしてもというのならと軍監に掘を総大将に秀次を任じた秀次は馬を失うほど狼狽して秀吉の本陣へ逃げ帰った。
中入れは案の定、失敗し、秀吉軍は大敗を喫した。この痛い敗戦以後、秀吉は家康をもっとも苦手として、姉と母親を家康へ人質に差し出すなど、最大の妥協を示し、ようやく家康を取り込んだのである。