東アジア歴史文化研究会

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三浦小太郎『信長・秀吉・家康はグローバリズムとどう戦ったのか』(ハート出版) 大航海時代、キリスト教団は世界支配に乗り出した イエズス会はアルカイーダ、侵略予定地域への尖兵だった

2024-06-04 | 日本の歴史

切支丹バテレンの野望に対して、信長、秀吉、家康の三人の戦国武将はいかに侵略者と闘ったか。当時のグローバリズム、近代で言えばマルクス主義、現代では左翼の全体主義の隠れ蓑。それが切支丹バテレンだった

十六世紀、イエズス会が日本に上陸した。

九州の大友宗麟、周防の大内らを丸め込み、西国大名への説得と布教活動は瞬く間に京へと至り、イエズス会と信長との駆け引きがはじまる。交易利権をちらつかせての布教と仏教界との衝突、秀吉の宣教師追放から江戸時代には伴天連の完全な禁教は鎖国へといたった。その経緯を、本書は従来とはことなるものの見方で解き明かしている。

イエズス会は今日で比喩すればアルカィーダ、侵略軍の尖兵であり、異教を認めない非寛容と独善主義的傲慢さは日本人の体質にはあわない。だから最初の布教は擬装による。デウスの神と大仏とを酷似させるなどの方法がとられたのである。

ザビエルの日本と印象は悪くなかった。

「今までに発見されて国民のなかで(日本人は)最高であり、日本人よりすぐれている人々は異教徒の間では見つけられない」と本国へ報告した。たしかに褒めては言えるが上から目線だ。

ザビエルは途中でマカオへ引き返す。だが、山口にはコスメ・デ・トルレスが残り、書簡を認めてこういった。

「日本人はイエズス会の教えをかれらの間に植え付けるのに非情に適した素質を有する。すなわちかれらには分別があり、理性にもとづいて己を処する。彼らは好奇心に富み、いかにすれば自分の霊魂を救い得るかについて話すことを好む。かれらの間には良き礼法があり、まるで宮廷で育ったかのように互いに非情に慇懃な態度をしめす」

ヴァリニャーノ司祭の日本到着は一五七九年だった。それまでの宣教師カブラルは非常に高慢ちきにして傲岸不遜、日本人に偏見を抱き、西国大名から非難の的となっていた。報告された信者数は出鱈目だった。

「日本人に対して(カブラルは)無礼である。神社仏閣をわれわれ(西国大名)が破壊したのは司祭たちが教理に反するというので不本意に行ったまでのこと。宣教師たちが日本の美しい習慣や高尚な態度を学ぼうと努力しないことはまったく無知なことだ」(松田毅一『天正遣欧使節』)

それでも麻疹のような流行病のごとく、昨今のグローバリズムを彷彿させるように伴天連の信者が拡大して影響力をますと、かれらの隠れた本質が露呈した。

人種偏見、奴隷売買、とくに日本から大量の奴隷を海外へ売り飛ばす海賊並みの悪徳商人らとイエズス会は裏でつるんでいた。また大友宗麟らは戦争捕虜を売り飛ばすことに躊躇がなかった。 こうした裏面史が実証されたのは近年である。渡辺京二『伴天連の世紀』、ルシオ・デ・ソウザ、岡美穂子訳『大航海時代の日本人奴隷』などの力作が出そろった、真実が判明したのである。

イエズス会はトップダウンの布教を最初から企図し、大名たちのオルグに専心した。その結果、蒲生、大村、有馬、小西など有力どころが信仰し、高山右近に至っては高槻の寺院を破壊し仏僧を殺害し、最後まで棄教しなかったためマニラへ追放された。蒲生は早死にし、小西行長、黒田官兵衛らは棄教を装った。

さて評者(宮崎)は、本書を読みながら考えたのだ。

渡辺京二はキリスト教伝来を「ファースト・インパクト」を呼んだが、セコンドであろう。日本史における最初の異教との激突は伴天連の上陸の千年前、六世紀の仏教の伝来であったはずだ。

仏教は欽明天皇期に入ってきたが、蘇我氏の個人的信仰だけが認められ、経典と仏像は難波の堀に棄却された。欽明天皇は禁教の詔をだした。大伴、物部、佐伯、和邇氏らが仏教は邪教として退けた。ファースト・インパクト、すなわち廃仏毀釈が起きた。

自然信仰の古代神道では仏像を拝むなどは奇妙な風習であり、とてもなじめるものではなかった。

その一方で欽明朝は、新興財閥で渡来人を束ねた蘇我氏の保護をうけており、物理的に仏教を禁じることは出来なかった。蘇我氏の関係する領域では、すでに民間人のあいだで仏教は信仰されていた。

継体天皇の嫡流は敏達天皇、仏教徒になった用明天皇は傍系で、むしろ蘇我馬子の娘と敏達天皇のあいだに産まれたから傍流からの即位だった。竹田皇子が未成年だったため、この用明天皇は中継ぎだった。個人的に仏教を信じた。以後、なし崩しで仏教は宮廷と貴族社会を猖獗した。

そして崇仏派は大きな勢力に成長し、その集団は蘇我馬子が率いた。

排仏派は大連の物部守屋、かれらが擁護した次期天皇に担ごうとしていたのは穴穂部皇子で、宗教対立を名目に、じつのところ物部氏vs蘇我氏の覇権争いとなった。

物部守屋は猛攻、戦争上手で知られたが、射殺されたため物部一族は滅びた。この蘇我の独裁的政治がおわるのは乙巳の変をまたなければならない。

蘇我氏は仏教を敵視した物部氏を殲滅したが、仏教は一神教ではなかったため日本人特有の中庸精神が神仏混交という世界に稀なスタイルを発明した。

聖徳太子は仏教を準国教化したが、法隆寺の回りに神社を建立し、日本の古き神々が仏様を守るという建築思想を取り入れた。

乙巳の変で蘇我氏は退治されたが、古代神道派の中臣鎌足には仏教集団を殲滅するという発想はなく、逆に蘇我氏壊滅以後も仏教は影響力を増してゆく。

仏教の猛威は収まらず、聖武天皇は大仏建立と鑑真の招致を試みる。そればかりか孝謙・称徳天皇は仏教の法王(道鏡)と天皇の二元政治による共同統治を試みた。これは国体の破壊につながりかねない(詳細は拙著『二度天皇になった女性』、ワック参照)。

そして仏教伝来から千年の後、信長は横暴をきわめた仏教の武装勢力を対抗するために切支丹バテレンの力を活用したのである。


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