東アジア歴史文化研究会

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空想的平和主義を生んだ「無条件降伏」という虚構 日本陸海軍将兵の玉砕戦が、無条件降伏要求を撥ね返して、ポツダム宣言での降伏条件を勝ち取った(国際派日本人養成講座)

2022-09-15 | 歴史の真実

■1.「降伏した民は奴隷化され国は滅びる」という世界史常識

今回のウクライナの戦いに関して、日本人の空想的平和主義がよく窺えたのが、橋下徹氏の「ウクライナは犠牲者を出さないために早く降伏すべき」という主張でした。

先の大戦では、ソ連兵が日本降伏後も満洲や北朝鮮で何万人もの在留邦人を虐殺、暴行していること、さらに国際法を無視した60万人ものシベリアへの強制連行で、6万人以上が犠牲になったこと、橋下氏はこうした史実を忘れているようです。

古来より、戦闘で降伏した民は奴隷化され国は滅びる、というのが通例でした。ソ連の大戦後の蛮行は20世紀の今でもこの慣習が残っており、またロシアのブチャでの虐殺や征服地でのウクライナ国民の強制連行は、それが21世紀でも根強いことを示しています。

こういう史実を考えることもなく、ウクライナは早く降伏すべきと考える人間は、先の大戦後の米軍による占領が「寛容」であったから、そう考えるのでしょう。占領軍による言論統制、洗脳、改憲などを無視して、物理的に見れば確かに米軍占領は「寛容」であったと言えるでしょう。しかし、その「寛容」は日本側の次のような態度によって、もたらされたものだと弊誌は考えます。

1)パラオ、硫黄島、沖縄などでの玉砕戦が、米軍に多大な損害を与え、本土決戦を恐れた米国に無条件降伏要求を撤回させ、ポツダム宣言での降伏条件を引き出した。

2)昭和天皇の御聖断が下るや、陸海軍350万が矛を収めました。もし、米国がポツダム宣言の条件を無視したら(後述のように実際にマッカーサーが占領初期に試みましたが)、これだけの兵力が各地でゲリラ戦に立ち上がる恐れがあり、そうなると占領は大混乱に陥ります。

降伏条件の交渉にしろ、条件を守らせるためにも、それなりの武力の背景が必要なのです。以下、この点を史実を辿って論証します。

■2.ルーズベルト大統領が独断で言い出した無条件降伏要求

無条件降伏要求は、ルーズベルト大統領が1943年1月24日のカサブランカ会議で初めて、ぶち上げたものでした。これは大統領が米国の外交を司る国務省や軍にも相談無く、独断で決めたことでした。その驚きを、大統領の軍事顧問ウィリアム・リーヒ統合参謀本部議長が著書にこう書いています。

カサブランカで驚くべき出来事があった。それは、大統領と(伊勢注:チャーチル英)首相が出席して開かれた最後の記者会見で、「無条件降伏」の原則が発表されたことであった。私の知る限り、この政策は、米英合同参謀長会議では討議されなかった。

軍事的観点からすれば、この政策はわれわれが敵を破壊しなければならないということを意味するが故に、その実施には、戦闘においてわれわれの困難を増大させることになるかもしれなかった。[有馬R03、365]

「無条件降伏」では、どれだけの国土や賠償金を取られるかもしれず、独立すら失ってしまうかも知れません。国民に責任のある政府なら、呑めるわけがありません。リーヒ議長が「敵を破壊しなければならないということを意味する」というのは、無条件降伏をさせるには完全に日本軍を殲滅し、日本全土を武力制圧する必要があるということです。

国務長官のコーデル・ハルも、「これは枢軸国を絶望させ、その抵抗をより一層強固なものにすることによって、戦争を長引かせるかもしれない」として、後で大統領に無条件降伏原則の修正を強く迫りました。[有馬R03、385]

■3.なぜ無条件降伏を言い出したのか?

なぜルーズベルト大統領は突然、無条件降伏をぶち挙げたのでしょうか? 複数の説がありますが、筆者にもっとも説得的だと思えるのは、このような勇ましい宣言をする事が政治家としてのスタンド・プレーであるとともに、スターリンに操られていた、という説です。日米戦争を長引かせて得をするのは、ソ連だけだからです。

もともと日米戦争はソ連のスパイが暗躍して、ルーズベルト政権を操って引き起こしたものです[JOG(116)]。資本主義国どうしを戦わせて漁夫の利を得る、というのが、スターリンの世界共産化の戦略でしたから、少なくとも、ソ連が隣接する日本の武力は徹底的に「破壊」して貰わねばなりません。

また、当時、ソ連はドイツとの戦いに精一杯であり、日本とは日ソ中立条約を結んでいました。この段階で日本が降伏してしまったら、ソ連は日本から領土をとれません。1945年2月のヤルタ会談では、対独勝利が見えていて、それが終わり次第、対日参戦し、樺太や千島列島を獲得することをルーズベルトに認めさせています。

ルーズベルトは、ヤルタ会談の2ヶ月後に急死し、副大統領のトルーマンが急遽、後を継ぎますが、彼も無条件降伏要求を引き継ぎます。なぜでしょうか?

あとを受けた新大統領トルーマンは、四月一六日の上・下両院合同議会で前大統領の無条件降伏路線を受け継ぐと宣言した。これは議場総立ちの喝采で迎えられた。[有馬H28、1,082]

もともと副大統領に任命されたのがわずか3ヶ月前、しかも外交経験もなく、ルーズベルト大統領とは一度会ったきりで、詳しい引き継ぎも受けていませんでした。そんな状態で、前任のスター・プレーヤーの華々しいスタンド・プレーをいきなりひっくり返す事はまだ立場の弱い新米の大統領にはできるはずもありません。

■4.本土上陸作戦を諦めさせた日本軍将兵の玉砕戦

1945年には戦争の勝敗はもはや明かで、皇室の存続さえ認めれば、日本は降伏するだろう、という情報を、米政府・軍部はあちこちから得ていました。

国務長官代理だったジョセフ・グルーは終戦の二年後、「アメリカが天皇制存置を保証する声明を出していれば、日本は六月か七月に降伏していただろう」と主張しています。陸軍長官ヘンリー・スティムソンも「アメリカが天皇の地位についての見解を明確に示すのを遅らせたことが戦争を長引かせた」と自らの回顧録で述べています。[有馬R03、450]

6月18日、沖縄戦がほぼ終息しつつあった頃、トルーマンは軍幹部を集めて、「日本本土上陸作戦」を議論しました。そこでは次のような資料が出されました。[有馬R04]

 レイテ 1:4.6
 ルソン 1:5
 硫黄島 1:1.25
 沖縄  1:2

これはアメリカ兵の戦死者一人に対し日本兵の戦死者が何人いたかという数字です。硫黄島、沖縄では日本軍は洞窟に籠もって、米軍の艦砲射撃や空爆をしのぎ、米兵が上陸してきた処にゲリラ戦を仕掛けるという戦法をとって、米軍の犠牲者を増やしました。

これに基づいて米軍が九州上陸作戦を実行した場合、19万人ほどの兵士動員が必要で、そのうちおよそ30%、約6万3千人が死傷するとの概算予想が紹介されました。[有馬H27、1,976] 日本全土の制圧となると、死傷者は数十万人の規模となるでしょう。

米国にとっては二人の大統領の単なるスタンドプレーに過ぎず、ソ連のみを利するこのような作戦に何万、何十万もの死傷者を出すことは狂気の沙汰です。トルーマン以外の会議の出席者はみな口を揃えて、皇室存続を認めた降伏を日本に勧めて、日本本土上陸作戦を避けるべきだという意見を述べました。[有馬H27、2,000]

ルーズベルト−トルーマン政権の無条件降伏という無謀なぶち上げを引っ込めさせたのは、日本陸海軍将兵の命を捧げた玉砕戦だったのです。

■5.原爆投下実行のために削除されたポツダム宣言の一条件

しかし、トルーマンには別の考えがありました。もう一ヶ月ほど後のポツダム会議の頃には、開発中の原爆が使えるかどうか分かるので、それまで決定を先延ばししたい、と言うのです。原爆を使えば、日本は数十万人の犠牲者を出し、米軍は犠牲者なしで無条件降伏に追い込める、と主張しました。

また、その頃、ソ連軍のポーランド再占領に関して、すでに米ソの対立が始まっていたので、原爆の威力をソ連に見せつけたい、という狙いがありました。

ポツダム宣言は7月26日に発せられましたが、米国務省、陸海軍の合同委員会で作成された原案には「現在の皇室の下で立憲君主制もありうる」という一節が含まれていました。トルーマンはポツダム宣言発出の直前にこの一節を削ったのです。7月25日の日記にトルーマンは「やつら(日本)は降伏しないだろう」と書いています。同日、原爆投下の命令を発しています。

この一節がないがために、日本政府はポツダム宣言を一旦は黙殺しましたが、8月6、9日の広島、長崎への原爆攻撃、および、9日のソ連の満洲侵攻を受けて、「国家統治の天皇の大権にいかなる変更も加えるものではないという了解のもとに」受諾しました。その翌日、トルーマンは日本の降伏を受け入れる回答をしました。

原爆を投下するためにトルーマンは皇室条項を一旦は削除し、投下直後に、その復活を認めたのです。

マッカーサーも「アメリカが後に実際にそうしたように、天皇制の維持に同意していれば、戦争は何週間も早く終わっていたかもしれなかった」と述べています。[アルベロビッツ、p508]

■6.重光葵外相のマッカーサー恫喝

このように日本の降伏は条件付きのものでしたが、トルーマンはマッカーサーに対して、次の指示を送っています。

われわれの日本との関係は、約束に基づくものではなく、無条件降伏に基づくものである。貴下の権威は至上であるから日本人の側からその範囲について質問を受ける必要はない。[有馬R02、1,787]

ポツダム宣言の正式名は「日本の降伏条件を定めた声明」であり、「我々の条件は以下の条文で示すとおり」と謳っていることも完全に無視して、「無条件降伏」と強弁しているのです。

マッカーサーも当初は同じ態度で日本に望みました。9月2日、日本政府に対し、日本全域に渡って軍政を布告する旨の命令を発したのです。

日本にとって幸いだったのは、この時の外相が百戦錬磨の外交官・重光葵(まもる)だったことです。重光は翌3日早朝、マッカーサー総司令官に面会し、軍政を思いとどまるよう交渉しました。

重光外相の主張は、日本全域に渡って軍政を敷くことは、日本政府が受諾したポツダム宣言の諸条件以上の要求であり、もしそれを強行するなら、「日本政府の誠実なる占領政策遂行の責任を解除し、ここに混乱の端緒を見ることとなるやも知れぬ。その結果に対する責任は、日本側の負うところではない」というものでした。[江藤, p33]

ポツダム宣言第7条には「連合国の指定すべき日本国内の『諸地点』は、�ゥ�ぢ占領せらるべし」とあり、全域を占領する事は明らかに宣言の違反となります。また第8条には、「日本国の主権は本州、北海道、九州、及び四国並びに吾等の決定する諸小島に局限せらるべし」とあり、政府の主権の存在を前提にしています。全域に軍政を敷くことは、あきらかにこの条件を破ることでした。

重光外相は、アメリカが自分で言い出した停戦の条件を勝手に破るなら、日本政府がそれを守る義務もなくなり、その後、どうなってもすべてアメリカの責任だと脅したのです。武力なき外交交渉は嘆願に過ぎない、ということを練達の外交官・重光葵はよく心得ていました。そして米軍の占領を、ゲリラ戦や特攻で混乱に陥れるだけの武力はまだ残っていました。

当時日本本土には陸軍二百二十五万三千、海軍百二十五万、計三百五十万余の兵力が依然として温存されていた。また陸海軍を合せて一万六十機の保有航空機のうち、少くとも六千機以上は特攻作戦に使用可能と考えられていた。この温存兵力の無言の圧力は無視することができない。[入江, p16]

マッカーサーは将来、大統領をも目指そうという野心を持つ人物ですから、この日本占領という世界と米国民が注目する晴れ舞台をなんとしても成功させなければなりません。そこを巧みに衝いたのです。マッカーサーは即座に重光の主張に同意しました。[JOG(049)]

■7.ソ連の野蛮な占領、アメリカの知的な洗脳

ルーズベルト−トルーマンの無条件降伏要求を撥ね付けたのは、日本陸海軍将兵たちが命を捧げた玉砕戦でした。また、そうして勝ち得た降伏条件を守らせたのは、陸海軍の残存兵力でした。

しかし、武装解除が進みにつれ、条件を守らせるための武力を日本側は失っていきます。さらに占領軍は「精神的武装解除」を進めていきます。ポツダム宣言第10条の「言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立せらるべし」という条件を破って、新聞や私信の秘密裏の検閲を行いました。

占領下で憲法を改正させたのも、ポツダム宣言12条の「日本国民の自由に表明せる意思に従い」、および、さらに国際法たるハーグ陸戦規則第43条の「占領地の法律の尊重」を踏みにじったものです。

確かに米軍はソ連軍のような民間人虐殺や強制連行などの野蛮な行為(米兵士の強姦事件は除いて)はしませんでした。しかし、精神的武装解除では徹底的な洗脳を行いました。この両面から、「日本は無条件降伏した」「早く降伏すれば命は助かる」という虚構の主張が、現代日本でもまかり通っているのです。

その迷妄から目覚めるためにも、我々の先人たちが無条件降伏要求といかに戦ったか、という史実をきちんと知る必要があります。

(文責 伊勢雅臣)


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