東アジア歴史文化研究会

日本人の素晴らしい伝統と文化を再発見しよう
歴史の書き換えはすでに始まっている

古代に渡来したユダヤ人を同化した「和の国」の力 ユダヤ人そっくりの埴輪、共通の遺伝子 古代ユダヤ人渡来説の「物証」が出てきた(国際派日本人養成講座)

2019-11-19 | 日本の素晴らしい文化

■1.ユダヤ人そっくりの埴輪、ユダヤ人と共通の遺伝子

古代日本にユダヤ人がやってきたという仮説はすでに明治時代から唱えられているが、いよいよ否定し難い「物証」が発見された。千葉県の九十九里浜近くの柴山古墳からは、ユダヤ人を模したとしか考えられない埴輪がいくつも見つかっている。

以下の写真を見ていただいたら一目瞭然だが、丸い庇(ひさし)のついた高い帽子、美豆良(みずら、髪を左右に分け,毛先をそれぞれ耳の辺で結び束ねるスタイル)、高い鼻、長い顎髭(あごひげ)。まさにユダヤ人そっくりの容貌である。

ユダヤ人埴輪 男

ユダヤ人埴輪 女

土着の日本人が渡来したユダヤ人を見て作ったか、あるいはユダヤ人自らが作った埴輪であろう。いずれにせよ、田中英道・東北大学名誉教授は近著『発見! ユダヤ人埴輪の謎を解く』で、「それは、古墳時代と呼ばれている時代に日本にユダヤ系の人々がいたことを端的に示すもの」と指摘されている。

また近年の遺伝子研究でも、ユダヤ人と日本人の間に共通の遺伝子が見つかっている。日本人男性の40%近くが「YAP」と呼ばれる特殊な遺伝子配列を持つ。YAP遺伝子は、中国人にも韓国人にもほとんどみられない、アジアの中でも大変珍しいものだ。

ところが、このYAP遺伝子をユダヤ人の20~30%が持つという。古代にユダヤ人が日本にやってきたと考えれば、この遺伝子上の共通点の説明もつくのである。

ユダヤ人渡来説は、いままでトンデモ説のような扱いを受けてきたが、これらの埴輪やDNA分析結果を見ると、いよいよユダヤ人渡来説を史実として認めざるを得ない段階に来たように思える。

そう思って、従来のユダヤ人渡来説を見てみると、トンデモ説どころか、『日本書紀』や神社の様式・儀式などでも、説得力のある根拠が揃っている事が見つかる。

■2.『日本書紀』が示す渡来の記録

まず『日本書紀』の記述から見てみよう。田中教授はこう紹介されている。

秦氏は、応神天皇(第15代、4世紀末~5世紀初?)の時代に弓月国から百二十県の人々を率いて渡来したと『日本書紀』に記されている弓月君を祖先とする氏族です。
雄略天皇(JOG注:第21代、5世紀中頃?)の時代には、畿内の秦氏が、土木・灌漑技術を生かした水田開発、養蚕などの事業を背景に財力を築き、全国の秦部や、秦人部などの氏族を組織化し統括するような動きになった、とされています。

弓月(クンユエ、ゆづき)国とは、かつて中国の西、ウイグル、カザフスタン辺りにあり、原始キリスト教に改宗したユダヤ人が作った国だった。秦氏は養蚕の技術を持ち、シルクロード(絹の道)にも関係が深かった。

エルサレムに「アミシャブ」という機関があり、世界各地に離散したユダヤ人の調査を行っている。彼らの調査によると、アフガニスタンやパキスタン、カシミール、中国、ミャンマーなどにユダヤ人の末裔が住んでいることが明らかになったとしている。

すなわち、シルクロード沿いのあちこちにユダヤ人の末裔が残っている訳で、彼らの一部が日本までやってきたとしても何ら不思議はない。

■3.駐日イスラエル大使が日本の御神輿を見た時の衝撃

秦氏が日本にやってきたのは古墳時代(3世紀中頃~7世紀頃)であり、冒頭のユダヤ人埴輪も古墳の中から見つかっている。当時は古墳が先祖信仰を表現しており、神社をつくる風習はまだなかった。そこに大半の神社をつくったのが秦氏であった。

全国の神社の数は8万余りとされているが、そのうち最も多いのが八幡宮(八幡神社)約4万4千社であり、それに次ぐのが稲荷神社の3万2千社である。両方とも秦氏が創建したと伝えられている。

しかも、神社にまつわる建築、衣装、祭具、行事などで、ユダヤ教との類似が多く見つかる。エリ・コーヘン前駐日イスラエル大使は日本に赴任して初めて御神輿を見た時の衝撃は忘れられない、と語っている。

ユダヤ教の聖典タナフには、イスラエルの第2代国王ダビデが戦いに勝利し、都に上ったときの様子が描かれている。それによれば、ダビデ王とイスラエルの長老たち、および千人の長たちは、白い亜麻布の衣服を着て「契約の箱」を担ぎ上げ、声をあげ、角笛を吹き鳴らし、ラッパやシンバル、竪琴をもって打ちはやした。

『契約の箱』には十戒が刻まれた石板が収められており、大きさは長さ200センチ、幅80センチ、高さ120センチ、表面は金で覆われており、両側に担ぐための竿が通されている。箱の上にはケルビムという翼を広げた鳥の像が置かれている。この『契約の箱』に、日本の神輿はそっくりなのである。

この神輿を、祭りで神職の白装束の人々が担ぎ、太鼓や笛とともに練り歩く姿は、まさにダビデ王らが白い亜麻布の衣服を着て「契約の箱」を担ぎ上げ、音楽とともに囃したてる光景と瓜二つである。エリ・コーヘン氏の受けた衝撃も当然だ。

フランス南西部オーシュにあるサント・マリー大聖堂のレリーフに彫られた契約の箱.jpg

神輿

秦氏の「ハタ」とは、「ユダ族」を意味するヘブライ語「イェフダ」から、その語頭の軽く発音される「イェ」が脱落して「ハダ」と呼ばれるようになったから、という説がある。

二つの言語の似た単語だけ拾ってきて、関係があるとするトンデモ説はよくある。人間が発する音の種類は限られているから、言葉だけのこじつけなら、いくらでもできる。だから、ハタと「イェフダ」だけなら、こじつけと疑われても仕方がない。

しかし、祭りでの『契約の箱』と神輿、それを担ぎ、音楽と共に囃す様などは、偶然の一致ではありえないだろう。ユダヤの祭りの様式が、渡来したユダヤ人によって日本で再現された、という以外に合理的な説明は考えられない。

■4.神社の構成もユダヤ教にならって創り出された

神社の構成にしても、ユダヤ人に説明すると、必ず「ああ、それはユダヤの神殿と同じだ」という答えが返ってくるという。

イスラエルの民はモーセに率いられてエジプトを脱出し、イスラエルに辿り着くまでに、40年間さまよった。その際に、天幕を改造して礼拝所としたのが、「会見の幕屋」と呼ばれる移動式の質素な木造建物だった。

それは神社と同様に板塀に囲まれた長方形の敷地で、神社の手水のように、手足を洗うための洗盤が設置されている。神社では我々が拝む拝殿の奥に、本殿があって、そこには神官しか入れないように、「会見の幕屋」でも神殿の奥の「至聖所」には祭司しか入ることができない。

神社の拝殿には賽銭箱があるが、ユダヤ教の神殿にも献金箱があった事が記録されている。さらに神社の入り口には狛犬(こまいぬ)二頭が置かれている。犬と言うより、見るからにライオンだ。日本にいないライオンの像がなぜ神社に据えられているのか。ユダヤ教の聖典は、神の宮の両脇にライオンの像を据える風習があったと伝えている。

イスラエル・ティムナ渓谷公園に復元された移動式神殿

神社の基本構造

■5.ユダヤ教も神道も「すべてに神が宿っている」

しかし、いくら建物や服装、行事は似ていても、ユダヤ教は一神教であり、神道は八百万の神を祀る多神教であるから、本質的に違うのではないか、という疑問が生ずる。

これに対しては、エリ・コーヘン氏はユダヤ教聖典の「神の栄光は全地に満つ」を引用して、ユダヤ教の神が全ての地に臨在する神であるのに対し、八百万の神々もどこにでもいらっしゃる遍在の神である、と指摘する。とすれば、一神教と多神教という違いは概念上のものでしかなく、要はすべてに神が宿っている、という世界観においては同じ事になる。

ユダヤ教では偶像礼拝は禁じられているが、同様に神道も神をかたどった像を祀ったりはしない。この点は、仏教で仏像や観音像を祀ったり、キリスト教で十字架に磔(はりつけ)になったキリスト像やマリア像を礼拝しているのとは、根本的に異なる。

■6.天皇と朝廷を支えた秦氏

さて、ここまでならユダヤ人渡来説という興味深い歴史話に過ぎないが、真に重要なのは、これが史実だとして、現代の我々にとってどういう意味を持つのか、という事である。この点で田中教授は次のような指摘をされている。

ユダヤ系の秦氏は、その財力と組織力から見て、後の藤原氏のように政権をとり、自らが思う計画を実施することは可能だったと思います。暴力的にもできただろうし、政治技術的にもできたはずです。しかし秦氏は、そうはしませんでした。

秦氏は天皇を守る方向に向かったのです。

第29代欽明天皇は西暦540年に帰化人たちに戸籍を与え、秦氏の7053戸を掌握する「秦伴造(はたのとものみやつこ)の地位を族長である秦大津父(はたのおおつち)に与えたようだ。彼は朝廷の徴税や財政に関わっていた。ユダヤ人ならではの経済感覚で天皇を支えたようだ。

それから半世紀ほど後の摂政・聖徳太子を側近として助けたのも、当時の族長的な存在・秦河勝(はたのかわかつ)であった。河勝も政治や経済の面で、朝廷を支える重要な働きをした。

前述のように、ユダヤ教の様式に従って神社を創建したのも、古神道の信仰を変えるものではなく、かえってそれに形を与えたのである。特に仏教がお寺や仏像などの造形の力で人々を仏教信仰に誘ったのに対して、神社という簡素な、しかも古神道の教義によく合った形式を与えたのは、神道を守る上で大きな功績と言えるのではないか。

■7.ユダヤ人の求めた「平安」

それにしても秦氏はなぜ天皇を助ける方向で働いたのか? そのヒントは秦氏が平安京の建設に力を尽くした所に見つかる。ユダヤ人の首都はエルサレムだが、ヘブライ語では「イェルシャライム」という。「イール」は都、「シャローム」は「平安」であり、日本語に訳せば、まさに「平安京」なのである。

秦氏がどれだけこの命名にあずかったのかは分からないが、ユダヤ人たちの願いが「平安」にあった事は想像に難くない。

ユダヤ人の歴史は苦難に満ちたものであった。集団移住したエジプトでは奴隷とされ、そこから脱出してパレスチナで王国をつくったが、南北に分裂。北の王国は紀元前721年にアッシリアによって滅ぼされ、多くの人民が捕虜として囚われた。その後も、バビロニア、ペルシア、古代マケドニア、ローマ帝国と、次々と支配者が変わった。

西暦66年にローマ帝国に対して反乱を起こして失敗すると、厳しい弾圧を受け、多くのユダヤ人が世界に離散していった。その一部が中央アジアに弓月国をつくったのだが、中央アジアも遊牧民族が覇を争う土地であり、中国に行っても繰り返し王朝交代の戦乱に覆われる。

■8.ユダヤ人を同化した「和の国」

秦氏にとってみれば、辿り着いた日本でようやく「平安」の地を見いだしたのだろう。そこは初代・神武天皇が「天地四方、八紘(八方)にすむものすべてが、一つ屋根の下の大家族のように仲よくくらそうではないか」と宣言して即位された「和の国」であった。

その「和の国」はユダヤ人の持っていた技術を高く評価し、国民として戸籍を与え、国家の要職に重用してくれたのである。彼らの財力や技術を持ってすれば、大和朝廷を倒して、自らが天下をとることも可能であったかもしれないが、そうすることは戦乱を招いて、ようやく見つけた「平安」を壊す恐れがあった。

そういう危険を冒すよりも、彼らは皇室を補佐して、この「和の国」をさらに良い国にしようと志したようだ。田中英道教授は言う。

日本に同化した、と言ってもいいでしょう。日本人のやり方と生き方に服したと言ってもいいでしょう。ここが非常に大事なところです。

日本にわたってきたユダヤ系の人たちは、彼らの理想郷を日本に見たのです。その可能性を私は非常に感じます。

安住の地を求めて、ユーラシア大陸をさまよってきたユダヤ人は、日本で歓迎され、彼らの能力・技術を活用する場を与えられ、国家の中で「処を得た」のである。

平安時代の初期に、平安京付近の氏族の記録をまとめた『新撰姓氏録』では全部で1182の氏姓が記録されており、出自によって皇別、神別、諸蕃の3つに分類されている。『諸蕃』とは帰化人で、全体の3分の1にも達していた。

古代日本は多くの帰化人を迎えた多民族国家であった。そして、それぞれの民族が得意な能力を発揮して、国家の経営に参画し、やがて長い時間の後に融合して、ついには一つの民族となったのである。

ヨーロッパのキリスト教社会に移住したユダヤ人たちは、地元社会には同化されずに、ゲットーと呼ばれる閉鎖された一角をつくって、その中で生きてきた。彼らは金融やビジネスでの能力で成功したが、それがために他民族の妬みを呼び、それも一因となって、差別や迫害に晒されてきた。

こうした歴史と比べてみれば、ユダヤ人も含め多種多様な民族を良き国民として遇し、ついには同化してきた「和の国」の力がよく見えてくるのである。

(文責 伊勢雅臣)


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1 コメント

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Unknown (sy)
2019-11-21 02:25:15
近所に180センチ位足長痩せ型の
友人が居ます、如何見ても
アラブ系に見えます、町内に数人
同じタイプの人が居ます。

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