花熟里(けじゅくり)の静かな日々

脳出血の後遺症で左半身麻痺。日々目する美しい自然、ちょっと気になること、健康管理などを書いてみます。

「武士の誇り~~マダム・バタフライ(蝶々夫人)」  

2012年03月28日 16時53分10秒 | ちょっと気になること
フランスでは、行政文書に独身女性に使用する「マドモアゼル」という言葉を使用せずに、今後は「マダム」に統一することになったとマスコミで報道されています。 男性は「ムッシュー」だけなのに、女性を未婚・既婚で区別するのは女性差別に当たると言う女性団体の要求があったからだそうです。  フランスは離婚率が非常に高いということや、 同棲カップルにも夫婦と同じ財産上の権利が与えられるようになったため、「結婚しているか、していないか」という枠組み自体が意味をなさなくなってきたことが背景にあると言われています。


「マダム・バタフライ(蝶々夫人)」は、1890年代初頭に長崎の外国人居留地に住んでいたサラ・ジェニー・コレル(鎮西学院の校長夫人)から聞いた長崎の話をもとに1898年、アメリカ人ジョン・ルーサー・ロングが小説にしたものです。この小説をもとに、イタリア人作曲家プッチーニが、オペラ「マダム・バタフライ」を作曲しました。 このオペラは、長崎の色街で働く芸者・お蝶が、米国海軍軍人ピンカートンと恋に落ち子供を設けるも、彼の夫人が子供を引き取ってしまい、これを苦にした蝶々さんが自害してしまうという悲劇として世界中で度々上演され、プッチーニの名作として知られています。

昨年11月19日に「蝶々さん〜最後の武士の娘〜」がNHKで放送されましたが、「蝶々さんは悲嘆にくれて死んだのではない。武士の娘として.誇りを持って死んでいった」という解釈に大変な興味を覚えました。 ドラマは、脚本家の市川森一氏が、プッチーニの名作オペラを基に、長崎新聞に連載、2008年に出版した小説が原作で、市川氏が脚本を手掛けています。
 
さらに、11月23日にはNHK-BSで、「蝶々夫人は悲劇ではない〜オペラ歌手岡村喬生80歳イタリアへの挑戦〜」と題したドキュメンタリーが放映されました。 プッチーニ作の蝶々夫人はヨーロッパ人の見た表現で作成されており、日本人の考え方とは異なっており、さらに、事実誤認もあるとして、岡村喬生氏が自ら脚本を書き、2011年にイタリアで行われたプッチーニ・オペラ・フェスティバルで上演するまでの苦闘を描いています。  

市川・岡村両氏ともお蝶が、「葉隠」の佐賀藩の没落武士の娘であることを念頭に、「武士の自害とは自らを罰することでも、敗北でもない。誇りの証」であるとした、ストーリーになっています。 市川脚本では蝶々さんが、作法に則って死に装束に身を包み、作法通りに家伝の短刀を咽喉の刺して自害する場面を描いています。


さて、現在は明治元年(1868年)より140年を過ぎていますので、流石に『士族』という言葉は耳にしませんが、最近、この『士族』という言葉を直接耳にする機会がありました。  それは、最近大叔父と電話で話していた時のことです。「このような時代で、はばかられるが、士族の出として恥ずかしくない生き方をしなければならないのだぞ。」といった言葉でした。 私が幼小の頃にはたまに「士族の出だから・・・・」という言葉を聞かされていましたが、平成24年の今になって、耳にするとは思いませんでした。 しかし、“世間様に恥ずかしくない生き方をせよ”と言ってくださる世代が極わずかですが存在しています。誠にありがたいと思っています。

蝶々さんの話は明治初期の頃のことですから、.没落しても武士の末裔として誇りを持って生きている人が多かったと思います。 蝶々さんも小さい頃から、武家の娘として、“葉隠”の精神を叩き込まれ、厳しく育てられたと考える方が素直な感じがします。市川、岡村両氏の捉え方に共感を覚えます。
 


(NHK長崎放送局ホームページ)

<あらすじ>
「明治初期、元佐賀藩の士族の娘として生まれた伊東蝶(宮崎あおい)は、佐賀の乱に巻き込まれた父を亡くし、母・やえ(奥貫薫)と祖母・みわ(藤村志保)によって育てられた。お蝶が新しい世で身を立てていけるようにと熱心に学問をさせ、家伝の能笛を伝える一方、武士の娘としての心構えを叩き込む。「武士の自害とは自らを罰することでも、敗北でもない。誇りの証」。

しかし、その母と祖母は、お蝶の小学校卒業を前に突然流行り病で亡くなってしまい、お蝶は親戚のつてで長崎の貸座敷「水月楼」の養女となる。養母・マツ(戸田恵子)は女学校への進学を約束してくれていたが、その養母も病で死去してしまう。お蝶は跡取り娘の立場から一転女中の身に、さらには置屋「末石」に身をおき、やがて舞妓「春蝶」となるのだった。

そんな流転の人生の中、お蝶の心の拠り所となったのは、幼馴染ユリ(池脇千鶴)の存在だった。ユリは、なんとアメリカ人宣教師の養女となっていたのだ。お蝶はユリとの親交を糧に、英語を学び続ける。
ある日、お蝶は米海軍士官のフランクリン(イーサン・ランドリー)と出会う。フランクリンは乗船する巡洋戦艦の修理のために長崎に滞在していた。フランクリンの中に日本の武士に通じる心意気を感じるお蝶。

2人は互いに惹かれあい結婚する。しかしフランクリンにとってそれは、滞在期間だけ、かりそめの夫婦生活を過ごす「長崎式結婚」だっだ。しかし、お蝶との暮らしの中で、フランクリンは、お蝶に真実の愛を感じるようになる。やがて船の修理も終わり、フランクリンは長崎を離れることになる。お蝶は彼の子どもを身ごもっていた。
1人で息子・襄(ジョー)を出産し、夫の帰りを待ち続けるお蝶。そこにもたらされたのは、「アメリカに渡った、もうひとりの私」とまで思っていた幼馴染のユリの死だった。

そして待ちかねたフランクリンの船が、再び長崎港に入港する。しかし、お蝶の元に現れたのは、フランクリンのアメリカ人の妻だった。子どもを引き取って育てたいという申し出にお蝶は悩みぬくが、我が子の将来を考え、自由平等の国アメリカでの栄達を願い、「りっぱな人間に育ててください」とフランクリンの妻に息子を託す。

襄を乗せた船が港を離れていく。息子を手放した喪失感にさいなまれるお蝶にユリの兄・谷川伊作(伊藤淳史)が求婚する。受け入れれば、当たり前の幸せが手に入る。しかし、それはフランクリンとの愛を否定することになる。
フランクリンとの愛がまやかしではない真実のものだったという証に、お蝶は自らの人生を終わらせる道を選ぶ・・・

そして時は流れ、昭和11年、東京・歌舞伎座。「蝶々夫人」の凱旋公演を客席からじっと見つめる、お蝶の遺児、ジョー(襄)・フランクリン(川平慈英)と大成した伊作(野田秀樹)の姿があった。」


(2012年3月28日 花熟里)


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