幸せの雲と整体師  

呉市広の整体院 木村です。
(腰痛、肩こり、生理痛、不妊症など)
とびしま街道やランチなどの日記です

とびしま街道 三戸代港

2009-03-01 05:19:35 | 蒲刈・とびしま海道
広島ブログ←ぽちっとクリック、よろしくお願いします。

(実はこの記事、早朝5時に書いたのに下書きのまま公表されていませんでした)

おはようございます。今日から3月ですね、最近は日差しも変わってきて
もうすぐ春という感じです。

今月初日の仕事は松山出張整体。これから6時の船に乗ります。
祝日は仕事してるし、先週の日曜日、しなうに食べに行った日も仕事しました。
よく頑張ってます。寝ておきたら疲れが取れるんです。
最近、それを良く感じますね。

今日の紹介の写真はとびしま街道の入口下蒲刈から。
安芸灘大橋を渡って坂道を下っていると左手に見える三戸代港。
広い駐車場がありますが今は定期便はありません。

観光でとびしまに行かれる場合、一度ここにも寄ってみるといいです。
松がたくさん植えられて庭園風になっているし、ここからの安芸灘大橋の
景観もなかなか素晴らしいものです。

では行って来ます。








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12 コメント

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絶景 (孤島児)
2009-03-03 09:13:35
水戸代の地名は蒲刈の初代、南朝方地頭だった水戸氏に由来していますが、早晩北朝方の多賀谷氏の領地になりました、水戸代は蒲刈の由緒歴史を物語る絶景の地ですね。丸屋城を拠点にした多賀谷氏は小早川の侵攻により呉や豊島へ追いやられて江戸時代にはそこそこの庄家として生き延びています。
それにしても大浦の先祖碑を見ると、日本史の中枢人物である大和王朝の子孫が住み着いた地域であることが記されていて随分驚きと特殊な所であると興味を沸かせていますが、いつこのような日本史上を彩る方々が一堂に移住したのかご存知ですか?
Unknown (金星)
2009-03-03 12:39:42
>弧島児さん
蒲刈の中でも大浦地区の祭りなど他の地区とは
違った歴史的な雰囲気があります。
小早川姓は向に多いのですが、因島に先祖の行事があると行かれていた人がいました。
万葉集にうたわれたというのは大浦も安芸津もですが海をへだててこの地域に古い歴史があるようですね。
小早川氏 (孤島児)
2009-03-03 23:23:29
村上氏の先祖は因島の今蓮寺にあります小早川は足柄山の関東平氏早川庄出地で、備後の地頭に下向してからの先祖は三原の米山寺に宝匡院塔がずらりとありますから有名です。それは沼田小早川本家ですが分家の竹原小早川の子孫が蒲刈に侵攻し同じ関東平氏の多賀谷を追い出したとも言われています。
近代に書かれたと思える大浦の先祖碑に記されている古代日本史上を彩る家なら、いろんな史料で検分出来ますが今まで見たことも無く特に人皇何代とか藤原鎌足何代とかですからPCでさえ簡単に系図が見れるほどの方々です、凄い驚きです。今後有名な歴史家に紹介してみようと思いますが、未だ研究する手口も見出せません。知ってることが有れば教えて下さい。近世の庄屋等なら国群誌下弾帳に保存されていますから先祖は簡単に解るのですがね。
物語なのか勝手な伝説なのか解らないままでは御手洗天満神社同様、中央へ紹介しても恥を掻きますからね。いまや地方史は文献史学でバレル伝説は通用しません、究明して本当なら日本史を覆すほど凄いことです。
蒲刈の歴史 (孤島児)
2009-03-04 11:18:20
古代史では宮盛りの村本家古墳を筆頭に、
中世史として宮司、内藤家、寺の弘願寺永野家、蓮生寺、荘厳寺、
蒲刈の地頭、三戸氏、多賀谷氏、小早川氏、
近世史では三ノ瀬、出来屋永浜氏(永山)
向では福島屋木村氏、胡屋小早川氏、
田戸では恒藤氏、梶山氏、大下氏、
宮盛りでは平谷屋村上氏、宮本氏、平松氏、
大浦で岡村氏、稲葉屋今村氏、これらは古文書や神社の棟札に列挙されている庄屋、組頭を任命された旧家ですから先祖も藩が差出状を認めている歴史的な家です。、大浦の先祖祭りの碑には文献上何の手がかりも無く、日本の歴史家を驚かせるほどの凄い碑文ですが紐解く糸口が見出せません、解ったことが有りましたら教えてください。大和王朝の天皇や藤原氏の子孫が大浦に終結していたとは、何故に?っと全国を揺るがすことでしょう。
Unknown (金星)
2009-03-05 09:28:38
>弧島児さん
蒲刈の歴史、大浦の住職さんは考古学者ですがなにかご存知かもしれませんね。
大浦の不思議 (孤島児)
2009-03-05 23:28:21
僕も松浦師の住職墓に手がかりがある筈かと行って見ましたが、江戸末期の墓が数基あるだけで蒲刈では一番歴史が語れない寺の痕跡でした。先祖碑はありません、来生寺は元々4っの浄土真宗道場が合併して大正年間に作られた寺ですから大長の本徳寺と似た物です。、但し藻塩復元などの古代生活的な知識は豊富だと思います。地道に大浦の先祖碑文を写し書きして大和王朝日本史の中枢人物子孫として記されている一文字づつを検証して見ましょう。旭氏の先祖碑は原トンネルの記念碑ほどあります。人皇何代の子孫だと書いていますから見て見てください、中世の五輪の一部が1基あるだけですがね。僕も今まで随分歴史文献は読み続けましたが、それなら安芸の国の何かに、あるいは蒲刈の封建時代の役家に登場してしかるべきですが見当らないの不思議なのです。人皇降下家や源平藤橘家は東大歴史編纂室に調べ尽くされている筈なので日本史を覆す発見になるかも知れません。金星さんの島ですから興味を注いで見てください。
孤島児さんの内容は嘘ばかりです。 (大浦の三吉屋松浦です。)
2020-09-09 17:06:50
絶景 (孤島児)
2009-03-03 09:13:35
水戸代の地名は蒲刈の初代、南朝方地頭だった水戸氏に由来していますが、
早晩北朝方の多賀谷氏の領地になりました、水戸代は蒲刈の由緒歴史を物語る絶景の地ですね。
丸屋城を拠点にした多賀谷氏は小早川の侵攻により呉や豊島へ追いやられて江戸時代にはそこそこの庄家として生き延びています。
それにしても大浦の先祖碑を見ると、日本史の中枢人物である大和王朝の子孫が住み着いた地域であることが記されていて
随分驚きと特殊な所であると興味を沸かせていますが、いつこのような日本史上を彩る方々が一堂に移住したのかご存知ですか?


絶景(孤島児)の嘘
多賀谷久兵衛武久譜録(毛利公爵家所蔵)の系図から多賀谷秀直(小三郎)建久元年(1190年)11月 頼朝上洛の時先陣を預かり軍功をあげる。
翌年6月賜 一庄城主とあいなる。芸州に下向 金の扇子を頼朝から授かる。家紋変更。
広島大学古瀬教授のJIRO沖浦遺跡報告書には、大浦丸尾遺跡には13世紀頃の輸入陶器が多数発掘されている。
多賀谷氏が貿易行為をした証拠とみられる。源頼朝の上洛の際、先陣の九番に名がある。建久元年(1190年)11月7日 丁巳 雨降る、午の一刻晴に属く。
その後風烈し 二品御入洛。法皇密々御車を以て御覧す。見物の車轂を輾り河原に立つ。申の刻、先 陣花洛に入る。三條末を西行、河原を南行、
六波羅に到らしめ給う。その行列、 先ず貢金唐櫃一合   次いで先陣    
 九番  馬場の次郎 八嶋の六郎  多加谷(多賀谷)の小三郎 (吾妻鏡)より
多賀谷景茂 (景信 藤太郎 弥五郎 式部大輔)下蒲刈の蒲刈城城主となる。建長八年(1256年)
毛利家文書に正平6年9月28日(1351年)常陸親王令旨によって,「日高下島〈多賀谷孫次郎跡〉」
下蒲刈が高田郡内部荘を本拠とする三戸孫三郎頼顕に兵粮料所として預置かれている両蒲刈は南朝方の拠点となったとみられる。
多賀谷興景 (初 興広 藤十郎 左兵衛尉) 尼子方(白井水軍か?)に攻められ蒲刈城にて戦死。
享徳元年(1452年)日高城麓(蒲刈大浦地区)の抑えの重見将監の在所は竹原小早川氏の援軍により守られている。(小早川家文書)

絶景(孤島児)の嘘1.
水戸代の地名は蒲刈の初代、南朝方地頭だった水戸氏...は嘘。

建久2年(1191年)6月に多賀谷秀直が日高庄の地頭職になったのは三戸氏より早い
三戸氏が地頭職でなく兵粮料所(南朝方の為、呼び名が違う)を得たのは、毛利家文書に正平6年9月28日(1351年)常陸親王令旨によって,「日高下島〈多賀谷孫次郎跡〉」
下蒲刈が三戸孫三郎頼顕に兵粮料所として預置かれている両蒲刈は南朝方の拠点となったとみられる。
田戸には、三戸姓が未だに残っている。現JA呉組合長の三戸正宏氏に代表される。

絶景(孤島児)の嘘2.
丸屋城を拠点にした多賀谷氏は小早川の侵攻により呉や豊島へ追いやられて江戸時代にはそこそこの庄家として生き延びています。は嘘

多賀谷興景 (初 興広 藤十郎 左兵衛尉) 尼子方(武田方白井水軍か?)に攻められ蒲刈城にて戦死。
1430年ころの安芸武田氏14代目の信繁は佐東、山県、安南の三郡守護職の地位でしかなかった。蒲刈町史によれば、
蒲刈は、安南郡にあたり宮盛地区の某家では、この武田氏の家臣であった言い伝えが今に残っている。
享徳元年(1452年)日高城麓(蒲刈大浦地区)の抑えの重見将監の在所は竹原小早川氏の援軍により守られている。(小早川家文書)
竹原小早川は河野水軍の重見氏に援軍をだしている。攻めたわけではない。
江戸時代になると、多賀谷元重(宮熊丸 主水 久兵衛)毛利就隆に使え知行340石、蒲刈に一族郎党を殆ど残し、山口へ。
あくまでも広村庄屋の多賀谷氏や三ノ瀬町年寄多賀谷氏は分家であります。





小早川氏 (孤島児)
2009-03-03 23:23:29
村上氏の先祖は因島の今蓮寺にあります小早川は足柄山の関東平氏早川庄出地で、
備後の地頭に下向してからの先祖は三原の米山寺に宝匡院塔がずらりとありますから有名です。
それは沼田小早川本家ですが分家の竹原小早川の子孫が蒲刈に侵攻し同じ関東平氏の多賀谷を追い出したとも言われています。
近代に書かれたと思える大浦の先祖碑に記されている古代日本史上を彩る家なら、
いろんな史料で検分出来ますが今まで見たことも無く特に人皇何代とか藤原鎌足何代とかですからPCでさえ簡単に系図が見れるほどの方々です、
凄い驚きです。今後有名な歴史家に紹介してみようと思いますが、未だ研究する手口も見出せません。知ってることが有れば教えて下さい。
近世の庄屋等なら国群誌下弾帳に保存されていますから先祖は簡単に解るのですがね。
物語なのか勝手な伝説なのか解らないままでは御手洗天満神社同様、中央へ紹介しても恥を掻きますからね。
いまや地方史は文献史学でバレル伝説は通用しません、究明して本当なら日本史を覆すほど凄いことです。

小早川氏(孤島児)の嘘1

竹原小早川の子孫が蒲刈に侵攻し同じ関東平氏の多賀谷を追い出したとも言われています。は嘘

天文21年(1552年)、 陶晴賢が義隆の養子であった大友義長を大内氏新当主として擁立することで大内氏の実権を掌握した。
天文24年(1555年)、前年まで陶晴賢方であった毛利元就は村上武吉の助勢を借りて厳島の戦いで、襲来してきた陶晴賢を討ち取る。
陶方であった同族の倉橋多賀谷は滅ぼされ、蒲刈多賀谷は降伏した。
弘治3年(1557)8月1日付毛利隆元安堵状。多賀谷武重(宮内少輔)に対し、長門国美禰郡下加万(しもかま)別府(山口県秋芳町)で100石。
同郡岩永別府内水田村(同町)で40石の地の当知行を安堵。同じ年8月付で、岡就栄・裳懸宗秀という小早川隆景の家臣によって、
両蒲刈島内の仏神田の坪付が作成されている「広島大学所蔵蒲刈島文書」その後、来島村上の知行地。来島(村上)通清が蒲刈に知行1000石をもらい大浦の日高城に入る。
兄の来島通総は竹原に4700石を貰っている。しかし来島兄弟は、天正10年(1582年)年中国地方の高松城の戦いがあった時より豊臣秀吉方となり後、
毛利家は、瀬戸内から来島村上を一掃するが、来島(村上)通清だけは、日高城に籠城し頑強に抵抗した。その後、毛利と和睦し小早川隆景の管理化に置かれる。
来島の日高島の警固は手島や有田等の文書がある。(乃美文書)

小早川氏(孤島児)の嘘2
近世の庄屋等なら国群誌下弾帳に保存されていますから先祖は簡単に解るのですがね。は嘘

芸藩通志は1663年に広島藩の作成した地誌『芸備国郡志』を改訂し、内容を増補するために、
1818年から再調査や資料の整理等の調査事業を開始して、最終的に1825年に完成を見た。
「芸藩通志」 を編纂するために,各村から提出させたのが「国郡志下調書出帳」ですべての村の庄屋や組頭が書かれているものでない。
漢字すら間違えています。




蒲刈の歴史 (孤島児)
2009-03-04 11:18:20
古代史では宮盛りの村本家古墳を筆頭に、
中世史として宮司、内藤家、寺の弘願寺永野家、蓮生寺、荘厳寺、
蒲刈の地頭、三戸氏、多賀谷氏、小早川氏、
近世史では三ノ瀬、出来屋永浜氏(永山)
向では福島屋木村氏、胡屋小早川氏、
田戸では恒藤氏、梶山氏、大下氏、
宮盛りでは平谷屋村上氏、宮本氏、平松氏、
大浦で岡村氏、稲葉屋今村氏、これらは古文書や神社の棟札に列挙されている庄屋、組頭を任命された旧家ですから先祖も藩が差出状を認めている歴史的な家です。
、大浦の先祖祭りの碑には文献上何の手がかりも無く、日本の歴史家を驚かせるほどの凄い碑文ですが紐解く糸口が見出せません、解ったことが有りましたら教えてください。大和王朝の天皇や藤原氏の子孫が大浦に終結していたとは、何故に?っと全国を揺るがすことでしょう。

蒲刈の歴史 (孤島児)の嘘

上記内容は自費出版された蒲刈町田戸出身の脇本彰氏の「蒲刈島郷土史」にかかれている内容から推察されたのだと見て撮れる内容です。
本家以外は、家系図は、門外不出であった訳で、藩に提出した由緒の内容は、簡単なものでした。そうして選ばれた
(上下)蒲刈島村の初代庄屋は島末氏で、呉市の初代市長の沢原家と同格の
安芸郡の役人で割庄屋でありましたし、組頭は各5浦からひとりづつ選ばれました。これは庄屋が家の格式で各浦の組頭が浦庄屋と呼ばれその時々の有力な長百姓家
から選ばれていますのので、上記の家だけとはかぎりません。島末家は没落しています。常にその家が庄屋になるわけではありません。
田戸地区に島末姓は残っています。



大浦の不思議 (孤島児)
2009-03-05 23:28:21
僕も松浦師の住職墓に手がかりがある筈かと行って見ましたが、江戸末期の墓が数基あるだけで蒲刈では一番歴史が語れない寺の痕跡でした。
先祖碑はありません、来生寺は元々4っの浄土真宗道場が合併して大正年間に作られた寺ですから大長の本徳寺と似た物です。、
但し藻塩復元などの古代生活的な知識は豊富だと思います。地道に大浦の先祖碑文を写し書きして大和王朝日本史の
中枢人物子孫として記されている一文字づつを検証して見ましょう。旭氏の先祖碑は原トンネルの記念碑ほどあります。
人皇何代の子孫だと書いていますから見て見てください、中世の五輪の一部が1基あるだけですがね。僕も今まで随分歴史文献は読み続けましたが、
それなら安芸の国の何かに、あるいは蒲刈の封建時代の役家に登場してしかるべきですが見当らないの不思議なのです。
人皇降下家や源平藤橘家は東大歴史編纂室に調べ尽くされている筈なので日本史を覆す発見になるかも知れません。
金星さんの島ですから興味を注いで見てください。




大浦の不思議(孤島児)の嘘

僕も松浦師の住職墓に手がかりがある筈かと行って見ましたが、江戸末期の墓が数基あるだけで蒲刈では一番歴史が語れない寺の痕跡でした。の嘘

蒲刈町史には1597年組頭の松浦庄吉とあるように、

来生寺は讃岐屋松浦家の分家湊屋松浦家で江戸時代に讃岐屋から分かれたので当然江戸時代からしかない。讃岐屋は別にあります。
讃岐屋はなぜか江戸時代現在の香川県に渡り武士になりましたが、理由はわかりませんが、なにかしらの由緒があったのだとおもいます。

毎年先祖祭りをする松浦家先祖墓は、あります。今村家家譜では、たしか明治34年に4つの道場が合併しました。

今村家重森家の浄土真宗の道場は江戸時代より前になりますし、松浦家も江戸期には浄土真宗に改宗しています。寺西家は塩田の指導に江戸時代に
来大浦に入ってますが、古い家系であるとおもわれます。

江戸時代蒲刈島の水主役家は124家あり大浦だけで18家あったのが分家をだし幕末までに34家ありました。この辺は蒲刈町史に詳しいです。
水主役家は九州の大名の参勤交代や朝鮮通信使の水先案内人であります。性格上江戸時代より以前は海賊衆の家でしたが、岡に上げられ百姓身分になりました。
大浦の先祖祭りは、神社とは別にそれぞれの家が氏神様が別にあり、こちらの祭りであって、口伝しか書いてない先祖碑を拝むわけではありません。

大浦でも今村家や重森家の由緒は比較的に具体的にわかるはずですが、ながくなるので書きません。
大浦に限らず水主役家124家は江戸時代より前は海賊衆であった訳ですから、私の父のように海賊衆があたかも悪い家であったと思い
百姓であったと人には伝えています。現在は由緒が興味ない人も増え正確に由緒が伝わる家は皆無
三吉屋松浦の嘘を検証してみました。 (三吉屋松浦)
2020-09-14 12:42:08
島末氏を初代庄屋にした訳は、蒲刈町史に慶安5年(1652年)の向の春日大明神の棟札に願主下島庄屋島末重良右衛門の名が刻まれている。
浅野家が広島入植した1619年から33年は経ていますがこれ以上古い資料はないので初代としています。

明治34年来生寺ではなく明治45年でした。すいません。

松浦道場は蒲刈町史によれば松浦正左衛門(1504年に蒲刈に入植。九州の松浦党有浦家の一族で河内石川庄の地頭として入植し
石川氏と縁をもち石川源氏源義時流の系図を引いた。松浦家では口伝されている)の3代が文禄元年(1592年)5月に道場を開いたとあるが
現来生寺湊屋松浦家が讃岐屋松浦家から分家したのは江戸時代に入ってから、
さらに平安時代の仏像がある大浦の薬師と呼ばれる東善寺は、現在まで松浦家が管理しているので、真宗に帰依したのは、松浦家が大浦では遅い時期ではないか
と個人的には、思っています。あくまでも推測です間違っていたらすいません。

蒲刈大浦の呉田道場家の過去帳によれば
初代今村甚兵衛成義は慶長5年(1600年)今治の常高寺
了空より本尊をあずかり正保元年(1644年)に本堂を建立し
正保4年(1647年)から浄土真宗道場を開いている。
これにより今村家改宗の時期は1600年で道場を開いたのは、
1647年と見てとれます。

呉田道場が松浦道場と合併し来生寺になったのが、
明治45年1月8日と今村家家譜にあるが蒲刈町史にも明治45年
とある。ちなみに4家が一緒になったのは、大正14年と書かれています。

中道場(江戸時代に存在した蒲刈の真宗道場)
「先祖は重森朝之進と言う者で京都本願寺に於いて蓮如上人にお目見し
他力本願の云われを聞いて師弟の約をなすため弟子となり明応年中
(1492年~1501年但し蓮如は1449年死去)に蓮如上人親子の筆跡(十字名号か?)
を授かり大浦に帰住す。、、、、、、」(蒲刈志より 年代 文化年1804-1818年 )
 又、本願寺史料研究報第32号に
「広島県蒲刈町重森家の十字名号本尊は
准如上人の十字名号(慶長前から中期型)として検出できた。
(副所長 金龍静 氏)」とある。
蒲刈志に書かれているように蓮如上人親子の十字名号ではなくて
顕如上人の子息西本願寺第12世准如(1557年~1631年)の真筆であった。
ただ真宗道場を始めた時期は第12世准如となった文禄2年(1593年)以降となる。

4家中最後の道場家寺西家も江戸時代に竹原から来島ですから、大浦の真宗の帰依は早くても1590年代で、
上下蒲刈の中では、遅い方ではと考えています。そのころまで残っていた禅宗の墓の五輪塔の墓がなくなり真宗の様式
に代わってきているのでそう感じています。道場家はさすがに先祖祭りの時は先祖墓でお経をよみますが大浦のほかの家は氏神さまの祭りです。
重森家少し調べました。 (三吉屋松浦)
2020-10-30 18:16:07

重森家の6字名号(広大の魚住教授により真筆)の存在が気になり蒲刈重森家18代当主伸さまに確認を取らせて頂き解たことがあります。

蓮如上人の6字名号及び准如上人10字名号(本願寺研究所により真筆)は、真筆であった事。


蒲刈重森の伝わる文書2代目の龍之進が父の「重森朝之進記」を残していますが、
内容は明応年中(1492年~1501年)に伊勢参宮を目的に村人の中から募集し市兵衛、太郎作、市右衛門、佐助、他にあすか村の物一人
が参宮することになった。途中に摂州大阪により評判であった蓮如上人より6字名号を頂いている。

那智大社の米良文書(文明元年1469年)那智大社の廊坊の御師六角堂が合計拾壱貫文で御師の門弟の筑前先達(山伏)の
安芸の蒲刈の檀那全てを権利を12年間売っている文章があります。(下蒲刈町史資料編45)戦国期になると
熊野詣では衰退し代わりに高野山や伊勢参が台頭してきます。(熊野先達は旅行業者で御師は宿坊の責任者なので、今では旅館の大将。)
「重森朝之進記」の朝之進は1469年の筑前先達とある蒲刈に旦那を持つ熊野先達と見てとれます。蒲刈の向地区には、那智大社の末寺本宮神社があり、
向地区の人達は、奥の宮と呼び現在も伊勢の歌を歌い伊勢踊りを舞う。さらに伊勢の札を現在も配ります。

川尻にある。光明寺はこの頃向地区にありました。西光寺と称して禅宗の寺でしたが僧 正光が明応五[1496]年改宗した。
光明寺には蓮如の子実如より方便法身尊像を明応5年(1496年)頂き改宗しています。(下蒲刈町史資料編49)
「朝之進記」によれば明応年間中に伊勢参りの途中に摂州大阪により評判であった蓮如上人
より重森家も6字名号を頂いている。蓮如が摂津大阪にいた明応5年(1496年)~明応6年(1497年)の3月までに頂いたことになります。
光明寺が方便法身尊像を頂き真宗に改宗した時期が重なり光明寺の僧 正光が朝之進の旦那のひとりであったと言えます。
重森家のもう一つお宝准如の10字名号に関しても光明寺 僧 善正が慶長11年(1606年)に准如より木仏をさずかっているので
重森家の十字名号も慶長11年にいただいたことになります。(下蒲刈町史資料編49)
朝之進が道場を始めたのは明応8年(1498年)からとなっているので、大浦地区で真宗(一向宗)の布教の始まる年となります。
熊野先達であった朝之進が蒲刈に移り住んだのもこのころになります。


光明寺の日高家と重森家は平家の子孫であったと口伝されています。
光明寺が真宗に改宗した時、禅宗の本尊であった平安時代の仏像(呉市の重要文化財)は大浦地区に移されています。
宮盛地区は円浄坊が1558年改宗し真宗に。蒲刈に真宗の布教が始まったのは光明寺の明応五[1496]年
が始めであります。なぜか?
広島方面も仏護寺(芸門徒の本拠地・本願寺広島別院。元は天台宗のお寺。長録3年(1459年)武田義信の菩提寺として下安村に開基。)
明応5年(1496年) 天台宗から真宗へ同じ時期に改宗。
圓龍寺、寛正・應仁の頃(1460-1469)に海然が上洛、蓮如上人の徒弟となり浄土真宗に改めた。

延徳元年(1489)蓮如から実如に実権を交代
蓮如は山科本願寺の南殿に隠居所を設け。本願寺法主の公職の全てを譲りました。
隠居をした蓮如は、先に挙げた山科の南殿や、他の坊院にあって、それぞれ蓮如をしたって訪れる門徒
の教化に当たりました。隠居してから10年の間には60以上の『御文』を作って多くのものに、
その正しい門徒の信仰を指し示しました。そして、希望する者があれば、
「名号」を与えるために筆をふるったとされています。
大坂御坊ですが、明応5年(1496)に、摂津国東成郡生玉庄内に建立されました。
蓮如は82歳になっていましたが、「自余の御坊は総門徒の志にて作らるゝなり、
此大坂の坊は蓮如名号を申さる人の御礼のつもりしを以て御建立の御坊也」といい、
大坂の御坊だけは、求めに応じて書き与えた名号の御礼金で建立したものであるとしています。
5年(1496明応6年(1497)の4月になると、蓮如の身体には衰弱が目立つようになります。
同年の5月7日には山科本願寺の親鸞聖人の御影像に暇乞いをするため上洛しました。
明応8年(1499)2月には自ら葬所を大坂に作りますが、2月20日には急遽山科に移すことになり、蓮如も
山科に入りましたがそこで亡くなっています。

光明寺

住職 日高 美知子

本院住所 広島県呉市川尻町東3丁目3-17
TEL 0823-87-2048

浄土真宗・京都西本願寺直末の寺です。
運慶の作といわれる本尊の「阿弥陀如来」立像の他、
出家から入寂までを華麗に描いた巻物「親鸞聖人四幅の御影」や、
京都中山大納言家から入嫁いた春姫持参の「貝がら合わせ」という、
貝がらに万葉調べの絵を描き金粉をほどこした遊び道具など、
数々の宝物が所蔵されています。




圓龍寺(ホ-ムペ-ジより)
浄土真宗本願寺派寺院の圓龍寺は、蔵満山と号します。圓龍寺の創建年代等は不詳ながら、当初時宗寺院として創建、
安佐郡上安村南部谷蔵満にあったといいます。寛正・應仁の頃(1460-1469)に海然が上洛、
蓮如上人の徒弟となり浄土真宗に改め、毛利氏が広島に開府の際廣瀬に寺地を受領、福島正則の代に当地へ移転したといいます。
もと佛護寺十二坊の一です。

開基当時は時宗でありましたが、本願寺第八代蓮如上人の時代に上洛し、浄土真宗に改宗したと伝えられます。
安芸地域への浄土真宗の伝播は、備後国の山名の寺から伝わったと一般には言われていますが、当山は蓮如上人の時代に芸予諸島の門徒さん方と上洛し、
蓮如上人に 会い浄土真宗に改宗致しました。


Unknown (金星)
2020-11-02 14:58:57
ここにコメントされている情報だけでも蒲刈の歴史のいろんなことが情報としてありますね。どのようにこの島に住むようになったのでしょうね。

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