天地の 和して一輪 福寿草
さくやこの花 幾代経るとも
二宮尊徳作
今朝、Blog友さんの記事で見つけました。
さすが二宮尊徳翁の歌です。
花が咲くのは咲くべくして咲くのですね。
私は歌もそうでなければならないと思います。
「詠うべくして詠う」歌でなければならないと思います。
歌は作るものではなく、自然に作れてしまうものだということです。
作ろうとして作る歌は邪道だということです。
そうして詠われた歌は人に知られなくてもよいのです。
山奥に咲く花が、誰に見られるわけでもないのに、精一杯咲いているのと同じことなのです。
作(さく)は咲くと読みが同じですが、本当の作は、咲くべくして咲くということなのです。
★作は咲くすなはち花が咲くごとく歌は詠へといふことならむ
★花が咲くやうに詠ひし歌なれば人に認めてもらはぬもよし
★奥山に咲きつる花の大方は人に見られず静かに果つる
★奥山に紅葉(もみ)づる紅葉悶えつつやがて悟りて枝より落つる
★もの言はぬ紅葉くれなゐ口もたず耳も持たずに色のみ香る
素晴らしいコメントですね。
口語短歌を詠んで2~3年経ちますが、確かにそんな瞬間があります。やはりそれが歌というものでしょうか?
>やはりそれが歌というものでしょうか?
だと私は思います。
歌の語源は「訴える」からきていると言われていますから誰かに訴えたい気持ちが自然に歌になったのだと思います。
年年歳歳 花相似たり
歳歳年年 人同じからず
全体は知らないんですが、この部分とても好きです。
その通りだな、と思います。
彦根は雪が降りました。寒い。今週末から再び雪予報。息子一家の帰彦は残念ながら諦めました。
まだ もしかしたら 予報が外れる期待もあり。
多分 雪は降り 積もることでしょう。
ガラケーからスマホに替えようとドコモショップに行きました。スマホとらくらくホンを2つ所持しようかと思っています。変化に弱い。
今のガラケーは古くなり故障時に修理不可の連絡あり。
チケット取得もコロナで紙チケットからスマホを見せるのみ となりました。
一応今年中に買い替えと思ってますが 年末バタバタしているので来年落ち着いてからになるかな。
来年の2月13日は大津駅集合の東近江観光協会主催 野口謙蔵のイベントに参加します。一日楽しめます。昼食も楽しみ。
来年からはマスク・検温・消毒考えない自由な生活や旅 出来ますように。
ハイジの短歌も上達しますように。
私は面倒くさがりなので料理も手抜きですし、写真もスマホで写すだけです。
光江さんの、料理にも、写真にもいろいろ工夫されるところは尊敬しかないです。
でも、この私の性分は死ぬまで治らないでしょうね。
スマホは使ってみると利点のほうが多かったです。
一番大きな利点はBlog書きかな。
最近はパソコンがホコリを被ったままになっています。
私は、短歌は、みんな違ってみんないいと思っています。
短歌って不思議ですね。同じものを見ても違う言葉で詠う。それは同じものを見ても違うものを見るからでしょうね。短歌を見ればその人のことがよくわかりますね。
年年歳歳 花相似たり
歳歳年年 人同じからず
諸行無常ですね。
毎年同じように冬が来て春が来ているように見えても、昨年の冬生きていた人が今年の冬にはいなくなっている。
一週間前までは生きていた神田沙也加ちゃんが一昨日からはこの世にいない。もうすぐ昨年と同じようにお正月がくるというのに…。涙
>でも、この私の性分は死ぬまで治らないでしょうね。
びこさんと私はかなりタイプが違います。
びこさんが私を見る角度は、私からすると
イヤイヤ、そうじゃなくてと言いたいです。
私はそうやって弄くりまわして,
ママゴト遊びをするのが好きなんです。
ママゴトの延長線上なんです。
今日もね、残りもので面白いカレーを作りました。
はい、おっしゃるように性分ですから、動ける間はやっていると思います(^▽^)
またお伺いして拝見させていただくのを楽しみにさせていただきます。そして、また真似っ子させていただくかも。笑
数学はある意味で観念(アイデア)の学問です。でないと論理や理屈などの概念(定義)だけでは先へ進めない。
観念は意識や物事に対する(主観的な)考えという意味もあるが、諦めという意味もあります。
つまり、諦めの境地に至った時に観念が湧き、そうやって(観念を詠う)歌が大地深くに根を伸ばすとしたら・・・
”歌も数学も自然に作られる”
事実、そうありたいですよね。
嗚呼、これもブログにしたくなった。