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「竹下村誌稿」を読む 277 駅路 48

(稲架の立つ夕景)

夕方、近所の田んぼで、稲刈りが終り、稲架(はさ)が立てられていた。こんな風景も少なくなった。稲はお日さまによる乾燥の方が美味しいと聞くけれども。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

上来叙説せし、本郡に於ける東海道驛路の沿革を約言すれば、古えは質侶にて駿河を越したるも、初倉に驛を置かれしより、掛川より初倉に通し、初倉より小川に渡りしが、鎌倉の初めには、掛川と初倉の間に菊川の宿発展し、また前島も宿となりて、初倉、前島と通じて小川は廃し、更に島田も宿となりて、菊川、島田と連絡するに至りしより、初倉、前島は漸く廃して、古き名のみぞ伝えられ、室町の中葉に至りては、地理的自然の変迁により、鎌塚が渡し場となりしより、菊川より鎌塚を経て駿河に移りしも、文明の頃(1469~1487)より金谷の宿となりて島田に通ぜしより、菊川は衰えて寂凉を極めしものなるべし。
※ 上来(じょうらい)- 今まで述べたこと。以上にあげたこと。
※ 叙説(じょせつ)- 順序を立てて述べ説くこと。
※ 変迁(へんせん)- 変遷。時の流れとともに移り変わること。
※ 寂凉(せきりょう)- 寂寥。ひっそりとしてもの寂しいさま。


戦国の末には色尾も渡し場となり、質侶も復た渡し場となりしが、結局、現今の金谷より嶋田に通ずるは最終の駅路なりとす。

明治維新となり、諸大名皆その版図を奉還し、幕府の旗本八万騎と称したるもの、また、皆その采邑上知す。これに於いて往時日本指(二本差し)と称したる、所謂武家なるもの、また見るべからず。随って、驛伝の制は変じて、個人の相対継立(つぎたて)となるのみならず、至る所鉄道の設ありて、交通に宜しく、東海道また鉄道通ぜしより、その形勢一変して、旅客の往復、大小貨物の遞送、皆鉄道によりて行われ、交通上の一大変革を来たし、従前宿駅の名称は停車場の名となりて、本郡の如きも金谷に駅を置きて自由交通の便を得、汽笛一声、朝に東京を発し、夕に大阪、神戸に至る、快速の旅行をなし得る時に在りては、江戸時代、東海道宿驛の繁華は、二百五十年、泰平の一夢と化し去り、到底今日を以って想像し得ざるものありしなり。
※ 版図(はんと)- 一国の領土。
※ 采邑(さいゆう)- 領地。知行所。
※ 上知(あげち)- 江戸時代、幕府が大名・旗本・御家人から、また大名が家臣から、それぞれの知行地を没収すること。
※ 遞送(ていそう)- 宿次(しゆくつぎ)にすること。
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