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大助郷免除歎願書(上)  駿河古文書会

(散歩道のクロタラリア・スペクタビリス)

午後、駿河古文書会に出席する。今回初めて3週連続の会となる。今日は自分の当番で、以下で紹介する(所蔵者不明)の文書を担当した。

幕末、東西の往来が激しくなり、大通行と呼ばれるような大人数の行列が何度もあった。幕府は東海道筋に対して、今までの助郷では通行が捌ききれないために、より広範囲の村々に助郷を広げようとした。そのため、余裕のない山間の村々にまで、助郷の触れ当てが行われることになった。当然、村々からは悲鳴が上がる。

以下、書き下し文で示す。会で修正が加えられた点、また、疑問とされた点は、ここで修正などを加えた。

   恐れながら書付を以って歎願奉り候
当御代官所、駿州安倍郡桂山村外四ヶ村、役人ども一同申上げ奉り候。

私ども村々の儀は極めて山内にて、元来辺鄙(へんぴ)の土地柄、何(いず)れも困窮の村々に御座候間、往古より助郷その外御役など、相勤めず、
※ 辺鄙(へんぴ)- 都会から離れ、不便なこと。

先年朝鮮人通行の砌、安倍川大助郷川越し役、仰せ付けられ、相勤め候趣は、聞き伝えまでの義にて、その後、御役など相勤めざる義に御座候処、去る亥年、御上洛より引続き、臨時大御通行の節々、右安倍川大助郷、川越し役御触れ当てこれ有り、素々(もともと)山内遠方などにて、右御役極々難渋には候えども、平年にこれ無き容易ならざる御時節柄と、深く相弁(わきま)え、その時々粉骨砕身いたし、漸々(ようよう)御役滞りなく相勤め来り候儀の処、
※ 先年朝鮮人通行 - 宝暦十四年(1764)の江戸まで来た最後の朝鮮通信使。
※ 大助郷(おおすけごう)- 定助郷に対して、行列人数が多数のとき、臨時に宿駅に人馬を出す地域。
※ 亥年御上洛 - 文久三年(1863)三月、第十四代将軍徳川家茂の上洛。


今般私ども村々、道中御奉行様より、東海道府中宿、当分助郷仰せ付けられ候趣を以って、御印書頂戴奉驚き入り奉り、種々評儀中の折柄、差向け御請印形は仕り候えども、一躰、私ども五ヶ村の儀、去る寅年大地震の節、山崩れなどにて多分の亡所出来(しゅったい)、その上、山内困窮と申す内にも、至って人少なの村々に付、前書御触れ当て御座候川越し役さえ、時々差し支え、多分は買い揚げ人足を以って、御役相勤め候儀にて、右などの失費少なからず、
※ 一躰(いったい)- もともと。元来。
※ 去る寅年大地震 - 嘉永七年(1854)十一月四日、安政大地震。
※ 亡所(ぼうしょ)- 耕作者などが逃亡して荒れ果ててしまった田地。
※ 觸當(ふれあて)- 役所が村落に、金品供出や人員召集を割り当てる。

(後半は明日に続く)
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