カセットテープがワカメ

キノコ国本剛章の音楽活動・妄想・ノリツッコミなど。

ハドソン初訪問の記憶

2005年11月30日 | ファミコンBGM
なんちゃって大学生キノコさんはsasagawaさんに呼ばれハドソンを初めて訪れました。
時に1985年。当時のハドソンはまだ立派な高層ビルの社屋もなく、雑居ビルの一角に開発スタッフがまさに「詰めている」という状況だったように記憶しています。エレベータはなく階段で開発ルームに入ったような・・・ルーム内は少人数でアットホームな雰囲気。無造作に散らかっている開発途中のROMカセット、カップラーメン、仮眠用の毛布、無精ヒゲ…仕事を依頼されるという感じではなくクラブ活動や大学のサークル活動の延長、といったリラックスした空気がそこにはありました。年齢的にも同じか少し上の人ばかり。「何でもアリ」な楽しい空間。おかげさまで何の気負いもなく「チャレンジャー」の曲作りに取り組めたんですよ。
ま、一言で言うと「産業革命」前の「家内制手工業」みたいだと当時は勝手に思ってました。sasagawaさんのブログの中には社員として「売上至上」的な厳しさが記されています。後のsasagawaさんからは確かにそういう厳しさも感じ取られましたが少なくとも初めてハドソンを訪れた時には「売上」などという文字はなく、ただ「オレたちはゲームを作るのが好きなんだ」という空気だけがあったように覚えています。ちょっと美化しすぎかな(笑)?→sasagawaさん

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SALT PEANUTS

2005年11月30日 | SALT PEANUTS
キノコさんの現在の音楽活動についてお知らせします。「SALT PEANUTS」というバンドでベースを担当しています。
《SALT PEANUTS》(ソルト・ピーナツ)
杉原 史規 (ギター・ボーカル)
佐藤 雅巳 (ドラム)
キノコ    (ベース)
年3~4回のライブ活動を続けており、杉原くん作詞作曲のオリジナルを演奏しています。(私は楽曲を提供していません)
杉原くんのHPはこちらです。
http://www4.plala.or.jp/sugitikarinn/index.html
一緒にやっているメンバーをほめるのもナンですがキノコさんは杉原くんの大ファンです。彼の作る曲はいい!あと彼の弾くギターもいい!ピックを使わず指と爪でギターを掻き鳴らすのですよ彼は。唄もギターもアツイです。次のライブが決まりしだいこの場でお知らせしようと思ってます。興味のある方は是非お越しください。ファミコン音楽は演奏しませんが(笑)
ちなみに私のベースはこんなんです。
TUNE
「TUNE」です。型番は忘れました。もうかれこれ20年くらいこれ1台を弾き続けています。あっちこっちガタが来てますがカワイイやつです。PCやシンセサイザーと違ってベースという楽器は20年前のものでも問題ナシですね。楽器として完成しちゃってるんでしょうね。

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キノコさんはファミコンがヘタ!

2005年11月28日 | ファミコンBGM
私は自分の曲をほとんど「プレイしながら」聞いてないんですよ。なぜかというとファミコンがヘタ!だから。
作曲者としての特典で完成したソフトは1本もらえたんですよ。で、当時高校生の弟がファミコンを持っていたので一応やってみる、と。「チャレンジャー」のROMカセットを差し込んで電源ON。1面が始まり「軍隊行進曲」のイントロが流れ出す。
「おっオレの曲だ。ほんとに入ってるじゃん。」と2秒くらい感動。
あとはひたすらナイフ、ナイフ&ジャーンプですよ。もう曲なんか耳に入らない(笑)。ナイフ、ナイフジャーーーンプ、ナイフナイフナイフナイフナイフ、ナイフジャーーーーンプあやられたクソ!ちくしょリセット軍隊行進曲イントロ「オレの曲だ」1秒感動。
ナイフナイフ、ジャーーンプ、ナイフナイフナイフナイフジャーーーンプあまたやられたクソ!なんだこのゲームちくしょリセット軍隊行進曲イントロ…
もうこのへんで感動ゼロですよ。
で、キノコさんの場合2面にすらいけませんでしたね。
ましてや警笛の音に合わせてナイフを投げるなど、とてもとても…
というわけで私は自分で作曲した曲をほとんどファミコンで聞いてないのでした。ぐっすん。

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sasagawaさんとの出会い

2005年11月27日 | ファミコンBGM
23歳なんちゃって大学生キノコさんはヤマハ札幌店の楽器コーナーでアルバイトしていました。先述のMSXコンピュータと自動演奏ソフトが発売されたものの、あまりにも製品がエポックメーキングすぎて従来の「ロック大好き」店員だけでは商品説明が対応しきれなかったわけです。
で、当時の私は「デジタル・インストラクター」とかいう変な肩書きをもらって「ミュージック・コンポーザ」用のデモ演奏ソフトをシコシコ作っては自己満足にふける毎日…。趣味と実益を混同させて好き勝手なことをやってました。
そんなある日売り場に訪れたのがsasagawaさんだったのです。
sasagawaさんはハドソンの音楽総監督とも言える方でゲームBGMに関してはとてもアツいものを持ってる方でした。
(sasagwaさんの現在の活動に関してはhttp://blog.livedoor.jp/m9concert/
sasagawaさんは私の作ったデモ演奏に興味を持ってくれたようで、そこからお付き合いが始まったわけです。
この時何を目的としてsasagwaさんがヤマハのお店に来たかは知りません。ただこの時の出会いがなければ私とハドソンとの関係も全くなかったかもしれないのです。出会いって面白いですね…。

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チャレンジャー その②

2005年11月25日 | チャレンジャー

1面に軍隊行進曲を使ったわけですが今になってよくよく考えると画面に全然合ってないというか…フツーに考えればインディージョーンズ風の音楽をつけそうなもんですよね。

当時のわたしにはまだ絵と音を合わせようなんていう考えはまったく浮かばなかったわけです。なんで軍隊行進曲なのかわけわからん。この前申し上げたようにただひたすら小学生にウケる曲を作ろう、という一心だったと思います。

で、なんか知らんけどこの軍隊行進曲がハドソンのスタッフにわりとウケて、ほとんどNGが出ず一発OKみたいな感じだったんですよね。ハドソンのスタッフの感性も今考えるとよくわからん(笑)。

外部の人間の私が言うのもナンですが当時のハドソンは頭が柔らかくてあたたかみのある集団でしたね。

作曲を頼まれるタイミングというのはゲームプログラム未完成の段階なんですよ。半分くらいまで完成しているグラフィックを見せてもらいながらたまたま「列車の中、というシチュエーションなんだから汽笛みたいな音を入れちゃえ」と安易に発想して半音ぶつけの部分を作ってみたんです。そしたらその汽笛の音に合わせてナイフを投げるとどうたらこうたら…と発想をどんどん広げてくれるんですね。ああ、この人たちゲームを作るのが本当に好きなんだ、って感激したことを覚えています。

ただ肝心のどうたらこうたら…が全く欠落していて申し訳ございません。実は私ファミコンがメチャメチャヘタクソなのです…

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きっかけは「ヤマハ・ミュージックコンポーザ」

2005年11月22日 | ファミコンBGM

ファミコンBGMはもちろん自動演奏音楽なわけでプログラマーが「音程」「音符の長さ」をデータ入力するわけです。そこは100%デジタルの世界で無味乾燥な数字と記号の羅列ですよね。
一方音楽というのは昔からアナログ世界のものでコンピュータとの相性が悪く、パソコンがかなり普及してきた1980年代初頭にもまだ安価でまともな音楽製作ソフトはなかったのです。
そんな中1983年に登場したのがMSXコンピュータ。そしてヤマハから発売されたFM音源ユニットと自動演奏ソフト「ミュージックコンポーザ」。これは当時画期的な製品でしたね。自動演奏に興味津々だったなんちゃって大学生キノコさんはすぐに買いましたよ。
知らない方のためにざっと性能を紹介すると入力はステップライトのみ。(MIDI端子が装備されていましたがMIDI入力は不可)同時8和音(8音色)発声、クオンタイズ(分解能)が1拍の96分の1。データの保存メディアはカセットテープ!ピーーーーギーガガガゴグギゲゴガゴってやつね。
いやー懐かしい。性能は現在と比べると幼稚なもので複雑な演奏をさせると明らかにテンポが遅くなったりリピートの直後なんかもガクッとくるくらい間が空くのね。画面表示もドットがデカいから1パート、5線譜2段まで。画面内の音符、メチャメチャデカかったなー。アーティキュレーションを重視していてコマンドがいろいろあったため、音の強弱とか、やれスタカートだレガートだアチェレランドだデミュニエンドだ、と凝って作ってると1画面に1小節しか表示されなかったりとかね。
でもこのソフトのおかげでアナログ世界とデジタル世界はずいぶんと接近しましたよ。私のファミコンBGMはほとんどこのソフトで作ったわけです。もうとっくの昔に捨てちゃって記憶に中にしかありませんが「鈍クサいけどかわいいマシン」だったなー…

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チャレンジャー その①

2005年11月20日 | チャレンジャー

私とハドソンの関わりあいの始め、それが
「チャレンジャー」でした。
発売が1985年10月。
当時私は23歳の「なんちゃって大学生」でした。

大学にはまったく通わず、バンド活動と楽器屋でのアルバイトに
明け暮れる毎日。
ファミコンは持っていませんでしたがゲームセンターが大好きで
毎日のように「ペンゴ」や「マッピー」「リブルラブル」にバイト代を
つぎこんでたように記憶しています…

ゲームの中でのBGMの重要性はプレイヤーとして肌で感じていましたので「チャレンジャー」のお話が来たときにはとてもやりがいのある仕事だと張り切った記憶があります。
それと中心ユーザーである小学生の存在は常に意識していました。
学校の登下校時に友達どうしで口ずさみながら歩けるような曲を
作りたいな…と。

「チャレンジャー」の1面BGMにシューベルトの「軍隊行進曲」を使ったのは自分が小4・小5のときに学校からの帰り道、友達とたて笛を吹きながら歩いた記憶があったからなのです。

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はじめまして

2005年11月19日 | ファミコンBGM

キノコと申します。
ハドソンのファミコンBGMを作曲していた者です。
もう20年も前の話で記憶もうすれかけていた昨今、
「FAMICON 20TH ANNIVERSARY ORIGINAL SOUND TRACK VOL.2」というCDをみつけました。このアルバムの中の
「チャレンジャー」
「スターソルジャー」
「ヘクター’87」
「迷宮組曲」

がわたしの作品です。
3和音+1ノイズ、PSG音源のとても稚拙な作品たちです。
blog002

そうかーもう20年もたつのかー
しばらく目を閉じ沈思黙考。
世の中ずいぶん進歩しましたよね。
ポピュラー音楽の表現方法も安価に多様なことが可能になりました。
でも技術の進歩=人々の幸せではないことはよく指摘されることです。巻き戻し、早送りに時間がかかるカセットテープ。お気に入りの曲を何度も繰り返し聴いているとある朝突然ワカメになって2度と聞けなくなるカセットテープ。CDやMDに比べると何一つとりえのないおバカなメディアですよね。
でも楽しいオモチャだったことも思い出したいのです。2台のラジカセを向かい合わせにして原始的な多重録音をやった経験のあるかたは少なくないはずです。今のCDやMDで小学生がそんな遊びができるでしょうか。
「懐古主義」ではなく現代のいいものはいい、昔の良かったものも良かったという視点で自分の曲あるいは1970年代、80年代の音楽を振り返ってみたいと思います。

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