昨日、NJBP(新日本BGMフィルハーモニー管弦楽団)のコンサートに行ってきました。演奏されたのはすべてnamcoのゲームBGM。しかも1980年代しばりでした。1980年代というとキノコさん、18歳〜27歳。前半はアーケードゲームのプレイヤーとして人生で一番ゲームに時間もお金も費やしていた時代。そして後半の1985年からは自身もゲーム音楽を作っていた時代です。
●ニューラリーX、ギャラガ … 1981年
●ディグダグ、ポールポジション … 1982年
●ゼビウス、マッピー、リブルラブル … 1983年
●ドルアーガの塔 … 1984年
●スカイキッド … 1985年
(チャレンジャー … 1985年)
当時「なんちゃって大学生」だったワタシはガッコに全く行かず、軽音部の部室とJAZZ喫茶とゲームセンターとバイト先(家庭教師)をひたすらクルマで巡回する生活。一人暮らしを始めたのが、たしか1986年なので1980年代前半は実家暮らし。家賃も払わなくてよいというエクセレントな環境、そこはまさにパラダイス。 ゲームセンターは雨後のタケノコみたいに日々どんどん増えてたし、ほとんど全ての喫茶店のテーブルがゲーム筐体に変わっていった時代です。 バイトで稼いだ金を湯水のようにゲームにつぎこんでましたね。 ゲームセンターの中ではいろんなメーカーがしのぎを削っていました。SEGA、TAITO、JALECO、DECO…。その中でBGMに関して言えば、namcoのクオリティが抜群に良かった。上記namcoの作品群はワタシにとってゲーム音楽の師匠であり、作曲の際の動機付け、そのものですね。あたしゃーほんまに「namcoッ子」なんですよ。
そして演奏していたNJBP。 ゲーム愛にあふれたすばらしい精鋭の奏者、ゲームが好きすぎる頭おかしい代表・指揮者(ほめ言葉)、原曲を尊重しつつさらに美味しいトッピングをのせてくる才能豊かな編曲家…というメンバーで構成されています。 昨日ワタシは最後列で聴いていたのですがお客さんの年齢層が40代・50代が多いことに気がつきました。これはうれしい。そして曲後の拍手喝采が熱いんですよ。 そりゃ皆さん青春時代の思い出がそれぞれおありでしょうからね。namcoのゲームBGMをホールでしかもナマ演奏で聴ける時が来るとは夢にも思わないですから。 奏者の皆さんには感謝しかありません。そしてこのようなすばらしい団体を立ち上げ、企画・運営を一手に行う市原雄亮さん。見えないところでとても苦労されている、と聞きます。改めて御礼を申し上げたいです。頭おかしいですけど。あはは。
●ニューラリーX、ギャラガ … 1981年
●ディグダグ、ポールポジション … 1982年
●ゼビウス、マッピー、リブルラブル … 1983年
●ドルアーガの塔 … 1984年
●スカイキッド … 1985年
(チャレンジャー … 1985年)
当時「なんちゃって大学生」だったワタシはガッコに全く行かず、軽音部の部室とJAZZ喫茶とゲームセンターとバイト先(家庭教師)をひたすらクルマで巡回する生活。一人暮らしを始めたのが、たしか1986年なので1980年代前半は実家暮らし。家賃も払わなくてよいというエクセレントな環境、そこはまさにパラダイス。 ゲームセンターは雨後のタケノコみたいに日々どんどん増えてたし、ほとんど全ての喫茶店のテーブルがゲーム筐体に変わっていった時代です。 バイトで稼いだ金を湯水のようにゲームにつぎこんでましたね。 ゲームセンターの中ではいろんなメーカーがしのぎを削っていました。SEGA、TAITO、JALECO、DECO…。その中でBGMに関して言えば、namcoのクオリティが抜群に良かった。上記namcoの作品群はワタシにとってゲーム音楽の師匠であり、作曲の際の動機付け、そのものですね。あたしゃーほんまに「namcoッ子」なんですよ。
そして演奏していたNJBP。 ゲーム愛にあふれたすばらしい精鋭の奏者、ゲームが好きすぎる頭おかしい代表・指揮者(ほめ言葉)、原曲を尊重しつつさらに美味しいトッピングをのせてくる才能豊かな編曲家…というメンバーで構成されています。 昨日ワタシは最後列で聴いていたのですがお客さんの年齢層が40代・50代が多いことに気がつきました。これはうれしい。そして曲後の拍手喝采が熱いんですよ。 そりゃ皆さん青春時代の思い出がそれぞれおありでしょうからね。namcoのゲームBGMをホールでしかもナマ演奏で聴ける時が来るとは夢にも思わないですから。 奏者の皆さんには感謝しかありません。そしてこのようなすばらしい団体を立ち上げ、企画・運営を一手に行う市原雄亮さん。見えないところでとても苦労されている、と聞きます。改めて御礼を申し上げたいです。頭おかしいですけど。あはは。
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