木のつぶやき

主に手話やろう重複の仲間たちのこと、それと新聞記事や本から感じたことを書き込んでいきます。皆様よろしくお願いします。

books196「無文字文化の歴史」川田順造著(岩波現代文庫)

2011年01月03日 21時32分14秒 | books
無文字社会の歴史―西アフリカ・モシ族の事例を中心に (岩波現代文庫)
川田 順造
岩波書店

読売新聞の以下の記事を読んで、すかさずアマゾンで注文、一気に読みました。
読売新聞2009年3月10日(火)夕刊より
『生老病死の旅路●川田順造さん』

■人類の右往左往 長い目で


 初めての「異文化体験」は16歳。千葉の山村で1年間、他人のなかで暮らしたのです。病弱で高校を1週間で退学した後のことで、体を鍛えようと、親に頼んで知人の家に住み込ませてもらいました。農作業を手伝ったり、山仕事をしたり、東京下町育ちの私が知らなかった体験ばかりでした。
 見聞きするすべてが珍しく、炭焼きの話、日雇い稼ぎの道楽爺さんの一代記、硫黄島の戦いに生き残った青年の話など、夢中になってノートに書き付け、何冊にもなりました。「聞き書き」の初歩をやっていたのですね。
 山で本をむさぼるように読みました。デカルトやルソーからは、「他者」とのかかわりについての考え方を学びました。後に幻滅することになるベルクソンの「科学的」人間論も、大学で生物学から文化人類学に進んだことにつながったと思います。
 大学には行かなくてもいいと思っていたのですが、山村暮らしで健康になっだので、高校の教科書を買って自分で勉強し、大学入学資格検定を受け、翌年東京大学理科二類に入りました。後期課程で、教養学科にできたばかりの文化人類学分科に進み、日本民俗学を学んだあと、日本と違うところに行きたいと思いました。
 パリ大学に留学し、そこから現地に入りました。博士論文のテーマは、サバンナに生まれたモシ王国の形成過程です。朝から40度を超すこともある猛暑、電気も水道もない、強烈な「異文化」での生活。村々を訪ね歩き、彼らの価値観や歴史意識を理解しようとする、そんな体験の連続でした。
 文化人類学は、取るに足らないと思われることでも、質的に深く追究して、人類全体に通じる意味を探る学問です。サバンナの無文字社会から、私たちの歴史意識全体を見直す契機を引き出すことができるのです。
 アフリカで通算9年暮らし、フランスでも、講義や地方での調査などで9年間生活しました。日本を考える時はフランスとアフリカを参照点にするというふうに、3地域の二つを参照点にして、他の一つを考えることが習い性になりました。地測の三角測量にならって、「文化の三角測量」と呼んでいます。今の地球時代には、従来の東西比較に、南の視点も加えた文化の理解が大切だと思います。
 アフリカ奥地では、自動車事故で即死寸前の体験もしました。胸のなかに大量の血が溜まって、高熱のまま何日も放置されました。死の恐怖はなく、元気になって調査を続けることしか考えなかった。40歳で若かったんですね。
 文化人類学が、何の役に立つのかと聞かれることがあります。けれども役に立つとは、その時々の社会や政治の要求に左右されやすいということ。人類という長い目と広い視野から、私たち自身の右往左往を是正する学問が必要ではないでしょうか。
 好奇心が強いので、毎日やりたいことがふえて行きます。学べば学ぶほど、自分の無知を思い知らされるからです。
 「道は遠い。だが、まだ日は暮れていない」といつも言い聞かせながら、自分にのこされた、この世にある時間を生きたいと思います。
(聞き手・泉田友紀、撮影・林陽一)

■豊かな人脈築く誠実さ
 川田さんは、幅広い交流でも知られる。東大受験前に英文学者の小田島雄志氏に英語を習い、学生時代には、志賀直哉氏や柳田国男氏の自宅で談論を交わし、パリ留学時代にはレヴィ=ストロース氏に師事………。豊かな人脈に驚くと、「誠実に接すれば、きちんとこたえてもらえるものです」という言葉が返ってきた、その同じ態度で、アフリカの人々に接してきたのだろう。だからこそ、彼らは遠い異国の学者に心を開いてくれたのだ。そう、感じた。


・川田順造さん(かわだ・じゅんぞう)
 1934年東京生まれ。文化人類学者。アカデミー・フランセーズ大勲章、フランス政府文化功労章、紫綬褒章などを受章。著書に『無文字社会の歴史』『人類の地平から』『文化人類学とわたし』『文化の三角測量』など。

僕は「13.歴史伝承の『客観性』」にろう者の歴史に重なる問題を感じました。
ちょっと長いですが、引用します。
一言でいうと音声文化の「文字」によってでなく、ろう文化の「手話」により伝承されてきた歴史こそがろう者の歴史を真に語るものであるという考え方です。
そして聴者である私がろう者の歴史とどのように「共に歩む」ことができるのかについても重要な示唆を与えてくれている。そのキーワードが『触媒』。私も手話通訳者養成やウィラブパンフ運動に関わる中で『触媒』として何か役に立つことができたら幸いであると考えている。

■13 歴史伝承の「客観性」(119ページ)
 それでは、歴史伝承の「客観性」とは何だろうか。(中略)
 十五世紀のポルトガル人をはじめとするヨーロッパの探検航海者が、「歴史のない暗黒の」アフリカを「発見」して以来、ヨーロッパ世界の勢力拡大にともなって、「観察され」「客観的に叙述された」アフリカの無文字社会の歴史は、ヨーロッパ世界を中心にひろげられた歴史の周辺部分をなしてきたといえる。アジアやアメリカ大陸の諸文明を、西洋文明と共通の場でとりあげているかぎりでは、単なる西洋史よりは包括的なトインビーの歴史研究でも、トインビーの価値観によって「未開」という「種」から「ほんとうにちがった種」として区別された「文明」という「種」が研究対象となっているので、「文明」をとりかこんでいた、そしていまもとりかこんでいる、人類の広大な未開部分は、視野に入れられておらず、せいぜい「文明」の底辺として、ごくまれに参照されているにすぎない。トインビーが、彼の歴史研究で「未開社会」を除外した理由にあげている、「未開社会は数は多いが、比較的短命である」(TOYNBEE,1935,1:148)というようなことが、いったいどのような根拠で一般論としていえるのかについても、私は疑問を抱かざるをえないし、「原住民」を、地方の動植物相の一部のようにみることを戒めている(Ibid.:152)点では、彼が「近代西洋の観察者」にしては、さめた心をもっていることは確かであるにせよ、「既知の」未開社会(Ibid.:148)などと、さりげなく書いてもいるのである。西洋の学者が、「既知の」ということばを使うさりげなさは、同じ大ブリテン人であるナデルが、「われわれ観察者」の規準を「客観的」で「普遍的」と考えるさりげなさと相通じるものがあり、またそれは、コロンブスがアメリカを「発見」したと平気でいう、大部分の西洋人や、そうした歴史観を西洋の学問と一緒にうのみにしてあやしまない、われわれ日本人の多くの自称知識人の考え方にも通じているのである。
 こういったからといって、私は、アフリカの無文字社会の上にまでおしひろげられた、西洋中心の、それも近代以後の西洋を中心とする尺度で西洋の過去自身もはかりなおした歴史認識が、細部にいたるまで、すべてまちがっていると断定するのではない。そうした断定は、近代西洋中心のアフリカ史の認識が、「客観的」であり「普遍的」であるとするのと同じく、前提ではなくて一つの問題-おそらくその断定にいたる形では落着しない問題-でしかありえないだろう。トインビーやナデルのように、近代西洋世界をそれと異なった諸文明と対比させて検討することに、仕事の上で最も親しんでいるはずの人々にさえしみついているこの西洋中心主義は、十五世紀にはじまる大航海時代以降、ヨーロッパ世界が、他の地域へ勢力を拡大してゆき、それらの地域に対して、ほとんどつねに「見る者」の立場をとって来られたことに由来しているのであろう。そうした勢力の拡張と技術の優越、多くの社会に対する植民地支配の中で獲得され蓄積された厖大な知識が、「見られて」だけいて自己主張を投げかえす手段さえもちえなかった社会のひとつひとつが、黙って抱きかかえてきた知識よりも、参照の体系を構成する上でより豊かで広範囲にわたっていることはまちがいあるまい。また、近代西洋世界による、空前の規模の侵略と収奪を可能にした、武器をはじめとする技術の優越が、西洋世界に、その知的規準を「普遍的」と自認する根拠を与えたこともたしかであろう。だが、近代西洋に視点の中心をおいた自称「世界」史が、いろいろあくどいことをやりながら立身出世した有力者の自叙伝でないかどうかを、しつこく疑ってみる必要があることも、またたしかなのである。
 こんな当然のことさえ、私にとって、身にしみてわかるのには、アフリカでの何度かの生活や、この問題が一種の極限状態であらわれる、パリ大学のアフリカ史セミナーでの体験が必要だった。故国の歴史を学ぶために、旧宗主国のフランスまで来て、フランス語の本を読み、フランス人の教師から教えてもらわなければならないアフリカの学友たち-かれらは、祖先からうけついできた郷土の生活感覚では、どうしても肯定できないような解釈をフランス人のアフリカ史の権威から「教え」られても、その反撥をうまく表現するすべさえしらず、たどたどしく反駁を試みても、たちまち圧倒的に巧みなフランス語で、かずかずの「客観的」な資料をあげてやりこめられ、不服をかみころして沈黙してしまうほかはないのだ。こうした場面にいあわせたり、かれらのやりばのない憤憑(それでもかれらはフランスで「免状」をもらって帰国しなければならない羽目におかれている)をうちあけられて、私まで焼きごてをあてられたような痛みを胸に感じたことが何度あったことか。しかも、こういう経験をした学生もアフリカの故国にかえれば、まちうけていた「要職」に就いて、いつかその生活のなかに埋没してしまい、初志をつらぬいて祖国の歴史研究をつづけることは、きわめてまれなのである。
 私は、一見本書の主題からはずれているようにみえることに言葉をついやしすぎたかもしれない。だがこうした学問以前の状況(いまのべたことはそのごく一部にすぎない)が、アフリカの無文字社会の歴史研究の本質にも、実はふかいかかわりをもっていることは、どれだけ強調しても、しすぎることはないのである。
 文字がなく、歴史もない暗黒大陸の熔印を押され、ただ「見られる者」として生きることしかできなかった黒人アフリカの人々が、自分たちも世界のなかにたしかに主体的に存在しているのだということを主張した「ネグリチュード」(黒人性)の思想運動の発端は、一九三〇年代にさかのぼるが、主唱者サンゴールの思想が次第に歴史性を無視した文化の人種決定論に向う一方、アフリカの歴史家たちが実際に発表した歴史研究は、たとえどれほど戦闘的な装いをこらしていても、よくみれば結局、既成の歴史上の価値観の枠のなかで、既成の権威を支えにしながら、ヨーロッパ文化に対するアフリカ文化の位置を相対的にひきあげようとしたにすぎないという感のあるものが多かった。古代エジプト文明が、西アジア高文化の影響によってではなく、黒人アフリカの文化を基盤にして成立したという議論(Diop,1955)や、中米の謎の古代文化オルメカ文化をつくったのはアフリカから大西洋をこえて渡って行った黒人であるという説(MVENG,1967)。黒人アフリカ社会は無文字社会だとヨーロッパ人はいうが、ヨーロッパでも、学校教育が普及するまえには、文盲が多かったではないかという、ヨーロでハ文化の相対的なひきおろし(Ki-Zerbo,1969)など、いずれも地道で綿密な基礎研究のつみかさねの成果というよりは、傾向性のつよい性急な主張という性格のものであるだけになお、既成の価値の権威にすがろうとする基本姿勢の弱々しさがめだつのである。
 他方、デヴィドソン(Davidson,1959)に代表される、ヨーロッパ人の「アフリカびいき」による「アフリカの再発見」-アフリカの過去にも、かずかずの立派な大帝国があった、だからアフリカ人も、それほどひどくヨーロッパ人に劣っていたとばかりはかぎらない、といった種類の議論-があり、アフリカのインテリも好んでそれを口にするが、つまりは、ヨーロッパ人の尺度で、かれらに「再発見」されているにすぎない。大帝国など、なければなかったで結構ではないか。人間による人間の搾取の組織を発達させたことのない歴史があったとすれば、その方が、はるかに誇るにたる歴史ではないだろうか。ピカソなど二十世紀初頭の一部の西欧の芸術家に、アフリカ彫刻がどれだけ影響を与えたかという、人々の耳にたこをこしらえた話も、アフリカの芸術家がそれをアフリカ芸術の評価のささえとして援用するなら、それは裏がえされたヨーロッパ中心主義にほかなるまい。「白人に発見された、おどろくべきアフリカ黒人芸術」の強迫観念から自己を解放しないかぎり、新しいアフリカ芸術の創造はありえない(川田、広富)ように、「再発見された暗黒アフリカの輝かしい過去」の呪縛心、アフリカの歴史の探究を、むしろゆがませる役割しかはたさないのではないだろうか。
 このように筆をすすめることによって、私は自分の足もとも掘りくずしていることになる。私自身、アフリカの人たち、モシ族の人たちにとって、一介の外来者にすぎないのだから。だいいち「無文字社会」について、ながながと文字を書きつらねること自体、私の属する文化の存立の意味を、根本的に問うことではないか。モシ族の事例を中心に。アフリカの無文字社会の歴史を検討する者としての、一外来者である私は、欧米の研究者たちの研究成果をできるかぎり参考にしてはいるが、それらがそのまま「客観的」で「普遍的」な歴史資料になりえないことは、前章までの検討を通してもあきらかなことである。私は外来者として、モシ族のさまざまな王朝や異なる階層や、モシ族と類縁関係をもつ諸族の人々のなかに、その人たちにとっても十分対象化されずに潜在している歴史を、たが
いに比較し、関連させ、私の仮説的な解釈をふたたびモシ族の人たちにもどして考えてもらうという作業を気ながにつづけながら、かれらの歴史を顕在化する触媒の役割をはたすことができたら、と思う。このようにして顕在化されたモシ族の一部の歴史は、さらに大きい単位の歴史となるための、他のアフリカ社会の歴史との比較の可能性を帯びることになるだろう。だが、こうした作業を通じてあきらかにされた歴史は、「客観的」歴史とよぶことができるだろうか。
 モシ族の歴史を顕在化する触媒としての役割をはたそうとするにせよ、私は彼らと異なる文化に属する外来者としての立場をはなれることはできないだろうし、アフリカの歴史や社会について、これまで欧米の学者が行なってきた。モシ族の人たちの知らない研究の一部を、私は学んで知っている。だが。モシ族の社会の中で私か異物であるからこそ、私は触媒としてはたらくことができるのではないだろうか。また、私の異質性も、かれらの歴史を探る上での視点も、決して不変の、固定したものではなく、モシ族社会での生活経験や彼らの歴史を学ぶ作業を通じて、変化してきており、これからも変化してゆくにちがいない(その意味では、私は、化学でいう、反応の中でそれ自身は変化しない触媒ではない)。同時に、私の作業が、私の視点からだけ一方的に枠をあてはめて歴史を再構成しよ
うとするものではないとはいえ、モシ族の人々と私との解釈の往復運動を通じて、モシ族の人々の歴史意識にも、ささやかではあれ、変化がおこることは当然であり、事実おこっている。
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