波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

オショロコマのように生きた男   第50回

2011-11-29 10:12:48 | Weblog
宏は真剣だった。このまま終わらせたくない。何としてもこの仕事は自分の仕事として続けたい。その一心だった。人間とは
不思議なものであることが分かる。この瞬間は他の一切の事は考えられなかった。このまま駄目になること、終わりになること
誰も助けてくれないこと、不可能なことそれらのマイナス要因は彼の頭にはなかった。自信とこの仕事に対する情熱と勢いだけだった。W建設への説明も自信があったわけではない。ただ夢中で説明とその成功に対する内容を語っただけである。
計算も戦略もあったわけではない。普段はあまりしゃべったり、余計なことを語る彼ではなかったがこの日は別人のような姿がそこにあった。聞いていた何人かの幹部も、その内容に理解を示し聞いていたわけではない。異業種の初めて聞く言葉がぽんぽんと出て、一人でしゃべっているので、口を挟む余地もない。ただ唖然として聞いているのみである。
一通りしゃべると、そこで一息つき先方の様子を伺った。社長らしき年長の人が口を開いた。「詳しい話をありがとう。しかし
残念だが、話の内容は良く分からない。でも君の熱心さは良く伝わった。工場はわれわれが作ったものだし、地元だからそこで働いている人も良く知っている人ばかりだ。だからこれから少しづついろいろなことが分かるだろうと思う。それでよいと思う。
ただ、お金が要るし、かかることだからよく検討はしなければならない。だから少し時間をもらいたいので、待ってほしい」
その言葉は宏にとっては予想外だった。当てにして話したわけではなかった。ここだけしか頼ることが出来なかったことと、夢中で何を話したかも分からないだけだった。嬉しかった。自分の気持ちが少しでも通じて理解してもらえた。それは承諾してくれるかどうかと言うことよりもほっとした気持ちだった。
これで良い。出来ることを精一杯したんだ。その満足感だった。「よろしくお願いします。」T磁気の親会社はまもなく倒産して公開された。債権者はその後始末に奔走し、従業員はそれぞれ去って、散りじりに消えていった。
繁栄を極めたかと思われたこの業界にも陰りが見え始めたのかもしれなかった。宏の足はしばらくぶりに家へ向かっていた。
久子も子供たちも変わらず、その成長だけが目立った。小さい頃よりも少し距離が出来たかのような感じもしたが、特別な違和感があったわけではなかった。久しぶりに我が家での生活は気分を安らがせ、癒されることが出来た。

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