波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

思い付くままに   「母の日に思う」

2014-05-20 15:48:06 | Weblog
今年も母の日がやってきた。最近はあまり大きく騒ぐこともなかったようだが、アメリカを中心に世界中の母が子供たちから注目を集めたことは間違いないと思う。ましてキリスト教の教会ではこの行事を大きく取りあげてカーネーションの花を贈り物にしているが、これはあるクリスチャンの家庭で亡くなった母をしのんで生存中大好きだったこの花をこの日のシンボルにしたことから始まったと聞いている。アメリカではこの日を国の祝日として決めているが、日本でも90年ぐらい前から、取り上げて行うようになった。
ある日、電車に乗ってきた母親が乳母車に乗っている子供をあやしている姿を見た。一生懸命に静かに過ごそうと母親が子供の面倒を見ていたが、その姿を見ている内に私まで心が癒されているのに気づいていた。そしてそんな光景を見ている内に忘れかけていた亡き母の事を思い出していた。私が生まれて間もなくお産の時に取り上げてくれた助産婦が家の近くを通りかかり、赤ん坊の様子が見たいと申し出た時、私の母は素っ気なく(何を思ったのか、)「今、お昼寝でとても気持ちよく寝ていますの。また今度にしてください」と言って断ったのです。さすがにそれを聞いた産婆さんは気を悪くしてそれから二度と来なかったと後で聞かされたことがある。そ
(真偽のほどは分からない)私と上の兄との間にいた姉を小さい時に亡くしたという事があった所為とも聞いたが、それほどに母親の子供に対する愛情は本能的であり、無条件なのかもしれない。そんな母親も老いてくると逆転して子供が母親を負うことになり、「戯れに母の軽さに驚きて三歩歩めず」となるのだが、何時の時代になっても母と子の世界は形を変えて続くものであろうし、母の子に対する気持ちは永遠であり、純粋であり続けるのだろう。
今は額縁の中にいる母の写真を眺めながら忘れかけていた母の在りし日の日々を思い出して
自分自身の小さい時のころを思い出して、感慨にふけることのできる時間でもあった。
大事な事は贈り物ではなく、親を大切にして尊敬の念を忘れないことにあるのだろうが、親もまた子供の前で恥ずかしくない姿でありたいとも思う。
とかく最近ではその境界が薄れ自分は自分と言う思いでお互いにぶつかることも多いと聞くことが多い。この日を機会にお互いを見つめある時間とするのも良いことだと思うがどうだろうか。