瞬間最高速度

まだ準備段階。

古本担いで三千里

2015-02-16 00:21:59 | レコードショップ/中古屋放浪の旅 

相当に久しぶりの更新となりますね。
こんな誰も見ていないようなブログ,いつ潰したって良いようなもんなんだが,しかし元々日記を書くつもりで始めたもの,残しておいたって薬にも毒にもなるまいと今日まで保存しておいたのです。気持としては,わざわざ削除する方が却ってリアクションを意識しているようで,居心地が悪いんですね,これが。不思議なもんです。

本日は那覇の桜坂劇場に行ってきたのでありんす。


桜坂劇場
http://www.sakura-zaka.com/


沖縄最大のシネコンであるスターシアターズの配給から漏れた映画をバンバン放映して下さる桜坂劇場。毎度お世話になっておるのですが,今回はフランソワ・トリュフォーの特集に行ってまいりました。

没後30年 フランソワ・トリュフォー映画祭
http://mermaidfilms.co.jp/truffaut30/


関東なんかじゃ昨年のうちからスタートしていたようですがね。桜坂劇場では14日からのスタートでありました。

今回の那覇行きは,この桜坂劇場と,それから古本の始末が目的だったのです。
というのも,少し前に部屋の大掃除をしたところ,部屋の要領のわりに本が多すぎることに気づいたのですね。ダンボールに放り込んであるのはいざ知らず,枕元だけでも50冊を数えるとなると,これは荷物ですよ。知識の山,といえば聞こえは良いが,実際にはチリが積もって山となっていないのが現状。絵に描いたような似非インテリ。なんだか見せつけているようで,勘違いされたら困る。
そこで,これらの処分と,あわよくば映画代そっくり儲けられないだろうかと,意地汚い期待を胸に向った古本屋の店先。掛ける一言「買取の査定お願いしまーす」

結果・・・

大惨敗なのでした。

店側の曰く「文学は回転が悪いから高くは買えない」「本の価値ではとても払えない」



・・

・・・

なんたること・・。朝から歩きどおして来たというのに・・・。

うーん,東京に持っていけばよかったのかなー。でも,神保町って持ち込みで査定してくれるのかしらん。買うことはあっても売ることはないからわからないよー。

古本屋にも良心的な大型古書グループがあっても良いのにな。レコードでいうディスクユニオンみたいなさ。そうすりゃこんな苦労もせずに済むのにさ。


そんなことを考えながらすごすごと帰る午後なのであった。古本道は甘くない。




つげ義春について考えてみる

2014-04-11 09:13:16 | 漫画について

つげ義春の漫画を読んでみて,特に『海辺の叙景』についてある既視感を覚えたのだけれども,それがどうやら『番場の忠太郎 瞼の母』にあるらしいことにやっと気がついた。

『番場の忠太郎 瞼の母』とは昭和6年に封切りとなった稲垣浩監督の名作で,長谷川伸の戯曲『瞼の母』の最初の映画化作品。当時は当たらないといわれた長谷川伸作品の映画化で"ちょんまげをつけた現代劇"を作ると称された稲垣浩の入魂の一作で,結果的にはこれがヒットをした。現在までに残っている戦前の時代劇映画の中でも,この作品はほぼ完全な形で現存しており,マツダ映画社より活弁付きのビデオが発売されていて,レンタルもされている。本作のモンタージュ技術の高さは多くの映画ファンの認めるところであり,現存する日本のサイレント映画の中でも屈指の名作といえるだろう。わたしはサイレント時代劇の最高傑作といわれる『雄呂血』(25年)も見たのだが,時代の開きがあるとはいえ,映画的な風景描写や情感豊かな活弁の入りなど,現代にも通づる日本人の心の琴線に触れる感動というのは,本作の方が圧倒的に勝っているように感じた。しかし,物語自体が現在では少し類型的で,面白みに欠けるために地味な評価にとどまっているのが非常に残念なところ。
本作を『海辺の叙景』との引き合いに出したのは,何も物語の筋書きのことではなく,また評価のされ方の類似を示したいのではない。わたしがこの二作について似た感慨を受けたのは,その場面構成,とくに一つの情景の移り変わりについてだった。ここでは本作,という言い方をしているけれども,つまるところはサイレント映画全体との比較を考えていると思ってもらった方が都合は良いのかもしれない。つげ義春の漫画では『海辺の叙景』と『紅い花』にて,大枠から物語が始まっている。"大枠"というのは文字通り大枠の意味で,つまり広くとった情景から,ある一点の空間に次第にクローズアップしていくことを言おうとしている。わたしは映像についての詳しい理論は理解していないが,ヒッチコックの『第三逃亡者』のクライマックスのクレーン撮影がこの意味で評価が高いことからして,これが映像理論の一つの技術的到達点であることは確かなのだろう。『第三逃亡者』はサイレント映画ではないが,ヒッチコック映画としてもかなり初期の作品であるし,ヒッチコック自身がサイレント時代から映画を撮っていることからしてもその時代から学んだ映像テクニックではあるのだろう。実際,この問題のシークエンスの評価されたことにはサイレント,トーキーの差異は関係がないし,映像のみの魅せる世界とは一般に無声の世界であることが多い。
漫画における"映画的表現"というのは,一般的には手塚治虫の編み出したものであるとの説が有力らしいが,wikipediaにはそれが誤解である可能性も指摘してあってなかなか楽しいのだが,これが"躍動感のある,またはテンポの良い"という意味での映画的表現だとすれば,『海辺の叙景』に思うのは一見意味のないように見える映像断片の一連のつながりによって一つの世界が出来上がるという,映画の最も根本的な意味での"映画的表現"だった。この違いは大きなものだろう。当然,わたしは素人で絵は描けないし,もっと玄人の人間の分析するところには手塚漫画にだってこのような特徴は認められるだろう。だが,素人目にもどこかその感慨を抱かせるほど,つげ義春の漫画は映像的だと思う。波のしぶきの荒れ狂う様を前にした主人公が振り返るとそこが小高い崖になっていることがわかり,そのすぐ下ったところに一人の女性が佇んでいる。そして,彼らの向かいの絶壁のてっぺんには帽子をかぶった黒いシルエットが釣りをしている。釣り上げた魚の水面に落ちる一瞬に女が声を漏らし,男がそれに共鳴する。この一連の流れに,どうしてもサイレント映画の抒情性を感じてしまう。

われときて
あそべや親の
ない雀

一茶の句を歌い上げる活弁の口上とともに,渡世人姿の忠太郎-片岡千恵蔵をカメラがとらえる。この情感豊かなシークエンスを,どうしても連想してしまう。


*本文中敬称略

蛆虫風呂の美学 『フェノミナ』

2014-01-28 13:19:17 | 映画(洋画)トーキー

『フェノミナ』 84年 イタリア映画

監督:ダリオ・アルジェント
脚本:ダリオ・アルジェント フランコ・フェリーニ
撮影:ロマノ・アルバーニ
音楽:ゴブリン

出演者 ジェニファー・コネリー ドナルド・プレザンス ダリア・ニコロディ



『サスペリア』に続く「美少女虐待シリーズ」の二作目である。本来はアルジェントの娘を主演にする予定が,会社からの要望で代える羽目になり,ジェニファー・コネリーに白羽の矢がたったのだという。ジェニファーにお株を奪われてしまった娘のフィオーレ(アーシアではないのだ)は冒頭で殺される役で出演している。が,普通娘を殺人の被害者の端役で使うかね。フィオーレの殺害シーンでもそうなんだが,アルジェントってあんまり流血シーンを撮らないんだよね。血はでているんだけど,流れ出たという感じを受けないんだな。これはやはりアルジェントなりの殺しの美学なんだろうか。日本人は黒澤時代劇等の影響で,鮮血の噴水が大好きだからねえ,軽いカルチャーショック。


あらすじ

昆虫とコミュニケーションをとることのできるESPを持つ少女ジェニファーは,人気俳優である父親の生活事情から,スイスのチューリッヒの寄宿学校に編入する。丁度そのころ,郊外では少女ばかりを狙った連続殺人事件が発生しており,ジェニファーはその現場を目撃してしまう。地元警察は発見された死体の一部に群がる蛆虫の種類から,
事件の発生時期や場所を特定するため,昆虫学者のジョン・マクレガー教授に協力を要請する。ひょんなことからマクレガーと邂逅したジェニファーは,自らの不思議な能力を彼に打ち明ける。するとマクレガーは,その能力を利用して連続殺人の犯人を突き止めることを提案するのだった。


あらすじはファンタジーチックなサスペンスを思わせる。だが,アルジェントが撮っているからやっぱりジャーロなんだなあ。相変わらず事件の発生は強引だし,映画が終わっても疑問が全く解消されない部分も数多くある。でも,『サスペリア』と違って展開がスピーディーなので,退屈せずに観ていられる。上映時間は『サスペリア』よりも長いのにね。つまり,『サスペリア』や『インフェルノ』では殺される人物が動き出してから殺人鬼登場までが長いし,殺されるまでもダラダラしていて冗漫なのに対し,こちらは殺人のシークエンスと夢遊病で我知らず徘徊するジェニファーの幻想的な夢想風景のカットバックが効果的で,同じ監督が撮ったとは思えない。
しかし,やはりアルジェントは観客の頭の中をクエスチョンマークで一杯にすることを一番に考える人のようで,本作で一番謎なのはストーリーよりもその種明かしよりも,曲の選択にある。緊迫感溢れる逃走場面に,バカ丸出しのヘヴィ・メタル・チューンを使うやつが何処にいる? 結婚式の曲に『蛍の光』を流すようなもんだぜ。どうかしてるよ。だが,その強引さがアルジェント映画の醍醐味なんだなあ。さすがやくざ味溢れるお国柄だぜ,イタリアっちゅう国は。嗚呼マカロニホラー,愛してるぜ,一生追いていくぜこの己は!

『剣聖 暁の三十六番斬り』

2013-12-12 01:57:24 | 映画(邦画)トーキー

『剣聖 暁の三十六番斬り』 57年 日本映画

監督:山田達雄
脚本:松本功 北村秀敏
撮影:河崎喜久三
美術:宮沢計次
音楽:真鍋理一郎

出演者 嵐寛寿郎 和田孝 前田通子 竜崎一郎 林寛 丹波哲郎 徳大寺君枝 天知茂 辰巳柳太郎



日本のAIPこと新東宝製作のチャンバラ時代劇。講談でも有名な鍵ヶ辻の決闘を剣戟の神様嵐寛寿郎主演で描く。

と,いうとかなり期待させてしまうかもしれないが,実はそれほど盛り上がることのない作品。監督は新東宝では新鋭の山田達雄。元々伊藤大輔監督などの助監督を務めていた人で,主演のアラカンからはかなり目をかけられていたという。それが示すようにこの人の演出は堅実で,それらしい破綻は目に付かぬ一方であまりチャンバラ映画らしい色気とかケレン味といったものを感じず,物足りなさが残る。伊藤大輔の悪い面をも受け継いだのだろうか。
私が見た山田達雄作品は本作と『稲妻奉行』でどちらも似たり寄ったりな出来であるのだが,評判では『危うし!伊達六十二万石』はなかなかの傑作であるということで,かなり期待をしている。
それにつけても本作は,その不出来が惜しまれてならない。荒木又衛門をアラカンが演じるとなれば,もっと面白く出来たはずである。新東宝であるせいか,アラカンの殺陣がイマイチ冴えないのも大減点。歳のせいで動きが悪くなっているのもあるのだろうが,この六年後の『十三人の刺客』では鬼気迫る殺陣を披露しているので,やはり東映と新東宝でのスタッフの差ということもあるのだろう。
役者に関しては新東宝らしからず,竜崎一郎や辰巳柳太郎など一流どころをそろえており見ごたえがある。ちなみに又衛門の妻を演じたのは新東宝きってのグラマー女優前田通子。この人が見られるというだけでカルト化してもおかしくはない。
劇中音楽は後に東宝の『血を吸う』シリーズ(山本迪夫監督)なども手がける真鍋理一郎。とはいえアポロンビデオのオケのような安っぽい三味線が弾き鳴らされるあたり,どうもやっつけ仕事っぽさが残る(戦前の講談時代劇へのオマージュとも考えられるのだが)

*本文中敬称略

『水戸黄門 天下の副将軍』

2013-11-18 23:39:07 | 映画(邦画)トーキー

『水戸黄門 天下の副将軍』 59年 日本映画

監督:松田定次
製作:大川博
脚本:小国英雄
撮影:川崎新太郎
音楽:深井史郎

出演者 月形龍之介 里見浩太郎 東千代之介 大川橋蔵 中村錦之助 大河内傳次郎 丘さとみ 美空ひばり 進藤英太郎 山形勲 三島雅夫 
阿部九洲男 香川良介 若山富三郎


東映の映画というのは,たとえセミ・オールスターだとしても演技陣の豪華さは他社のオールスターを凌駕する。主役級を除けば大映の柳栄二郎か滝沢修,東宝の志村喬や藤原釜足など頭幾つ分か抜けた演技派の専属は居れど,数では東映には到底適わない。その反面として脚本家陣は非常に脆かったけれども,黒澤組の纏め役であった小国英雄は時々東映でも仕事をしていたのでそれら作品だけは信じられないような完成度を誇ることになった。小国の参加作品をいくつか書き出してみると・・・

『水戸黄門(60年)』
『庄助武勇伝 会津磐梯山』
『孔雀城の花嫁』
『清水港に来た男』

どれも比佐芳武などでは書けそうもないような逸品ばかりで,小国の仕事振りがいかに並外れたものであったかがわかる。東映の生え抜きの脚本家では松田定次の一番の弟子であった松村昌治が敏腕をふるっていたけれど,殆ど注目されていない。あの傑作『鳳城の花嫁』を書いた人。

本作が他の東映オールスター映画と何が一番違ったかといえば,それはやはり大作感の一言に尽きる。とにかく,オープニングから終幕まで全てが派手で大きいのだ。配役でいえば『水戸黄門(57年)』や忠臣蔵映画の方が遥かに絢爛ではあるけれど,内容でいえば本作ほどのスケール感を生んだ作品は他にない。僅か90分程度のうちに水戸から高松までを旅するのであるが,それが少しも駆け足に感じず,実際に一行とともに旅をしているかのような気持で見ていられる。その間に起こる一つ一つの事件が粋であったり馬鹿馬鹿しくあったり,色や滑稽に富んでいて楽しめる。ドでかい規模のロードムービーなのだ。
ひばりはいつもどおりだけど,丘さとみは普段以上のはじけっぷりでさすがは東映の娘役のエースであると再認識させられる。スターとしての格はひばりに一歩譲るとしても,芸達者ぶりでは堂々たるもの。東映の生え抜きでこの人がいなかったら,東映時代劇の全盛期は儚い夢に終わっていたのではないかと,そんな妄想すら掻きたてられる。それくらいこの人の存在感は大きかった。それを特に感じるのが本作とそれから『維新の篝火』である。後者では淡島千景と丘さとみが未亡人とその妹という立場で出演していて,淡島千景という大女優と並んでも全くその輪郭を霞ませずに立ち振る舞うというのは大川恵子や桜町弘子には無理だったろうと思う。ファンの間では『天下の御意見番』という作品での丘さとみの演技こそが真骨頂であるという声が高く,わたしも近くこの作品を見たいと思っている。
ちなみに本作では丘さとみの吹き替えなしの歌を聴くことができる。調子外れの実に微笑ましい歌いっぷりで,これを吹き替えなしに入れてくれた松田定次監督他スタッフの人たちをわたしは賞賛したい。

本作には大友先生が出演していないので派手なチャンバラはそれほど期待できないとは思っていたのだが,序盤の山賊との立ち回りはアメフトなど球技的の動きを取り入れた非常にコミカルな,軽妙な活劇になっていて楽しめるし,クライマックスでは錦之助が底力を見せてくれる。それまで見たオールスター映画では錦之助はあまり立ち回りに参加していなかったので,この人の本格的な立ち回りを見たのはこれが初めてであった。アラカンはワカトミと錦之助の殺陣を特に評価していたというが,それもたしかにわかる。大友先生ほどの豪快さはないけれども。
本作の場合では錦之助は立ち回りは勿論として,話題にも上りやすい狂人の演技に対する賞賛がある。この作品のとくにこの場面での錦之助を見ると,この人が実に優れた演技者であったのだということがわかる。本作での錦之助の役柄は一国の殿人である。西村晃や沼田曜一,菅貫太郎が得意とした半端物,やくざ者の狂人ではない。映画的,とくに明朗時代劇表現として狂気を帯びながらしかし決して失われぬ上品さ,床しさというものが滲みでていなければならない。これらを見事に体現できた役者はおそらく中村錦之助を除いては皆無だろう。橋蔵ではあまりに美しすぎ,雷蔵では哀しすぎる(ちなみにこれが災いして錦之助の浅野内匠頭はあまり良くなかった。内匠頭の演じた役者で結果的に最も上手かったのは東千代之介であった。千代之介の退廃美はこれはこれで唯一無二のものであった)
錦之助が名演をすると,橋蔵が熱演をする。この二人は実際にも互いに意識し合うライバル関係にあったようで,その関係は出演作にたしかに良い効果を生んでいた。映画時代には錦之助に勝てなかった橋蔵。だが,時代劇が銀幕から電気紙芝居たるテレビに移行してからあまりに大仰な演技を揶揄された錦之助と,逆に手堅く『銭形平次』をものにした橋蔵。二人のキャリア上の対決はその死までもつれ込んだのであった。


*本文中敬称略