この本は東大漕艇部OBの岸道三氏の追悼録(右側の大きい本)と、「岸道三という男(岸道三伝記刊行会、昭和40年)」です。
岸さんは岸清一先生とは苗字が同じですが、ボート部は同じですが親戚関係はありません。また岸氏は後に道路公団総裁を務めており、銚子大橋は岸氏が銚子を訪れた時に、地元が用意した旅館を断り学生時代、銚子遠漕でお世話になった、旅館大新に宿泊を希望し実際に泊まったそうです。
そしてお世話になった銚子のお役にたてればと、銚子大橋の建設を快諾されたのだそうです。その銚子大橋も老朽化のため建て替えられているようです。
また満州時代もあるようですから、満州の漕艇界にも何らかの影響を与えたかも知れまえん。後で調べてみたいと思います。
とにかく両方とも、大変にぶ厚い本ですが、同じ個人の遺徳を偲ぶ本が2冊も出ている例はボート界ではありません。
また先ほどご紹介した、美学入門についてより詳しいレポートが投稿されたので、ご紹介しましょう。
【テロレン岸とボート文化】
葛飾ローイングクラブ 添田直人
東大漕艇部の偉大な先輩にテロレン岸道三(明治32年~昭和37年)がおり、『岸道三追悼録』(昭和39年刊)があります。その427ページに、大正12年(1923年)の一高端艇部員の名簿が載っています。
それを眺めたら驚くべきことがわかりました。
その名簿に、もちろんテロレン岸が載っていますが、そこに、「梯明秀」(かけはしあきひで)の名前があるのです(南寮第二、第三番室、端艇部)。
梯明秀は知る人ぞ知る、独自の唯物論哲学を打ち立てた有名な学者です。その梯が、テロレン岸と一緒に一高でボートを漕いでいたとは驚きました。梯はその後、一高ボート部時代のことを回顧し、ボートの練習後よく哲学書を読んでいたそうですが、「チャン」(対校選手)がレースで負けて整調がおいおい泣いたので、梯が励ましたところ、その整調は梯に対して、お前みたいに哲学書でボートを漕ぐ人間におれの悔しさが分かるものか、と言われたとことがあるそうです。
テロレン岸は、その後、千葉四郎(東大漕艇部)らとともに、一九会という禊の修行道場に行って精神を鍛え、ボート選手を参加させようとしています。田中英光の『端艇漕手』にも、禊の修行のことが描写されています。このころのボート選手には、梯の哲学、テロレン岸らのように、精神的な修行によってボートを漕ぐという考え方があったのでしょう。
梯は、一高卒業後、京大文学部に進学しましたが、そこで、中井正一(なかいまさかず)に出会って、京大ボート部の中井がコックス、梯が二番を漕いでいるのです(京大ボート部百年史上巻)。
中井は、三木清がつくった文学部ボート部を再興したようです。中井、梯は、京大哲学科の流れにあって、その流れの中の三木清もボートを一高時代に漕いでいたのであり、何と、三木は、民法の偉大な学者である我妻榮といっしょにボートの選手であったのです。我妻の民法学説は、こんにちの通説を確立した人で、法律家で我妻の名を知らぬ者はいないのです。
中井は、戦後の国会図書館長になり、これもまた美学、哲学の有名な学者であり、美とは何かを解明しようとして、著作においてスポーツ、とりわけて、ボートの芸術性、ボートの美しさの根拠を、ボート選手の経験を踏まえて追及しています(『スポーツ気分の構造』、『スポーツの美的要素』、以上は、岩波文庫の『中井正一評論集』所収。)。
これらを見ると、ボートを芸術として考える者が、大正末から昭和初期のボート界であいついで登場していることに気が付きます。東京では早大の田中英光(小説)、慶応の竹中久七(詩、シュールレアリズム)がおり、京都では、三木、中井、梯ということになります。
ボート漕ぎの歴史は、多方面にその影響を文化として社会に営々と伝えているものだと思います。
(葛飾RC添田直人)
岸さんは岸清一先生とは苗字が同じですが、ボート部は同じですが親戚関係はありません。また岸氏は後に道路公団総裁を務めており、銚子大橋は岸氏が銚子を訪れた時に、地元が用意した旅館を断り学生時代、銚子遠漕でお世話になった、旅館大新に宿泊を希望し実際に泊まったそうです。
そしてお世話になった銚子のお役にたてればと、銚子大橋の建設を快諾されたのだそうです。その銚子大橋も老朽化のため建て替えられているようです。
また満州時代もあるようですから、満州の漕艇界にも何らかの影響を与えたかも知れまえん。後で調べてみたいと思います。
とにかく両方とも、大変にぶ厚い本ですが、同じ個人の遺徳を偲ぶ本が2冊も出ている例はボート界ではありません。
また先ほどご紹介した、美学入門についてより詳しいレポートが投稿されたので、ご紹介しましょう。
【テロレン岸とボート文化】
葛飾ローイングクラブ 添田直人
東大漕艇部の偉大な先輩にテロレン岸道三(明治32年~昭和37年)がおり、『岸道三追悼録』(昭和39年刊)があります。その427ページに、大正12年(1923年)の一高端艇部員の名簿が載っています。
それを眺めたら驚くべきことがわかりました。
その名簿に、もちろんテロレン岸が載っていますが、そこに、「梯明秀」(かけはしあきひで)の名前があるのです(南寮第二、第三番室、端艇部)。
梯明秀は知る人ぞ知る、独自の唯物論哲学を打ち立てた有名な学者です。その梯が、テロレン岸と一緒に一高でボートを漕いでいたとは驚きました。梯はその後、一高ボート部時代のことを回顧し、ボートの練習後よく哲学書を読んでいたそうですが、「チャン」(対校選手)がレースで負けて整調がおいおい泣いたので、梯が励ましたところ、その整調は梯に対して、お前みたいに哲学書でボートを漕ぐ人間におれの悔しさが分かるものか、と言われたとことがあるそうです。
テロレン岸は、その後、千葉四郎(東大漕艇部)らとともに、一九会という禊の修行道場に行って精神を鍛え、ボート選手を参加させようとしています。田中英光の『端艇漕手』にも、禊の修行のことが描写されています。このころのボート選手には、梯の哲学、テロレン岸らのように、精神的な修行によってボートを漕ぐという考え方があったのでしょう。
梯は、一高卒業後、京大文学部に進学しましたが、そこで、中井正一(なかいまさかず)に出会って、京大ボート部の中井がコックス、梯が二番を漕いでいるのです(京大ボート部百年史上巻)。
中井は、三木清がつくった文学部ボート部を再興したようです。中井、梯は、京大哲学科の流れにあって、その流れの中の三木清もボートを一高時代に漕いでいたのであり、何と、三木は、民法の偉大な学者である我妻榮といっしょにボートの選手であったのです。我妻の民法学説は、こんにちの通説を確立した人で、法律家で我妻の名を知らぬ者はいないのです。
中井は、戦後の国会図書館長になり、これもまた美学、哲学の有名な学者であり、美とは何かを解明しようとして、著作においてスポーツ、とりわけて、ボートの芸術性、ボートの美しさの根拠を、ボート選手の経験を踏まえて追及しています(『スポーツ気分の構造』、『スポーツの美的要素』、以上は、岩波文庫の『中井正一評論集』所収。)。
これらを見ると、ボートを芸術として考える者が、大正末から昭和初期のボート界であいついで登場していることに気が付きます。東京では早大の田中英光(小説)、慶応の竹中久七(詩、シュールレアリズム)がおり、京都では、三木、中井、梯ということになります。
ボート漕ぎの歴史は、多方面にその影響を文化として社会に営々と伝えているものだと思います。
(葛飾RC添田直人)