専修大学の方から、ご質問いただきました。
(もし、このブログをご覧になっている方、おりましたら
「今日の出欠票の裏にあった質問への回答アップされてたよ」
とお友達にお伝えください^-^)
「不合理な区別かどうかを判断する枠組みは、
どう設定すべきでしょう?
高橋先生の教科書などでは、問題となっている
権利の内容などを考慮して決定するとのことなのですが。
しかし、平等権を区別されない権利とすると、
問題となっている権利の内容って関係ないのでは・・・?」
はい^-^>
ええ、実は私、平等権の専門家です。
『平等なき平等条項論』をよろしく^-^>
あ、しつこい。
失礼いたしました。
では、まいりましょう。
判例の枠組みは、
平等権
=区別されない権利
→区別はどんな法令でも生じるので、大した価値ではない
→よって、もっとも緩やかな審査基準。
一方、アメリカの判例の影響を色濃く受けて形成された多数説は、
上記の枠組みを前提としつつ、
1 基本的権利に関する区別の論理
重要な権利に関する区別については、
(例えば、公務員と一般人の政治活動に関する区別については)
実質的に問題になっているのは、
区別されない権利よりも重要な権利(表現の自由など)の制限なので
厳格審査基準。
2 疑わしき区別の論理
また、自分の努力では変えられない属性(人種や門地による区別)については、
不合理性が推定されるので、
目的の正当性(場合によっては重要性)と
事実上の関連性(実質的関連性)を要求する厳格な合理性の基準。
→ちなみに、こういう不合理が推定される区別を、
アメリカでは「疑わしい区別」
日本では「14条1項後段列挙事由に基づく区別」
ドイツでは「人の区別」などといいます。
→ちなみに、アメリカでも日本でも、
平等権について、LRA=必要性の審査はしないのが普通です。
多分、ある区別(非嫡出子と嫡出子の法定相続分の区別)を解消しても、
なんらかの区別(子供と兄弟姉妹の法定相続分の区別)が残るのが普通なので、
ある平等権制約(法令が区別すること)について、
LRA(法令が区別を全くしないこと)を想定することが極めて困難だから、
ってことなのかなと。
で、
▲高橋先生は、1の基本的権利セオリーをとります。
しかし、むかしから、1の論理には
△「だったら、その権利(表現の自由)などを直接主張しろよ!」
という、まさにおっしゃる通りの批判が、
(アメリカにも、日本にも)あります。
私も、1の論理は好みませんので、多数説は採りません。
(『平等なき平等条項論』十三章参照)
▲しかし、高橋先生ら多数説は、憲法に明文のない重要な利益もあり、
それをまもるのが14条1項のやくめだ、ということで、
1の論理を維持。
・・・。
△しかし、そういうことなら、13条をつかえばいいじゃん。
(ちなみにアメリカには13条みたいな条文がないので
平等条項つかわざるをえない、という事情が一応ある。)
という実戦例があります。
なので、おっしゃるとおりに理解して頂ければよいと思います。
ただ、有名な多数説なので、もちろん、1の基本的権利の論理、
理解し、覚えておかれるべきかと思います。
ではでは^-^.
(もし、このブログをご覧になっている方、おりましたら
「今日の出欠票の裏にあった質問への回答アップされてたよ」
とお友達にお伝えください^-^)
「不合理な区別かどうかを判断する枠組みは、
どう設定すべきでしょう?
高橋先生の教科書などでは、問題となっている
権利の内容などを考慮して決定するとのことなのですが。
しかし、平等権を区別されない権利とすると、
問題となっている権利の内容って関係ないのでは・・・?」
はい^-^>
ええ、実は私、平等権の専門家です。
『平等なき平等条項論』をよろしく^-^>
あ、しつこい。
失礼いたしました。
では、まいりましょう。
判例の枠組みは、
平等権
=区別されない権利
→区別はどんな法令でも生じるので、大した価値ではない
→よって、もっとも緩やかな審査基準。
一方、アメリカの判例の影響を色濃く受けて形成された多数説は、
上記の枠組みを前提としつつ、
1 基本的権利に関する区別の論理
重要な権利に関する区別については、
(例えば、公務員と一般人の政治活動に関する区別については)
実質的に問題になっているのは、
区別されない権利よりも重要な権利(表現の自由など)の制限なので
厳格審査基準。
2 疑わしき区別の論理
また、自分の努力では変えられない属性(人種や門地による区別)については、
不合理性が推定されるので、
目的の正当性(場合によっては重要性)と
事実上の関連性(実質的関連性)を要求する厳格な合理性の基準。
→ちなみに、こういう不合理が推定される区別を、
アメリカでは「疑わしい区別」
日本では「14条1項後段列挙事由に基づく区別」
ドイツでは「人の区別」などといいます。
→ちなみに、アメリカでも日本でも、
平等権について、LRA=必要性の審査はしないのが普通です。
多分、ある区別(非嫡出子と嫡出子の法定相続分の区別)を解消しても、
なんらかの区別(子供と兄弟姉妹の法定相続分の区別)が残るのが普通なので、
ある平等権制約(法令が区別すること)について、
LRA(法令が区別を全くしないこと)を想定することが極めて困難だから、
ってことなのかなと。
で、
▲高橋先生は、1の基本的権利セオリーをとります。
しかし、むかしから、1の論理には
△「だったら、その権利(表現の自由)などを直接主張しろよ!」
という、まさにおっしゃる通りの批判が、
(アメリカにも、日本にも)あります。
私も、1の論理は好みませんので、多数説は採りません。
(『平等なき平等条項論』十三章参照)
▲しかし、高橋先生ら多数説は、憲法に明文のない重要な利益もあり、
それをまもるのが14条1項のやくめだ、ということで、
1の論理を維持。
・・・。
△しかし、そういうことなら、13条をつかえばいいじゃん。
(ちなみにアメリカには13条みたいな条文がないので
平等条項つかわざるをえない、という事情が一応ある。)
という実戦例があります。
なので、おっしゃるとおりに理解して頂ければよいと思います。
ただ、有名な多数説なので、もちろん、1の基本的権利の論理、
理解し、覚えておかれるべきかと思います。
ではでは^-^.
平等権の審査というのは、
急所にも書いたことですが、
その「区別」をすることの目的(景気振興)の正当性、
その「区別」がその目的達成に役立つ区別かどうかの審査、です。
おっしゃる文脈で、
金銭給付をすることの手段審査をするわけではないですね。
早速のお返事ありがとうございます。
木村先生に明確な回答をいただくことですっきりしました。
ありがとうございます。
平等権の審査においては、区別を用いる必要性を考慮することが重要なのだとしたら、疑わしい区別の類型では、手段の必要性を問う審査基準を立てた方が良いみたいですね。
あと一つ質問があるのですが、
手段の合理性を問う中で、区別を用いることが景気振興目的に役立つかどうかを考慮することはできるのでしょうか?
先の問題ですと、男性に1万円女性に2万円の給付を行う行為は「金銭を給付する」ことが合理性があるのは明らかですが、「男女の区別をして金銭を給付する」ことに合理性があるかを考えてはいけないのでしょうか…。
後者の場合景気振興目的に役立つとは言えない(女性の方が多く支出するというデータはない)、すなわち合理性はないという結論になるのではないかと考えました。
このような議論が成り立つのか、コメントをいただけるととてもありがたいです。
お忙しい中恐縮ですが、よろしくお願いします。
HK
景気振興という目的達成ために
その区別を用いる方法以外の方法があるか
を問うことになります。
従って、審査基準を立てる時、
LRAのような手段としての必要性を問う
基準を立てる必要があり、
判例のような合理性基準でいくと
そのような事情は考慮対象外
(平等権審査とは無関係の事情)になります。
こんばんは。お久しぶりです。
いつもブログを楽しく読んでます。
最近平等権の目的手段審査で悩んでいるので一つ質問させて下さい。
きっかけは宍戸先生の本を読んだことです。
(宍戸先生が先日アメリカに留学に行かれたそうですね…悲しいです(><))
宍戸先生の『解釈論の応用と展開』113頁5行目に「「疑わしい区別」である性別を使わねばならない事情が、景気振興という目的にあるかを問わねばなりません」とあります。
この区別を用いる必要性とでもいうべき事情は、目的と手段のどちらで考慮すべきでしょうか。
私は、目的の重要性(ないしやむにやまれぬ利益)か、手段の必要性で考慮するのかなと考えたのですが…
もし目的審査で考慮するとすると、重要な利益(ないしやむにやまれぬ利益)=目的の正当性+区別を用いる必要性、になります。
ここで人種差別について考えると、人種による区別を用いなければ達成できない正当な目的というのはほとんどないと思われますので、それを満たすのはよっぽどの利益だということで、やむにやまれぬ利益と表現されているのかなと考えました。
また、性別差別について考えると、男女には身体的な差異があるため、性別による区別を用いなければ達成できない正当な目的というのは人種差別と比べればありうると思われますので、重要な利益と表現されているのかなと考えました。
しかし、単純に考えると、区別を用いる必要性がないということは、区別を用いない他の手段でも目的を達成できる(LRAがある)ということですので、手段の必要性で考慮すべき事情である気がします。
ここまで考えたところで止まっています。木村先生のコメントを頂けると幸いです。
よろしくお願いします。
HK
ぜひぜひ読んでみてください。
「平等権」の後半は、大澤先生の流れに乗って
暴走してみました。
平等権というのは深いものです。
「まだ掘り下げる!?え、まだ!?えー!!」
という感じで一気に読み終わり、これから2週目です。
国籍法判決の立法事実を大雑把と感じられるのも納得いたしました。
後半部分はなじみがなく難しいですが
食らいついていきます。
法協もそうなのですが、
「深い」のに「短い」のは何でだろうと思ってよく読むと
ぜんぜん無駄と隙がないんですよね。
これが「急所を突く」ということか、と改めて思い知らされました。
こういう答案を書きたいなーと、そういう意味でも勉強になります。
『憲法学の未来』は入手するのに時間がかかりそうですが
必ず拝読いたします。
質問に応じていただきありがとうございました。
それは、平等権というものの要保護性が低いという
そういう考え方があると思います。
実際、判例の考え方は故なきものではありません。
法律文化社の『人権の射程』という本があるのですが
そこで私が一筆かいておりますので
ご参照ください。
国籍法違憲判決は、確かに立法事実を公知の事実と考えていると思いますが、
やはり、やや大雑把な印象を受けます。
『憲法学の未来』には、私のほか、原告代理人をされた
近藤弁護士の面白い議論ものっていますので
そちらを読んで頂くと
また当時の状況がわかると思います。
法協ありがとうございます。
公式戦の記録なので、読んで頂ける方がいて
とてもうれしいです。
国籍法判決について質問です。
1.関連性の推定
国籍法判決では、
国籍は重要で、親の婚姻という如何ともしがたい事柄による区別だ
といって不利益の重大性を指摘しながら、
関連性は推定されてしまいました。
(実質的に「関連性の不在」の推定をしたとの読み方もあり得ると思いますが、
当面は素直に読んでいきます。)
慎重に判断するとは言っていますが、
逆に、何が何でも関連性の推定を堅持しようという気迫さえ感じます。
これは
法律が区別を予定している
という理由だけでは納得しがたいのですが、
何か理由があるのでしょうか。
国籍の問題に限って考えると
国籍は国民主権と密接不可分の法的地位であり
統治機構に関わる事項だから
立法府の判断を最大限尊重する
といった理由だろうか?
というところで考えが止まっています。
2.関連性(の不存在)の認定
自分の理解によれば、国籍法判決は、
①夫婦や親子に関する意識の変化等に伴って、
非準正子と父との生活上の関係が密接な場合が増えてきた。
②婚姻の有無は「結び付き」を左右する決定的な要素ではない(一要素にはなるが)。
という論理で、関連性を否定していると思います。
木村先生の論文(法協☆感動もの☆)によりますと、
「双方について同居の割合や平均的な面会回数等を調査、それを示す必要がある」
「この点についての本判決の論証は、観念的で抽象的なものに止まって」いる
とされています(345頁後ろから2行目以下)。
ここは、
①は「公知の事実」であり
関連性を判断するにあたっては詳細な証明や認定は不要
と考えられたのではないでしょうか。
ただ、個別に「結び付き」を検討するわけではないようなので
本判決は「『血統』を非常に重視」し、
「『結び付き』を相当程度に軽視」している(法協352頁)
という問題は大きな問題だと思いました。
図書館で『憲法学の未来』を検索したのですが、
しばらく待たないといけないようで、すごく欲求不満です…。
一言でもヒントをいただけたらうれしいです!
よろしくお願いいたします。
参考にしていただけて、
とてもうれしいです
模範解答といってよろしいかと思いますが、
照英さま、いかがでしょうか?
なかなか難しいですが、法律はある目的を達成するために制定されますから、多くの法律はその適用を受ける対象が、自ずと一定範囲の者に限られる、という事態が生じると考えられます。
消費税のように区別なく国民一般に課されるものは例外なのかもしれません。
そして憲法が法律を制定すること自体認めている以上、国民の何かに着目して、線引きして区別することは本来的に予定されていると考えられるのではないでしょうか。それ故裁判所としても、何か区別が生じていても通常は目くじらをたてることはなかろという目で審査すればよいのですが、ただ、中には不合理な区別が紛れ込んでおり、それを排斥する必要があります。これまでの歴史をみますと、不合理な区別は特に後段列挙事由に着目した区別であったことが多いと考えられます。後段列挙事由に該当する場合は類型的に怪しいと考えられるため、裁判所はその場合はしっかりと審査すべきである。
じっくり考えるとこういうことではないか、と思いました。
合憲の推定を置かない審査の意味だと思いますが、
平等権では一般に、合憲の推定を置いて審査するので、
疑わしい区別とか、特別にそれを外す類型を
設けるんですよね。
なぜ、平等権では一般に合憲の推定を置かないのか、
という点については、ちょっと考えてみてください。
じっくり考えるとわかる問題です
勉強になりました。ありがとうございます。先生のご著書も読ませていただきます。
まず、「疑わしい区別」厳格審査の法理は、
日本の判例の採用するものではありません。
アメリカ連邦最高裁の法理は、
人種に基づく区別は、類型的に、目的との関連性がないことが多いので、
関連性がないという推定(違憲の推定)をおき、
関連性があることが明確に論証できる場合にのみ
合憲としよう、というものです。
「厳格な審査」という言葉はいろいろ意味がありますが、
ここでは違憲の推定という意味ですね。
「疑わしい」というのは、
人種による区別が経験的に目的達成に役だっていないことが多い
という程度の意味です。
「疑わしい」ことは、アメリカでは違憲の推定を置くのに
十分な理由だと考えられております。
再びですが一つ質問させてください。(先生のご著書に触れられておりましたらまだ未確認ですので申し訳ございません。)
一点疑問なのですが、「疑われる」と厳格に審査すべき、というのは何故でしょうか。厳格に審査すれば違憲になりやすく緩やかに審査すれば合憲になりやすいという対応関係があると思います。それくらい基準の選択は、合憲違憲の結論に直結しかねないものなのですから、選択の基準は「疑わしい」かどうかでなく、基準選択の時点・段階で判断できる、中身のある客観的な要素(自由権の審査のように)に着目して判断すべきではないのでしょうか。その「疑い」は、審査基準を選択する過程・段階では、実際は疑ったとおりなのか、単なる裁判所の誤解なのか、まだわからないと思いますので、基準選択のときに疑わしいかどうかに着目して基準を選ぶのは、それこそ裁判所の偏見で、合憲違憲の結論まで決めてしまうことになりかねないのではないかと思うのです。
先生御推薦の教科書、論文は是非読ませていただきます。写真でみる限り表紙がとても斬新です。内容も楽しみです。
で、なんでそういう問題が生じるかというと、
平等権との関係でいわゆる厳格審査が要請される区別というのは、
差別的意図が疑われたり、
差別助長効果が疑われる区別なのですよ。
なので、差別的意図が疑わしいとは言い難い
積極的是正措置について、
人種による区別だという「形式」だけに着目して
厳格審査をすることに違和感が生じるわけです。
そんなわけで、私は、平等権と差別されない権利を
区別してそれぞれ別の問題と扱うべきという立場です。
詳しくは『平等なき平等条項論』、
簡単にはジュリスト1400号の論文を
ご参照ください。
①一つ目は14条1項後段列挙事由と審査基準の関係です。この事由に着目した区別をする場合、厳格な基準によるべきであると耳にします。自由権に対する制約では権利の重要性、規制態様から審査基準を設定します。しかし、列挙事由による区別の審査基準の設定を考える際にはこのような視点はでてきません。よく耳にするのは、列挙事由は歴史的に不合理な差別が行われてきたものだからとか、本人の意思では変えられないからとか、疑わしいから、といった、自由権に対する制約の審査基準を考える時とは異なる要素を見て審査基準を設定するようです。しかし、こうした考えは目的的といいますか、何か恣意的な感覚を拭えません。怪しいから厳格に審査するというのはおかしくて、中立に審査するべきではないでしょうか。上記の自由権の審査の場合は、中立的に審査基準を設定できていると思います。恣意的と思うのは私の理解が不十分が故のことなのでしょうか。
②二つ目は、積極的差別是正措置と審査基準との関係です。耳にするのは、例え列挙事由に該当するとしても厳格に審査すると違憲になる可能性があり、そうしないためにやや緩やかな基準を設定するべきとか、歴史的に差別されてきて、それを是正する必要があるから審査基準は緩やかにすべきとか、少数派を優遇しているだけだから多数派はまずいと思えば元に戻せる、というものです。これもまた自由権制約の審査基準を設定する際の権利の重要性、規制態様といった要素とは違う視点で設定しています。これも何か先に合憲にしたいという結論ありきというか、恣意的で目的的な感覚を拭えません。こうした感覚は私の理解不足に由来するものなのでしょうか。自由に対する審査基準を設定する場合は中立的で大変納得できるのです。