KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

「お笑い」番組の「いじめ」事件に対する影響について

2007-09-23 18:01:33 | ニュースと政治
神戸市の恐喝未遂事件(あえて「いじめ事件」とは言わない)のニュースにひどく心を痛めている。

わたしはもともと、メディアで流される物語の「被害者(広義)」に対し、異常にシンクロしてしまう人間である。

岩井俊二『リリィ・シュシュのすべて』では、クラスメイトから強姦され、そのとき撮影された写真を脅しの種にされながら「ゾウキン」にされてしまう少女にシンクロしてしまって大変だった。
一週間くらい、「自分は自殺すべきなのになぜ生きているのか」(おそらく、わたしがその少女であったら自分に向けるであろう問い)と悩みつづけた。

『ボーイズ・ドント・クライ』(性同一性障害(FtM)の話)で、性同一性障害の主人公が強姦されるシーンを見たあとも、しばらく精神的に不安定だった。
『ほたるの墓』もアウト。
先日、実家に帰省したらテレビ放映していたので、布団を頭からかぶって無理やりねた。

なので、ニュースでいたましい事件が流れると、自分が被害者と同じくらい傷ついたような思いに囚われてしまうのだ。
特に、「いじめ」事件や強姦事件はダメだ。
この社会で生きていくことがどうしようもなく恐怖になる。


そんなわけで、神戸の恐喝未遂事件である。


これはひどい。
連日、さまざまないじめの実態がぽろぽろとニュースや新聞で出てきているが、どれひとつとっても、ものすごい恐怖である。


さて、こういう「いじめ」事件が起こると、まずマスコミに叩かれるのは、一連のお笑い系バラエティ番組である。
以前、このようなお笑いバッシングに対して、ナインティナインの岡村氏が抗議していたことがあった。
おそらく、今度も同じようにお笑いがバッシングされ、岡村氏が吼えるであろうことは想像に難くない。


わたしは、自分自身お笑い芸人である岡村氏が、「僕たちがやっていること(お笑い番組でのコント)はいじめとは関係ない」と主張する気持ちはよくわかる。

わたしには、『めちゃいけ』でのコントに見られる、いわゆる「いじめ」的な構造(罰ゲームなど)に不快感を示す視聴者は多いらしいが、それが精巧に組み立てられた撮影トリックの中に現れる幻影であるという認識がある。

お笑いにしても音楽にしてもマンガにしても、
プロとアマの境目が曖昧になってきた結果、あまりにわかりにくくなっているが、「お笑い芸人」はプロであり、芸人がテレビで行っていることはプロの「芸」である。
つまり、ナインティナインはじめ『めちゃいけ』メンバーが番組上行っている「いじめ」的なシチュエーション・コメディは、すべてプロ集団による「芸」として行われていることである。
…少なくとも、わたしはそう認識している。


プロ集団にとって、「芸」を行うことは仕事であり、
それは個人的な楽しみである「ゲーム」や、ストレス発散とか、個人的なハラスメントとは、直接的には関係ない。
それは漫才における「ツッコミ」が、たとえどれほど激しいものであろうと、それは個人的な怒りや不快感とは無関係であるという事実と類似している。


だから、そういうプロ意識をもったプロ集団のメンバーである岡村氏がコメディにおける「いじめ」的構造を非難されたときに、「関係ありません!」と答えるのはもっともだと思う。
間違いなく、彼にとってそれは「芸」でありプロの仕事なのだろう。


最近は、『M1』が放映されていることもあるので、言わずともわかっている人が多いのだろうが、
テレビ番組を見て、視聴者が「これなら俺でもできそう!」「これくらいならアタシだって!」と思うことの多くは、実現不可能である。
「お笑い」は特に、誰もが「できそう!」と思いやすいらしい。
「お笑い」のための専門学校には多くの入学希望者が集まるという。
…そりゃ、そうだ!誰だって、身近な人を楽しませた経験は多くあるのだから。

だけど、それと「芸人」の「芸」とはまったく異なるものだ。
それが多くの視聴者にはわからない。
そしておそらく、プロの「芸人」である岡本氏には、視聴者がなぜそれがわからないのかがわかっていないと思う。


問題の核心はここにあるのではないかとわたしは考える。
つまり、
『めちゃいけ』等のお笑い系バラエティ番組における「いじめ」的な構造が、視聴者にとってもっとも「わかりやすく」「面白い」ものであり、かつ、それが自分たちの日常とかけはなれたプロの「芸」としては理解されないという点である。

「わかりやすい」「面白い」ものは、その名のとおり、感覚的にすぐ理解される。
感覚的にすぐ理解される笑いの構造として、現在このまれているものが、「いじめ」的な構造であるとも言える。

誰にでもわかって、誰でも楽しめるもの。
この誰もがよくわからない、理解しあえない時代にそんなものがあるのだとしたら、コミュニケーションのうまく成立しない状況で、それに頼ろうと思うのは当然のことであると言える。
しかも、それが「俺にもできそう」「アタシにだってできそう」なものであるのだから。


「いじめ」のゲームを開始してしまう人たち、そこに巻き込まれてしまう人たちは、マジックを習いはじめる人たちと似ているのではないかと思う。

「いじめ」ゲームによる笑いもマジックによる驚きも、
わかりやすくて、おもしろいもの、誰にでも共通に理解可能な希少なツールとしてマスコミが喜んで流し続けているという点では共通している。
両方とも、コミュニケーションが成立しにくい状況において強力な武器になってくれる。少なくとも、それを用いることができる限り、居心地の悪い思いをしないですむ。そんな印籠として、「いじめ」ゲームが存在しているると思う。


それが、この問題のもっとも怖いところだ。
わたしたちに必要なのは、もしかしたら、居心地が悪くてもそこでどうにかやっていくという力なのかもしれない。


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4 コメント

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Unknown ()
2007-09-27 19:27:32
「いじめ」的構造の芸を"見る"側の問題は私も感じる。



私自身はそうした芸には嫌悪感を生じるタイプです。

自身がいじめられた記憶を想起させるものだからです。

ボケ役に激しく自分を重ねてしまうので。



でもそれは芸なのであって、いじめとは区別されるのだと言われたら、

問題なのはおそらく"見る"側の内に立ち上る生々しい加害者あるいは傍観者としての感情ではないかと思います。

何かそれはとても醜くて汚い感情で、「いじめ」を面白がっている自分、それに嫌悪するような気がします。

「いじめ」的構造のお笑いは、私たちのそうした醜い感情を上手く利用したもののように思えて、嫌だと感じるのではないかという気がします。

もう少し別の構造によって笑いを誘ってもらえたら、と思ったりはします。



でもKIMISTEVAさんの主張を受け入れるならば、私たちの多くはきっと、お笑いを見る目が洗練されていないのかもしれません。

「いじめ」的構造のお笑いは、本当はもっと別のものとして見えるはずなのかもしれません。





「いじめ」というのは、確かにひとつのコミュニケーションの試みですよね。

それはとてもよく理解できます。

笑いって場の緊張を解きほぐすものだから、「いじめ」的構造のお笑いが模倣されるのかもしれません。



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いやいや (kimisteva)
2007-09-28 16:52:19
わたしもいじめ的構造のお笑いが嫌いですよ。

とんねるずにせよ、ダウンタウンにせよ、そういうバラエティ(新手の芸人いじめ)をやりはじめた途端に、「ああまたか」と絶望します。
逆に言えば、本人たちの意図はともかく、テレビ局側から「これが受けるから」と要請される笑いのスタイルがコレなのではないかと思うので、芸人本人を叩くのとはまた違う次元で考えなければならないのでは?…と思うのです。


わたしの教育実習先はT大学からの実習生(実習までは面識のない人ばかり)がほぼ全員、突然、ほとんどプライベートのない大広間で3週間一緒に暮らさなければならないという状況になるところでした。
わたしは全然知らなかったのですが、そのときに、いじめが起きていたことを後から聞いて、「いじめ」というのは極限的状況におけるコミュニケーションの試みなのだなぁとあらためて思いました。
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スケープゴート ()
2007-09-28 21:03:27
そう言われて思い出すのは"スケープゴート"という概念です。

緊張感の高い集団において誰か生け贄(いじめられ役)を作ることで緊張感を和らげる、という。



でもそれを"コミュニケーション"として捉えるのは私には新鮮です。救いがある気がする。

だったら、緊張感を低下させるための別のコミュニケーションを習得すればよい。

…といって、エンカウンター・グループのエクササイズを学校では使うのでしょうね。



人間、"自分の身を守らねば"となった際、少なくとも2つの選択肢があると私は思っています。

自分以外の存在を攻撃することで身を守るのと、

自分以外の存在を味方にして身を守るのと(共通の達成課題が必要です)。



敵対関係と協力関係なら、後者の方が生産的なのは言うまでもないのですが…。



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楽観主義者です (kimisteva)
2007-09-29 19:01:52
「スケープゴート」なんて、まさにそういう人間の社会心理学的側面を概念化した用語でしょうね。納得。

「社会」の存在は人間と動物を隔てる指標のひとつでしょうが、まさにそれゆえに、「社会」を作り出し維持することはものすごく高等なコミュニケーション・スキルが必要だという認識があります。

一番、簡単なのはゴリラや猿がやっているように、強弱や老若を基準としたヒエラルキーを作ることでしょうね。ヒエラルキーのある社会は安定しています。誰が何をすればよいのかが一目瞭然な社会。これはある意味生きやすいでしょうね。
でも現代社会はそういうヒエラルキーがない。「みんな平等」がうたわれる社会で生きることは、恐ろしく難しいことなのだろうと思います。
青少年で、そういう難しいことを行うためのコミュニケーション・スキル持った人間は少ないでしょうね。そういう前提から始めなければいけないのではないか、と最近は思います。

某巨大掲示板でアップされている、かの事件の被害者のクラス(?)の男の子たちの集合写真には見事なヒエラルキーが顕在化してました。
スケープゴートもヒエラルキーも、彼らに言わせれば必要なものだったんでしょうね。きっと。
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