KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

発狂する日本語ブーム:『使えないと恥ずかしい敬語200』

2006-09-23 13:38:57 | 
昔から、「日本人って不思議だなぁ…」と思うことのひとつに、「日本語」に対する異様な執着心がある。

執着心というより、むしろ「囚われ」といってもいいくらい。いや、もはや「依存」の段階なのか…?
そのあたりは、よくわからないが、
ともかく、毎年ものすごい冊数の「日本語の常識」やら「敬語の常識」やら日本語のマナーに関する本が出版され、それがものすごいイキオイで消費されている。

日本文学の人気は衰退の一途をたどっているように見えるのに、日本語学はいつまでも元気そうだ。
日本語学者は今日も元気に「日本語の常識」の本を書く。「敬語」の本を書く。
複雑な「敬語」のしくみをカンタンに説明できるようになれば、それだけで何冊もベストセラーが書ける。

それってすごいことだ。

もし、これを読んでいる高校生で将来、文系の研究者になりたいと思う文系の人がいるなら、わたしは日本語学か国語教育をおすすめする。
(もちろん、これはただのアイロニーですよ。本気にしないように!…といいつつ、わたしは国語教育専攻なんだけど)

ともかく日本ってこんなに異常な国なのである。

「敬語」の呪縛から離れた人たちも、やっぱり自分の言語に執着する。
近代主義的な言語、すなわち、論理的(科学的)言語だ。
「その言葉の定義はなに?」「その話の展開は論理的じゃない」
…というセリフを日常会話の中でふつーに発する、多くの青年たち。

わたしの師匠T先生とそのまた師匠M先生は、国語教育の目的を「言語批評意識の形成」、すなわち、自らが用いる言語に対する批評的な意識の形成に求めているけれど、だとしたら、見事、わたしの師匠とそのまた師匠の国語教育の目的の半分は達せられたわけだ。
もはや狂気に近いほど日本人は自分の言語に執着してるよ。
何冊も本を買って、自分の話す言語を勉強しようとしてるよ。
めでたいね。

ただ、執着しすぎてるんだよね。依存しすぎてる。
もうほとんど、宗教的カリスマにべったり依存した信者のような状態だ。
「日本語の常識」=教義。「敬語」=聖典の御言葉。
それを拒否する者たちは、近代論理学を自分の教義におきかえる。
結局、自分が頼ることのできる、倒れない大きな柱を求めて右往左往しているだけだ。

そんな依存状態から離れること。それがもう半分の目標なんだと思う。
そう。どんな教義から距離をとって、自分自身の足で立って、ほんとうの自分自身の言葉で「批評」することだ。

だけど、そのもう半分の目標に誰も気付いてない。

みんな、大いなる教義が大好きだ。
それが日本という国家であれ、近代西洋であれ、自分を支えてくれる大きな柱が大好きなのだ。

みんなで共有できる、みんなでわかりあえる安全な場所をみんなが求めてる。
だって、「一人一人がバラバラな言葉を話したら、みんなわかりあえなくなっちゃうじゃない?」
…それが、そういう人たちからの意見としてだされる。

そんな、あなたたちに、わたしから言えることはただ一つだ。

「あなたは、すてきなユートピアにすんでいらっしゃるんですね。
だけど、本当に人間って、もともと、そんなにお互いに「わかりあってる」ものなんでしょうか?「わかりあってる」なんて幻想を抱いて人を傷つけるよりも、「わかっていない」ことを前提として、「わかりあおう」と努力する方が生産的ではないですか?」

…と、ここまで書いてきて何がいいたいかというと、
『使えないと恥ずかしい敬語200』という本を買った、というただそれだけの話なんですけどね。