サーカスな日々

サーカスが好きだ。舞台もそうだが、楽屋裏の真剣な喧騒が好きだ。日常もまたサーカスでありその楽屋裏もまことに興味深い。

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mini review 07257「善き人のためのソナタ」★★★★★★★★☆☆

2007年09月20日 | 座布団シネマ:や・ら・わ行
ベルリンの壁崩壊直前の東ドイツを舞台に、強固な共産主義体制の中枢を担っていたシュタージの実態を暴き、彼らに翻ろうされた芸術家たちの苦悩を浮き彫りにした話題作。監督フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルクが歴史学者や目撃者への取材を経て作品を完成。アカデミー賞外国語映画賞ドイツ代表作品としても注目を集めている。恐るべき真実を見つめた歴史ドラマとして、珠玉のヒューマンストーリーとして楽しめる。[もっと詳しく]

「権力と倫理」。僕たちはまだ、その不幸を免れえない世界史の中にいる。

監督・脚本は、フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルクという舌をかみそうな長ったらしい名前である。
資料によれば、本名はフロリアン・マリア・ゲオルク・クリスティアン・グラーフ・ヘンケル・フォン・ドナースマルクと、もっと長い。
ケルン生まれで身長が206cmの大男だが、貴族の末裔である。
経歴が興味深い。航空会社に勤める父親に連れられて、ニューヨーク、ベルリン、フランクフルト、アム・マイン、ブリュッセルで少年期を過ごし、大学にも一番で入った。
ロシアでロシア語を2年間学んだあと、ロシア語教師を経て、オックスフォード大学で哲学・政治学・国民経済学を学ぶ。
そして、リャード・アッテンボローに師事。動物学者で名高いアッテンボローの長兄である。映画「ガンジー」(82年)で、アカデミー賞監督賞も受賞している。
彼の影響だろうか、その後、有名なミュンヘン映像映画大学(HFF)に入り、初の長編であり卒業終了作品にあたるのが「善き人のためのソナタ」である。脚本のためのリサーチに数年をかけたと言う。
世界で38の映画賞に輝き、2006年のアカデミー賞最優秀外国語作品賞でオスカーを得た。



当時33歳、映画界では無名の人間の卒業作品である。
当然、予算も少なかったが、その脚本に魅かれて3人の実力のある役者が集まった。
東ドイツの秘密警察シュタージに属するヴィースラー大尉(ウルリッヒ・ミューエ)。残念なことに、アカデミー賞受賞直後から入院・手術をしたが、先日胃がんで帰らぬ人となった。まだ54歳の若さであった。
劇作家ドライマン(セバスチャン・コッホ)。バーホーベン監督の最新作「ブラックブック」では、ナチスの諜報部将校の役を演じている、2枚目である。
舞台女優クリスタ(マルティナ・ゲデック)。最近、ハリウッドでリメイクされたが、僕の大好きな「マーサの幸せレシピ」のマーサ役である。
もうひとり忘れてならないのが、この作品は「この曲を本気で聴いたものは、悪人にはなれない」というコピーで宣伝されたが、その音楽を提供しているガブリエル・ヤレドである。
ヤレドはレバノン出身のフランスの作曲家。映画のスコアはゴダールの「勝手に逃げろ」(79年)からである。
ジャン=ジャック・ベネックスの「溝の中の月」(83年)「ベティ・ブルー」(86年)などで注目を集め、ミンゲラ監督とアカデミー作曲賞を受賞した「イングリッシュ・ペイメント」をはじめ「リプリー」「コールドマウンテン」などでタッグを組んでいる。日本人にもなじみの深い作品でいえば、周防監督のハリウッドリメイク版「Shall We Dance?」(04年)の音楽監督も彼である。



東ドイツにシュタージ(秘密警察)が発足したのは、1947年のことであり、徹底した監視制度と密告制度で、共産党政権を維持したのである。
シュタージには4000人以上の職員がいて、各国に数千人のエージェントを擁していた。
「首から上は共産党員、首から下はゲシュタポやSD(ナチス親衛隊)」と国民からは揶揄されていたらしい。
この作品でも、1989年ベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦が終了した後、クリスタを喪ったドライマンが、情報公開の流れの中で、自分の冷戦時代のファイルを調べに行くシーンがある。
明らかになったエージェント(つまりスパイ)の数は10万人、暗号で書かれた文書リストは実に9億件に上るといわれる。
官僚とはどこの国でもひたすら文書化するものである。
映画でも、ドライマンとクリスタを盗聴するヴィースラーが几帳面に毎日、記録を綴っている姿が、描かれている。





冷戦時代の盗聴や監視・密告による記録を、本人公開する事はもちろん大切なことである。
しかし、10万人のエージェントということは、国家が「アメと鞭によって」実はそれだけの密告網を築き上げたということである。
スターリン支配下のロシアでも、その支配構造をまねた東欧の共産圏国家でも、どこも息の詰まる監視国家であった。
特高警察の日本でも似たようなものであったし、文化大革命の中国でも、密告がおそろしくて、なるべく身を小さくして時代をやり過ごした人が多かった。
フセイン時代のイラクも一部はそうであったかもしれない。もちろん、現在の北朝鮮でも、恐怖政治の秘密は、監視と密告である。
自分の隣人や友人や家族が、出世のため、生き延びるため、進んであるいは脅されて、密告者となったのである。自分の記録を調べるということは、そうした「パンドラの箱」を開けることである。冷戦が終わり、まだ20年もたっていない。こうした傷が、1、2世代で、癒えるわけがないと思う。



この映画の主題は「権力と倫理」である。
主人公のヴィースラーは、とても真面目で有能な官吏だ。職務に忠実であることが、愛国心となり、自尊心となっている。
普通は権力の中枢にいる者たちは、常に保身を考え、点数を稼ぎ、ライバルを失脚させることばかり考えているといってもいい。また、その地位に乗じて、金品を横流ししたり、不正に蓄財したり、女をものにしたりもしただろう。この映画のヘンブラ大臣のように。
しかし、多くは、真面目な官吏であり、日常は自分もいつ策略の対象になるかも知れぬことを怖れる小市民である。

このことはとても重要なことだ。
権力とはシステムであり、本当は一人ひとりの、機能ではない。
だからもし、権力に抵抗するレジスタントがいたとして、そのレジスタントが革命の中で、「敵」として眼前している相手を無差別に殺してもいいというものではない。そこには「正義」はない。
けれど、直接的な抑圧に対し、武器を取って対峙することが不可避になる局面がある。その局面では暴力も行使することがある。それは、大所であれ、局所であれ、「戦争」というものの絶対性だ。



ガンジーのような<絶対非暴力>という選択肢もありうるかもしれない。
しかし、ここで、問題になるのは、その場面に遭遇した一人ひとりの個人の思想であり、倫理である。
ヴィースラーの訊問により、結果として、殺害されたり、拘留されたりした市民もいただろう。
ベルリンの壁を突破しようとして、銃殺された市民だけで、1200人を数えている。
ヴィースラーを「戦犯」あるいは「犯罪者」とすることだって、出来なくはない。
一方で、ヴィースラーは、「善き人」でもあった。
この矛盾は、世界が国家に分かち、その内と外に対立がある限り、その調停が政治の枠組みを超えるや否や、露出してくるのだ。
僕たちは、いまだ、そんな世界史の中にいる。それはとても苦痛なことだ。



冷戦終了後、ドライマンが書いた本がベストセラーとなり、書店には大きなポスターが飾られている。
郵便配達人をしながら、貧しく静かに日々をおくるヴィースラー。
ある日、書店でその本に気づき、購入する。
本を開く。扉に暗号によって、ヴィースラーへの謝辞が書かれている。
本の題名は「善き人のためのソナタ」。
生き延びたドライマンが、ヴィースラーの秘密と行動を知り、そっと彼のために綴った小説である。
ヴィースラーは小説を読む。
長い長い自分の中の冷戦。
後悔してもしきれない「権力」と「倫理」。
盗聴器から聴こえた心をしめつけるようなソナタの音色。
盗み見たブレヒトの甘美な言葉。
人目を避けるように冷戦後を生きるヴィースラーには、たぶん、家族も友人もいない。
けれど、自分のことを、理解してくれる人がいた・・・。

この時、ヴィースラー、ドライマン、クリスタの冷戦時代は、やっと、終結したのである。



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54 コメント

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TBありがとうございましたm(__)m (mezzotint)
2007-09-25 09:54:39
kimion20002000さん
いつもTBありがとうございます。
訃報です。ヴィースラー役の
ウルリッヒ・ミューエ氏が
7月に亡くなられました。
胃がんだったそうです。
54歳という若さでした。残念です。
Unknown (パリは恋人)
2007-09-25 13:19:32
はじめまして!
TBありがとうございました。

監督203cmって!(そこに食いつくか?ですが・・)
映画学校の卒業制作でアカデミー賞取ったら、あとどうするんでしょうね?すごい才能です。

主演の俳優さんも亡くなりましたが、壮絶な人生だったようですね。本当にヒドイ時代だったのですね。

確かに権力と倫理の映画ですが、私は孤独な男の純愛も感じました。
mezzotintさん (kimion20002000)
2007-09-25 15:52:55
こんにちは。
彼は、東ドイツの俳優で、まさにこの映画のように、監視されていた側だったようですね。本人は、否定していますが、当時、結婚していた女優さんが、密告したとか、騒がれていたようです。
印象深い俳優さんでしたが、惜しいことです。
パリは恋人さん (kimion20002000)
2007-09-25 15:55:07
こんにちは。
HFFなんかは、普通の映画学校じゃないですからね。
世界中から、すごい才能が集る、大学院みたいな感じらしいですね。
TB有難うございます (まろ)
2007-09-25 19:47:20
TB有難うございました。随分詳しい解説大変に参考になりました。
 もう一度レンタルしてみようかなと思っています。
 忠誠心の塊であった彼の心の中にほころびが生まれる瞬間、キッカケは何なのか?それを確かめたいと思っています。
 それにしても、国家が独占する「正義」というものはなんとも厄介なものですね。
まろさん (kimion20002000)
2007-09-25 20:01:01
こんにちは。
先日、残念なことになくなられましたが、この主役の男性の演技力、表情の変化には、驚かせられました。いい俳優さんです。
いい映画でしたね (一人虫)
2007-09-25 22:48:31
kimion20002000さん、TBありがとうございました。

これは、本当にいい映画でした。ただただ「いい映画だ」と言えるような作品は、そうそう無いと思うんですが、掛け値なしで良かった。
ラストシーン。自分でも意外なくらいに涙がぽろぽろ、ぽろぽろ流れ出して、大変困ってしまいました。
私はかなり映画には涙もろくて、かなりの確率で泣きが入るんですが、それでもこんな静かなラストシーンでイッテまう!というのは珍しい現象でした。
その余韻が尾を引いて、しばらく涙をこらえるのが大変でしたね。
涙腺が詰まり気味の人には、最高の作品だと思います。
一人虫さん (kimion20002000)
2007-09-25 23:42:14
こんにちは。
でも、こういう映画で泣かせられるって、気持いいじゃないですか。もう、邦画の、ほらここで、泣くんだよ、みたいなベタ映画は、馬鹿野郎!って思っちゃいますけどね(笑)
ブラボー!! (latifa)
2007-09-26 10:07:26
kimionさん、こんにちは。
今年見た映画の中でも、感動のラストベスト3に入る映画でした。もしやベスト1かも・・・。

こちらで、監督さんの経歴とか拝見させて頂いて、お勉強になりました。
>ケルン生まれで身長が206cmの大男だが、貴族の末裔で~~
 監督さん自身も、一般人ばなれした少々特異な方の様ですね。
latifaさん (kimion20002000)
2007-09-26 14:20:04
こんにちは。
206cmの秀才で、貴族の末裔というのがいいじゃないですか。単純な社会派歴史物でもないですよね。
こういう映画は、まだアジアの監督たちは、弱いですね。

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