
アカデミー賞で脚本賞にノミネートされたほか、各映画賞を席巻したヒューマンドラマ。作家同士の両親の離婚を機に、父と母の家を往復する生活を余儀なくされる兄弟の心情をつづる。監督は『ライフ・アクアティック』の脚本家ノア・バームバック。出演は『グッドナイト&グッドラック』のジェフ・ダニエルズ、『ミスティック・リバー』のローラ・リニーら。シリアスな状況を独特のユーモアでくるんだ監督の語り口と、実力派キャストによる繊細(せんさい)な名演が見どころ。[もっと詳しく]
このインテリの不完全家族の駄目さ加減に、多くの人たちが思い当たる節があったのかもしれない。
ニューヨークはブルックリン・パークスロープ。
ウディ・アレンの饒舌が聴こえてきそうな街だ。
作家やら、大学教授やら、映画関係者やら、そうしたインテリ臭が、漂う街。
中流の上かもしれない。あちらこちらで、今日も、愛を確認するためにいがみ合い、牽制し合い、宥め合い、そして抱き合う。
いたるところに、精神科医が待ち構えている。そして、カウンセリングを受ける自分自身が、滑稽であるにもかかわらず、上等なもののように錯覚する。
お洒落であり、スノッブな街。ロマンチックでありながら、冷え冷えとした街。
病理がいたるところに蔓延し、巣を張っている。
人々は忙しく日常を突き抜けながら、TPOにあわせて、自分をカメレオンのように擬態し、笑いながら、泣きながら、また、明日を迎えることになる。

たぶんとてつもなく低額の予算で、この作品は作られた。撮影に許されたのは、わずか23日間だ。ノア・バームバックは若手のさほど実績のない監督だ。
にもかかわらず、実力派のキャストとスタッフが結集した。なぜか?
一様に彼らは、口を揃える。脚本が、とてもよかったんだ、と。
この年の映画賞の脚本部門を独占する勢いであり、アカデミー賞にも当然のように、脚本部門にノミネートされた。
父親であるバーナード(ジェフ・ダニエルズ)は文筆家である。
難解な文章で若いときに賛美されたようだが、最近では出版社にも見放され、大学の講師で生計を立てている。
一方、母親であるジェーン(ローラ・リニー)は、新進の物書きとして、ニューヨーカー誌などに採用されている売れっ子だ。
兄ウォルトは16歳。弟フランクは12歳。
ある日、「家族会議だ!」と父親に招集され、両親は離婚すること、地下鉄数個離れたところに別居し、子供は平等に二つの家を決められた曜日に移動すること、が告げられた。
「猫はどうするの?」
そんなことさえ、熟慮はしていない。子供にとってみれば、晴天の霹靂のような決定事項が、告知されただけである。

この両親の人物像は、相当辛らつに、脚本を担当したノア監督によって、描かれている。
シリアスで、でもどこかコメディタッチで、この二人は協調性のない意固地な、頑固者のように描かれている。
バーナードは、インテリであることを鼻にかけている。
一家の中では、権力的にふるまおうという癖が抜けない。
他者は辛辣に批判したり馬鹿にしたりできるのだが、自分のことになるとなんでも、都合のよいように解釈してしまう。
ディケンズの「二都物語」の話題になると、「ありゃ、駄目だ。ディケンズなら『大いなる遺産』じゃなきゃ」と言い放ち、フランクが好きなテニスコーチのアイヴィンに対しても「本も映画も見ないような俗物だ」というようにこき下ろす。
家族で映画を見に行くにも、決して家族で見るような映画ではないD・リンチの「ブルーベルベット」なんかを自分勝手に選んでしまう。
教え子のリリーに対しても、息子と対して年は違わないのに、すぐ色目を使ってしまう。

一方ジェーンは、男友だちとの付き合いを、夫に知られているにもかかわらず、やめようとはしない。
偽悪的ということではなく、過去の男性遍歴を子供にまで話すことが、自分をオープンにすること、隠し立てをしないこと、つまりは「自分に正直であること」が、ひたすら善であり、作家になったのと同じく、自分は自立したんだといったように、どこか勘違いしている節がある。
子どもにはちゃんと愛情はあるのだ。だけど、平気で、長男にはチキン(弱虫)君、次男にはピクルー(いたずらっ子)君などと呼んで、ひとり悦に入っているところがある。
長男のウォルトは、父親を崇拝している。自分も、父親のようにインテリなんだ、と思い込もうとするが、努力家ではない。それで、ピンク・フロイドの「HeyYou」の譜面を写して、自作だと偽って学校の発表会で賞をとったり、読んでもいないくせに、女の子にもてるために、フィッツジェラルドやカフカやゴダールの名前や作品を、口に出してみたりする。
女の子が「変身」を読んだわ、というと、「ああ、あの作品はカフカ的だね」といい、「だって、カフカでしょ」と、漫画のようなやり取りとなる。
本当は、チキンで、自分を大きく見せたいだけかもしれない。

次男のフランクは、早熟な性を持て余している。
より、空想的で耽美的で、しかし学校などでは問題児になっていく。
彼も、ピクルーで、自分に関心を持ってほしいだけなのかもしれない。
ノア監督は、自らがブルックリンで育ち、父も母も評論家つまり物書きであった。だから、ほとんど自伝とでもいえる作品で、自分の高校時代のエピソードを想起するために、この物語の設定も1986年のブルックリンとしている。
鼻持ちならない両親と、その嫌味なところを受け継いだかのようなふたりの子供。
どこからみても、不完全家族なのだが、そのことは、多かれ少なかれ、インテリ家族の常態のようなところがある。
そのことの率直さ、そして、手持ちカメラを使いながら、どこか、浮遊するような生活実感のないこの家族に対して、同じく似たようなインテリ家族を営んでいるであろう業界人たちは、自分のことのように、リアリティを覚えたのかもしれない。
二人で子どもを別々に育てること。このことに「共同監護」という聞き慣れない翻訳が充てられていた。
「共同監護」か、と僕は考え込んだ。
僕が、離婚したとき、子どもは幼稚園に通っていた。
この映画のように、数駅の近さで、行ったり来たりということではなく、東京と1時間ぐらい離れたある海沿いの町に別れ、月に1、2度の週末、間の駅で、子どもを引き取り、また、週明けに間の駅に連れて行った。
子どもが自分で電車に乗り降りできるようになると、こっちに来るのは、子どもの好きなときにどうぞとなり、大学は結局、こちらを下宿代わりにし、現在は、子どもは自活しながら、二つの家に時々、立ち寄っている。
ある時期、「共同監護」といえば、少しだけ、そういうところもあった。
この映画の家族とはまるで異なっているが、一応、インテリという嫌な言葉でくくれば、そういうところもあった家族であった。
幼稚園の子どもを呼んで、3人で顔を向き合わして、お父さんとお母さんは離婚すること、だけど、君にとって、お父さんであり、お母さんであり、ということは変わらないからね、と話した。この映画のように。
子どもは、「嫌だ!」と言って、少し、泣き出しそうになった。この映画のフランクのように。
そして、親の都合で、二箇所を行き来しているときは、なんだか、こちらのご機嫌をとっているかのようだった。この映画の兄弟のように。
そして、20年が経過した。
いまでも、子どもには、申し訳ないことをしたなあ、という気持が消えることはない。

この作品では、ウォルトは父に、フランクは母に、べったりする。親の目論見としては、二人揃って、移動するということであったのだが・・・、別々にそれぞれの家にいついている。
本当は、弟のフランクの方が、母親に言わせれば、「あなたは父親似なのよ」とあっさり言われてしまっている。
また、兄のウオルトは、母の男性関係が許せずに、ひどい悪態をついてしまう。
でも、あるとき、思い出すのだ。6歳のときだった。母親にロビンフッドを読んでもらっていて、それがすごく幸福だったこと、を。母親と行った自然史博物館で、巨大イカとクジラのジオラマが怖くて怖くて、チキンなウォルトは母親にしがみつきながら、指の間から、おそるおそる覗いていたことを。
子どもたちは、無意識に、それぞれのどうしようもない両親を役割分担して、「共同監護」していたのだ。
巨大イカとクジラの格闘するジオラマ。それは、来るべき、自意識が肥大化した父と母の、軋轢を予感していたのかもしれない。
子どもは、たぶん、なんだってわかっているものなのだ。
このインテリの不完全家族の駄目さ加減に、多くの人たちが思い当たる節があったのかもしれない。
ニューヨークはブルックリン・パークスロープ。
ウディ・アレンの饒舌が聴こえてきそうな街だ。
作家やら、大学教授やら、映画関係者やら、そうしたインテリ臭が、漂う街。
中流の上かもしれない。あちらこちらで、今日も、愛を確認するためにいがみ合い、牽制し合い、宥め合い、そして抱き合う。
いたるところに、精神科医が待ち構えている。そして、カウンセリングを受ける自分自身が、滑稽であるにもかかわらず、上等なもののように錯覚する。
お洒落であり、スノッブな街。ロマンチックでありながら、冷え冷えとした街。
病理がいたるところに蔓延し、巣を張っている。
人々は忙しく日常を突き抜けながら、TPOにあわせて、自分をカメレオンのように擬態し、笑いながら、泣きながら、また、明日を迎えることになる。

たぶんとてつもなく低額の予算で、この作品は作られた。撮影に許されたのは、わずか23日間だ。ノア・バームバックは若手のさほど実績のない監督だ。
にもかかわらず、実力派のキャストとスタッフが結集した。なぜか?
一様に彼らは、口を揃える。脚本が、とてもよかったんだ、と。
この年の映画賞の脚本部門を独占する勢いであり、アカデミー賞にも当然のように、脚本部門にノミネートされた。
父親であるバーナード(ジェフ・ダニエルズ)は文筆家である。
難解な文章で若いときに賛美されたようだが、最近では出版社にも見放され、大学の講師で生計を立てている。
一方、母親であるジェーン(ローラ・リニー)は、新進の物書きとして、ニューヨーカー誌などに採用されている売れっ子だ。
兄ウォルトは16歳。弟フランクは12歳。
ある日、「家族会議だ!」と父親に招集され、両親は離婚すること、地下鉄数個離れたところに別居し、子供は平等に二つの家を決められた曜日に移動すること、が告げられた。
「猫はどうするの?」
そんなことさえ、熟慮はしていない。子供にとってみれば、晴天の霹靂のような決定事項が、告知されただけである。

この両親の人物像は、相当辛らつに、脚本を担当したノア監督によって、描かれている。
シリアスで、でもどこかコメディタッチで、この二人は協調性のない意固地な、頑固者のように描かれている。
バーナードは、インテリであることを鼻にかけている。
一家の中では、権力的にふるまおうという癖が抜けない。
他者は辛辣に批判したり馬鹿にしたりできるのだが、自分のことになるとなんでも、都合のよいように解釈してしまう。
ディケンズの「二都物語」の話題になると、「ありゃ、駄目だ。ディケンズなら『大いなる遺産』じゃなきゃ」と言い放ち、フランクが好きなテニスコーチのアイヴィンに対しても「本も映画も見ないような俗物だ」というようにこき下ろす。
家族で映画を見に行くにも、決して家族で見るような映画ではないD・リンチの「ブルーベルベット」なんかを自分勝手に選んでしまう。
教え子のリリーに対しても、息子と対して年は違わないのに、すぐ色目を使ってしまう。

一方ジェーンは、男友だちとの付き合いを、夫に知られているにもかかわらず、やめようとはしない。
偽悪的ということではなく、過去の男性遍歴を子供にまで話すことが、自分をオープンにすること、隠し立てをしないこと、つまりは「自分に正直であること」が、ひたすら善であり、作家になったのと同じく、自分は自立したんだといったように、どこか勘違いしている節がある。
子どもにはちゃんと愛情はあるのだ。だけど、平気で、長男にはチキン(弱虫)君、次男にはピクルー(いたずらっ子)君などと呼んで、ひとり悦に入っているところがある。
長男のウォルトは、父親を崇拝している。自分も、父親のようにインテリなんだ、と思い込もうとするが、努力家ではない。それで、ピンク・フロイドの「HeyYou」の譜面を写して、自作だと偽って学校の発表会で賞をとったり、読んでもいないくせに、女の子にもてるために、フィッツジェラルドやカフカやゴダールの名前や作品を、口に出してみたりする。
女の子が「変身」を読んだわ、というと、「ああ、あの作品はカフカ的だね」といい、「だって、カフカでしょ」と、漫画のようなやり取りとなる。
本当は、チキンで、自分を大きく見せたいだけかもしれない。

次男のフランクは、早熟な性を持て余している。
より、空想的で耽美的で、しかし学校などでは問題児になっていく。
彼も、ピクルーで、自分に関心を持ってほしいだけなのかもしれない。
ノア監督は、自らがブルックリンで育ち、父も母も評論家つまり物書きであった。だから、ほとんど自伝とでもいえる作品で、自分の高校時代のエピソードを想起するために、この物語の設定も1986年のブルックリンとしている。
鼻持ちならない両親と、その嫌味なところを受け継いだかのようなふたりの子供。
どこからみても、不完全家族なのだが、そのことは、多かれ少なかれ、インテリ家族の常態のようなところがある。
そのことの率直さ、そして、手持ちカメラを使いながら、どこか、浮遊するような生活実感のないこの家族に対して、同じく似たようなインテリ家族を営んでいるであろう業界人たちは、自分のことのように、リアリティを覚えたのかもしれない。
二人で子どもを別々に育てること。このことに「共同監護」という聞き慣れない翻訳が充てられていた。
「共同監護」か、と僕は考え込んだ。
僕が、離婚したとき、子どもは幼稚園に通っていた。
この映画のように、数駅の近さで、行ったり来たりということではなく、東京と1時間ぐらい離れたある海沿いの町に別れ、月に1、2度の週末、間の駅で、子どもを引き取り、また、週明けに間の駅に連れて行った。
子どもが自分で電車に乗り降りできるようになると、こっちに来るのは、子どもの好きなときにどうぞとなり、大学は結局、こちらを下宿代わりにし、現在は、子どもは自活しながら、二つの家に時々、立ち寄っている。
ある時期、「共同監護」といえば、少しだけ、そういうところもあった。
この映画の家族とはまるで異なっているが、一応、インテリという嫌な言葉でくくれば、そういうところもあった家族であった。
幼稚園の子どもを呼んで、3人で顔を向き合わして、お父さんとお母さんは離婚すること、だけど、君にとって、お父さんであり、お母さんであり、ということは変わらないからね、と話した。この映画のように。
子どもは、「嫌だ!」と言って、少し、泣き出しそうになった。この映画のフランクのように。
そして、親の都合で、二箇所を行き来しているときは、なんだか、こちらのご機嫌をとっているかのようだった。この映画の兄弟のように。
そして、20年が経過した。
いまでも、子どもには、申し訳ないことをしたなあ、という気持が消えることはない。

この作品では、ウォルトは父に、フランクは母に、べったりする。親の目論見としては、二人揃って、移動するということであったのだが・・・、別々にそれぞれの家にいついている。
本当は、弟のフランクの方が、母親に言わせれば、「あなたは父親似なのよ」とあっさり言われてしまっている。
また、兄のウオルトは、母の男性関係が許せずに、ひどい悪態をついてしまう。
でも、あるとき、思い出すのだ。6歳のときだった。母親にロビンフッドを読んでもらっていて、それがすごく幸福だったこと、を。母親と行った自然史博物館で、巨大イカとクジラのジオラマが怖くて怖くて、チキンなウォルトは母親にしがみつきながら、指の間から、おそるおそる覗いていたことを。
子どもたちは、無意識に、それぞれのどうしようもない両親を役割分担して、「共同監護」していたのだ。
巨大イカとクジラの格闘するジオラマ。それは、来るべき、自意識が肥大化した父と母の、軋轢を予感していたのかもしれない。
子どもは、たぶん、なんだってわかっているものなのだ。
最新の画像[もっと見る]
-
東京駅復元/鈴木博之(建築史家)/68歳 7年前
-
405日目「小津安二郎の図像学(東京国立近代美術館フィルムセンター)」京橋 7年前
-
405日目「小津安二郎の図像学(東京国立近代美術館フィルムセンター)」京橋 7年前
-
403日目「ジョセフ・クーデルカ展(東京国立近代美術館)」竹橋 7年前
-
403日目「ジョセフ・クーデルカ展(東京国立近代美術館)」竹橋 7年前
-
403日目「ジョセフ・クーデルカ展(東京国立近代美術館)」竹橋 7年前
-
403日目「ジョセフ・クーデルカ展(東京国立近代美術館)」竹橋 7年前
-
403日目「ジョセフ・クーデルカ展(東京国立近代美術館)」竹橋 7年前
-
403日目「ジョセフ・クーデルカ展(東京国立近代美術館)」竹橋 7年前
-
403日目「ジョセフ・クーデルカ展(東京国立近代美術館)」竹橋 7年前
「座布団シネマ:あ行」カテゴリの最新記事
mini review 11548「アブラクサスの祭」★★★★★★☆☆☆☆
mini review 11542「悪魔を見た」★★★★★★★☆☆☆
mini review 11539「アウェイク」★★★★★★☆☆☆☆
mini review 11537「言えない秘密」★★★★★★☆☆☆☆
mini review 11536「ANPO」★★★★★★★★☆☆
mini review 11532「SR サイタマノラッパー2」★★★★★★★★☆☆
mini review 11516「イエロー・ハンカチーフ」★★★★★★☆☆☆☆
mini review 11515「インセプション」★★★★★★★★★☆
mini review 11514「アウトレイジ」★★★★★★☆☆☆☆
mini review 10513「息もできない」★★★★★★★★☆☆
辛いお子さまたちのお話でしたが、リアルな会話にひきこまれました!
子供は親の姿をみて育つ・・・
ひしひしと感じる映画でした。
しかもだいぶ前の記事に貼っていただき感謝感激です!
最後の最後であぁ~なるほど!んで「イカとクジラ」かぁって思いましたw
コトバのやり取りも最高に面白かったですよね♪
これからもよろしくお願いします。
DVDでは、かなり長く、監督のインタヴューがあり、興味深かったです。
なぜ、あのジオラマなのか、本当のところは、わかりませんけどね(笑)
これが20年も前のお話なのですから驚きです。
まるで今の話のように思えました。
そうですね、でも都市型のインテリ家族の崩壊は、ここ20、30年間、本質的には、変わっていないかもしれませんね。
それぞれのキャラクターが誇張されていますが、とくに父親のような人は実際多くいるように思います。
離婚しても、子供に責任を持ちたいという意欲は買いますが、これほど子供にとって迷惑な方法もないでしょう。
子供にとっても、家は安住の場所であるべきです。
現代の家族のひとつのモデルとして、興味深く見ました。
あのジオラマの意味、つい深読みしたくなります。
そうですね。
あの両親を見ていて、イヤだなあという気持ちと、いやいや自分にも似たような面があるぞ、という気持ちと半々でしたね(笑)
いかにもそのへんにありそうなリアルな感じが出ていましたが、自伝に近かったんですね。それを客観的に映画にするっていうのも結構つらかたったんじゃないかなあ、と思うといっそう興味をひかれます。
監督の両親が物書きで、離婚しており。
高校生のときといってましたから、あのお兄ちゃんのほうが、自分を投影させているのかもしれませんね。