【ミャンマー】30人の志士、最後の生き残りが死去
旧日本軍の特務機関「南機関」で軍事訓練を受け、その後のビルマ(現ミャンマー)独立に貢献した「30人の志士」と呼ばれるメンバーの最後の生き残りのボー・イエ―・トゥット氏が27日、ヤンゴンで死去した。91歳だった。
ミャンマー最大野党党首アウン・サン・スー・チー氏の父で「建国の父」とされるアウン・サン氏や、ネ・ウィン氏(両名とも後に将軍職)らを含むビルマの青年30人が1941年、日本と海南島で軍事訓練を受けたが、トゥット氏はこの1人。アウン・テインとも呼ばれている。
30人の志士は、ビルマ独立義勇軍を結成し、1942年に日本軍と協力して英国軍を一時インドへと追い出し、その後の独立(1948年)を導いた。
アジアの独立闘争に、日本が与えた影響に関しては、諸説さまざまある。
ミャンマーは当時ビルマと呼ばれていたが、そこで、アウン・サン・スーチーの父親であるアウン・サン氏ら30人が、日本の「南機関」によって訓練され、独立の礎を築いたことは有名な話だ。
日本にもそういう特務機関を動かす理由があった。
当時の日中戦争の中で、蒋介石政権と 戦っていたのだが、英米からの軍事援助を受けており、その物資ルートを断ち切る必要があり、そのひとつがビルマルートであった。しかし、日本軍はビルマに対して知識を持っておらず、調査する中で、イギリスのビルマ統治に抵抗する勢力であるタキン党などの存在を知り、その指導者を日本に亡命させ、そこから日本軍の関与を隠したまま、30人の独立志願兵を募り、台湾で武装訓練をしたのち、日本の南方軍なども支援し、1941年日本の兵士74名も加わり、100名を超える独立武装蜂起をしたのである。
ビルマ独立義勇軍(BIA)は、ビルマに侵攻し、蒋介石に対する補給ラインも断ち切り、日本軍がビルマ全域を制圧するのに大きな役割を果たした。
しかしながら、日本の南方軍は、ビルマ独立の約束を守らず、特務機関も解散させられた。
一部の人間はビルマ独立戦争に加担し、日本の軍規を逸脱することになった。
これは、映画にもなっている。
ミャンマーの経済自由化は急速にここ1、2年進んでいる。
ヤンゴンはじめ、日本の大企業も進出を次々と進め、また不動産価格の上昇などもあり、若い人たちの恰好の投資の場ともなっている。
先日、僕は40歳ぐらいの小金持ちが、いかにミャンマーの不動産投資がおいしいかという話をとくとくとしゃべっているのに、付き合わされた。
「南機関って知ってる?」とさりげなく聞くと、「なーにそれ?」って言われた。
「アウン・サン・スーチーさんのことは知ってるよ、先日安倍さんと仲良く握手していたおばさんでしょ」と言う。
それ以上の話をするのは、やめにした。
「30人の志士」の最後の生き残りが亡くなった。91歳。日本の「南機関」で訓練を受けたのは、1941年のことだから、まだ十代で志願したんだろう・・・合掌!
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