サーカスな日々

サーカスが好きだ。舞台もそうだが、楽屋裏の真剣な喧騒が好きだ。日常もまたサーカスでありその楽屋裏もまことに興味深い。

変遷/米田一典(元女子バレー代表監督)/61歳

2012年02月27日 | 毎日がメメント・モリ

松平氏に続き…元女子代表監督の米田一典氏が死去

スポニチアネックス 2月27日(月)7時1分配信

 バレーボール元女子日本代表監督の米田一典(よねだ・かずのり)氏が26日午後1時42分、肺がんのため仙台市内の病院で死去した。61歳だった。葬儀・告別式は近親者で行い、後日お別れの会を開く予定。広島・崇徳高から法大を経て、日立で指導者の道を歩み始め、故山田重雄監督の下でコーチを務めた76年モントリオール五輪は金メダル、84年ロサンゼルス五輪は銅メダル獲得にも貢献。代表監督だった92年バルセロナ五輪では5位入賞を果たしていた。

 昨年12月に元男子日本代表監督だった松平康隆氏(享年81)を失ったばかりのバレー界に、再び悲報が届いた。日本女子絶頂期の76年モントリオール五輪で金メダルを獲得したチームを指導した米田氏が61歳の若さで死去。肺がんとの闘病を続けた末に、26日、帰らぬ人となった。
米田さんとかそのボスであった山田監督とかの時代は、日本バレーは国内リーグで圧倒的に強かった日立のメンバーが、日本代表チームの大半を占める時代であった。
常勝日立をつくった一人が、米田監督だった。
それ以前の「東洋の魔女」時代、日ソが世界一を競っていたときは、日紡貝塚の単独チームみたいなものであり、1964年のオリンピック金メダルも大松監督率いる日紡貝塚チームである。

1976年モントリオール五輪金メダルは山田監督で、日立チーム。
しかしモスクワオリンピック不参加が響き、次は米田監督になったが、84年ロサンゼルス五輪では銅メダルに終わり、その後単独チーム編成は終わりを告げる。
その後のオリンピックでは、全日本バレーボール女子は、メダルから遠ざかっている。
「米田監督には訴えるものがない」と叛旗を翻したのは、お生意気な大林素子であった。

米田監督は日立監督に戻ったが、01年日立本体の合理化で廃部。その後、米田監督は、地域密着型のクラブ振興を目指し、NPO法人を立ち上げ、四国や仙台で地域型のクラブチームを立ち上げたりした。
もちろん、資金不足で苦しい経営であった。
繊維産業から、重厚長大メーカーへ、そして地域クラブへ。
バレーボールひとつをとっても、戦後の日本の流れと重なるものがある・・・合掌!
 

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