サーカスな日々

サーカスが好きだ。舞台もそうだが、楽屋裏の真剣な喧騒が好きだ。日常もまたサーカスでありその楽屋裏もまことに興味深い。

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mini review 09409「オーストラリア」★★★★★★☆☆☆☆

2009年10月19日 | 座布団シネマ:あ行

映画『ロミオ&ジュリエット』『ムーラン・ルージュ』のバズ・ラーマン監督が、壮大なオーストラリアの自然を舞台に描く運命的な愛の物語。主演は『ムーラン・ルージュ』に引き続きバズ監督作品参加となるニコール・キッドマンと映画『X-MEN:ファイナル ディシジョン』のヒュー・ジャックマン。広大なオーストラリア大陸のロケーションや、主要キャストをオーストラリア出身者で固めるなど、バズ監督のこだわりが随所に見ることができる。[もっと詳しく]

オーストラリア出身のキャスト・スタッフたちには、必然のテーマであったかもしれない。

小学生の時、僕は図鑑少年だった。
図書館にある図鑑を片っ端から食い入るように見ていたのだが、「動物図鑑」でもっとも飽きず見ていたのは、オーストラリア(タスマニア)地域にしか生存していない、有袋動物の数々であった。
なんとなく、昔地続きであったところが、海面水位が上昇して、この大陸(島)だけに、何世代にもわたって取り残された種目が、独自に進化を遂げたのだ、ということはぼんやり理解していた。
ダーウィンの進化論などを、勉強するのはもう少しあとだったように思う。
けれど、動物などの生物相が生存適合のために独自に進化を遂げるあるいは地理的条件などから進化を停止するのだとすれば、人間というのはどうなんだ?ということに思いを馳せたのはやはり中学生になって以降のことである。
その頃、この大陸(島)のアボリジニと称される、先住民族の長い長い歴史があったことを知ったのである。
そして、入植と言う意味では、1770年のスコットランド人のジェームズ・クック(なんだかクック船長を連想したりしていたのだが)以降だということも。
しかし、そのアボリジニの迫害の歴史や、大英帝国はこの地をもともとは「流刑植民地」と位置づけていたこと(初期移民団の70%が犯罪者であり、残りも貧困層)などを学ぶのは、高校から大学にかけての、まあ一般的な教養知識の一環として、表面的に知ったに過ぎない。



アボリジニの豊かで独自な文化に関して関心を持ったのは、レヴィ・ストロースなどの文化人類学者などの書物を読み漁った頃かもしれない。
それは、世界各国にある先住民族や滅ぼされた古代民族や古層の伝承、説話、神話などに関心を持った頃であったろう。
関心の一方は『ムー』などを密かに定期購読しながら、古代民族や幻の大陸や文明の起源やといった「トンデモ学説」を含めた領域に傾いていった。
関心のもう一方は、さまざまな探検記や旅行記や博物誌、民族学や文化人類学、考古学、神話学、記号構造学、侵略史といった領域に向かっていった。
それは同じように日本という国土をとってみれば、日本人はどこから来たのかという悠久の課題とともに、アイヌや南方住民の原型としての古層や、縄文期の思ったより豊穣な文化的諸相の掘り起こしに、向かうことになる。



そのなかでもとてもその研究に魅かれた学者が、民族音楽学者の小泉文夫さんであった。
小泉さんは東大在学中から日本音楽学に関心をもたれていたが、大学院に在籍しながら平凡社に勤めだした頃から、邦楽から東南アジア、中近東、アフリカの伝統(民族)音楽に関心を広げ、インド留学以降30年にわたって世界の民族音楽の収集、研究、紹介につとめた。
それは小泉文夫監修の膨大な「CD民族音楽集」でも触れることが出来るし、東大の小泉文夫記念資料館でこれまた膨大な収集物(民族楽器など)の一端に触れることも出来る。
とても残念なことだが、1986年56歳の若さで(いまの僕と同じ年齢だが)、帰らぬ人となってしまったのだが。
もちろん、小泉さんは西洋クラシック音楽にも造詣は深かったが、日本の雅楽や民謡やわらべ歌やというもののなかにある独特の音階を指摘されていた。



もちろん、これは五線譜という「定型」のなかで、音楽を聴いたり楽器を触っていたりしていた僕たちの「音楽観」を根本的に転倒させてくれたのだ。
琉球であり、韓国であり、太平洋の諸島であり、インド・中近東であり、ヨーロッパの古層であり、アフリカであり、エスキモーであり、モンゴルであり・・・世界の民族音楽の「音階」はもっともっと複雑であり、12音階ではとてもとても表現できないような微細な音階が存在しているのだ。
そしてなにより、「音楽」が発生する場、そこで即興で歌われる歌詞やシャーマニズム的な舞踊や集団的なコミュニケーションや言語の発生に似たアニミズム的な発語や・・・といったものの豊穣さに圧倒されたのである。
極論すれば、「西洋音楽」からはじまる僕たちが受けてきた音楽教育そのものが、(西洋近代音楽の深さや精神性や緻密さといったものの感動は別として)、僕たちを「音楽」に対して鈍感にさせてきたあるいは天賦の能力を奪ってきた「元凶」ではあるまいかと、思ったのである。



なぜ、こんな話から入ってしまったかといえば『オーストラリア』という映画の主人公は誰なのか、あるいは主題はなにかということに引っかかったからだ。
主人公は、夫の死のためにやむを得ずオーストラリアに足を踏み入れた上流階級のサラ・アシュレイ夫人(ニコール・キッドマン)なのか、ドローヴァー(牛追い)と呼ばれ先住の民族の女と結婚したために、疎外され意固地に唯我主義を貫くことになった男(ヒュー・ジャックマン)なのか、あるいは絶滅寸前で現在では保護の対象となっているアボリジニの長老であるキング・ジョーンズ(ディヴィッド・ガルビリル)なのか、白人とアボリジニのハーフ・カースト(混血児)としての生を受け、第2次世界大戦当時のオーストラリアでは強制的に収容対象となった「盗まれた世代」ともよばれるナラ少年(ブランドン・ウォルターズ)なのか・・・。
あるいは主題は、大牧場主キング・カーニー(ブライアン・ブラウン)や彼に取り入り暗い野心を抱く管理人フレッチャー(デヴィッド・ウェナム)に代表されるような、統治国(イギリス)とは遠く離れたこの大陸で、独特の植民地主義政策下の現地権力の横暴に一泡吹かせたサラ+ドローヴァーらの痛快な1500頭の牛の大移動作戦なのか、日本軍がまさに攻め入ろうとする太平洋戦争下の緊迫したオーストラリア状況なのか、雨季には「エデンの園」とも呼ばれる美しいオーストラリアの大自然を背景にして、徐々に紡ぎ出されるサラとドローヴァーの愛の変容の物語なのか、あるいは白豪主義の中で、スポーツハンティングのような原住民狩りが横行し、保護政策という名での先住民虐待、強制囲い込みなどの「植民地」政策が約200年にわたり続けられ、そのなかでキング・ジョーンズやナラ少年を通じて、その理不尽さを糾弾したかったのか・・・。



僕には、この作品の主人公であり主題は、アボリジニの末裔たちがまだ保存しているであろう、自然との交信能力であり、とくにその「音楽」ではないかと思われるのだ。
キング・ジョーンズとナラは祖父と孫という関係であるから、かれらが日常は離れて暮らしていたとしても、独自の言語や節回しや歌や音律でもって、互いに豊穣なコミュニケーション回路を持っていることは、すぐ了解できる。
もちろん、すべての自然が精霊的な意味を持ち、言葉も音楽も身振りも、その意味するものの共通了解から来ている。これは独自民族のということより、移住の白人たちには、すでにほとんど喪失してしまった能力(感受性)である。



混血児であるナラは、そうしたコミュニケーション能力を身体に保存しながら、西欧近代との架橋役ともなっている。
チームの酔いどれの老会計士が持っていたハーモニカを、ナラは手にして吹いてみる。
あるいは、サラによって、ミュージカル映画を見せられ、夢中になる。
ジュディ・ガーランド主演の『オズの魔法使い』、ナラが好きだったのその主題歌の「虹の彼方に」であったか。
ここでは、ナラとサラたちの間に、西洋音楽が介在している。
それは、文明が、すでに白人の側に移っていたから、仕方がないことだ。
けれども、本当は、この「博愛」心をもったサラやドローヴァーがもう少し、この大地と自然に踏み込めば、キング・ジョーンズやナラのアボリジニの「音楽」を、その「音楽」の背景にある豊かなコミュニケーション能力を、媒介にすべく学ぶかもしれない。



『ムーラン・ルージュ』のバズ・ラーマン監督は、この作品のほとんどのキャスト・スタッフをオーストラリア出身者あるいはアボリジニの末裔たちで構成した。
そのスタッフ・キャストたちは、アメリカだってそうなのだが、たかが200年ぐらいの歴史しか、有してはいない。
そして、もとはといえば、「流刑植民地」として、イギリス本土からは差別された存在としての先祖からの系譜を引き摺っていると見做せなくもない。
その彼らが、世界で6番目に大きい大陸であり、この日本にとっても最大の輸出国のひとつであり、観光旅行先としてもとても人気のある国であり、スポーツや産業的にも欠くべからざる先進大国であるということを踏まえたとしても、どこかで持っているオーストラリアの歴史に対する、再検証の無意識があるように思われる。
その際に、オーストラリアを語る上で、アボリジニが持っている豊かさを繰み込むことは不可欠であった。



先住民族に対する一定の権利保護は1990年代からだが、本当のところ、ケビン・ラッド首相によって、先住民族アボリジニに対する権利の回復と謝罪が、明確になされたのは、2008年のことである。
しかし、現在でも、ある調査によればオーストラリア人の10人に一人は人種差別主義者であり、2005年には人種差別に端を発する暴動が起こってもいる。
そうした中で『オーストラリア』という映画は、一見すると、この時点で妊娠中でもあったニコール・キッドマンと「世界でもっともセクシーな男」にあげられたこともあるヒュー・ジャクソンを起用した大河歴史ロマン大作であるのだが、オーストラリア出身の映画人たちにとっては、作品化する必然は充分過ぎるほどある映画であったのだろう。





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6 コメント

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お久しぶりです・・・ (小米花)
2009-10-20 23:20:34
TBありがとうございました。
書き込みは久しぶりです・・・。

アボリジニ人への知識は中学生のころから
おありだったのですね。
多分私は同世代なのですが、恥ずかしいことに
シドニーオリンピックまで、先住民の事に思いを
馳せることをしませんでした。

「裸足の1500マイル」で子供たちの強制隔離を知ったというくらいで、本当にオーストラリアには関心がなかったのです。

映画で、いろいろなシーンを見せてもらうことで知った事が多いのです。
小米花さん (kimion20002000)
2009-10-21 00:41:51
こんにちは。

アボリジニという先住民族がいたっていうことだけで、その頃は、インディアンと同じように虐殺されたんだろうなぁという程度です。

「裸足の1500マイル」は、ドキュメント以外で、まともにアボリジニをテーマにしたはじめての作品じゃないでしょうかね。
TBありがとうございました。 (sakurai)
2009-10-21 08:15:09
今は、マルチカルチュアリズムが売りの国になりましたが、ちょっと前までは、白豪主義が看板だったんですよね。
その変わり身に対する抵抗感の薄さ・・・。
ちょいと表現が難しいのですが、変わって行ける柔軟さを持っているのがオーストラリアのような気もしますね。
これも進化の範疇の一つでしょうか。
小さいころからオーストラリアがなぜか好きで、いわゆる新婚旅行で、かの国に行ってきました。
当時は自由にのぼれたんで、エアーズ・ロックも登ってきました。
今は、アボリジニの聖地であるということで、制約がかなりあるということで、なんだか喜んで登った自分が恥ずかしいです。
sakuraiさん (kimion20002000)
2009-10-21 18:01:46
こんにちは。

観光旅行も、長期滞在も、留学先としても、大人気ですね。
でも、どこかで、イエローに対する蔑視はまだまだあると思いますね。

「くじら問題」に関しては、反論したいことがいっぱいありますが(笑)
弊記事までTB&コメント有難うございました。 (オカピー)
2010-06-04 23:58:45
観ているうちに色々な作品が頭をよぎりましたが、やはり「風と共に去りぬ」の豪州版ですね。
幕切れへの方向性を別にすると何から何までそっくり。
リメイクと言っても良いくらいです。(笑)

一部で評判が悪いのは、日本兵がらみの部分でしょうか。僕はこういうのは全く気にしないので、悪評紛々たる「パール・ハーバー」でも戦闘場面に関してはかなり誉めましたが。

それより「くじら問題」に関して、kimionさん同様腹を立てています。
豪州へ旅行に行った日本人を捕まえて「テストの為に殺しても良いですか」と聞きまわる実に下劣な番組がオーストラリアであったようですが、趣味の悪さに驚きましたよ。
オカピーさん (kimion20002000)
2010-06-05 11:43:58
こんにちは。
問題の本質はまったく異なりますが、僕には「たばこ有害」問題と「くじら」問題が、ある意味同じようなところで、ふざけんなよ、と思っているところがあります(笑)。
なんかつまんない擬似生態系科学と政治的擬似正義な物言いと世界はひとつの価値主義がまかり通っています。
さして根拠のない「正論」と「公共」論議が、この世の中を薄っぺらくしていくような気がします。

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