サーカスな日々

サーカスが好きだ。舞台もそうだが、楽屋裏の真剣な喧騒が好きだ。日常もまたサーカスでありその楽屋裏もまことに興味深い。

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バタヤン/田端義夫(歌手)/94歳

2013年04月25日 | 毎日がメメント・モリ

歌手の田端義夫さん死去=マドロス歌謡で人気、94歳―「かえり船」「島育ち」

時事通信 4月25日(木)12時38分配信

 戦前戦後を通じて活躍し、「かえり船」などのマドロス歌謡で知られた歌手の田端義夫(たばた・よしお、本名田畑義夫=たばた・よしお)さんが25日午前11時45分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。94歳だった。三重県出身。葬儀は家族による密葬で行い、後日お別れの会を開く。
 1939年、「島の船唄」でデビューし、「大利根月夜」がヒット。終戦後は、船員や水兵を歌うマドロス歌謡で戦後三羽がらすの一人として人気を集めた。バタヤンの愛称で親しまれ、映画にも出演。62年には奄美大島の新民謡「島育ち」を歌って注目され、翌年のNHK紅白歌合戦に出場した。
 その後も次々新曲を出し、録音した曲数は約1200曲に及び、気さくな人柄と共に愛された。5月には田端さんの人生を描いたドキュメンタリー映画「オース! バタヤン」の公開と、本人の語りも入ったベストアルバムの発売が決まっていた。 

バタヤンが生まれた松阪で僕は育った。
父は昔は地元で「夜の帝王」と言われていたらしい。
株屋をやっていたこともあり、景気の変動などでそれはそれはエレベーターのような人生を送った人であったが、商売上のつきあいもあったのだろう。
夜の街では、「顔」であった。
大学生の頃、父の行きつけの店に何軒も言ったが、長っ尻をせず、数軒を軽く回って、出るときには、コースターの下にさりげなくチップを置いていくような人だった。
そんな父と、名前は忘れたが、たぶんバタヤンのゆかりの人が経営していたのだろうが、スナックに行き、そこで本物のバタヤンに「オス!」っと、声をかけてもらったことがある。

10人兄弟だが、三歳の時に父を亡くし、赤貧のため丁稚奉公で下層労働に携わった。
ディックミネに憧れ、河原でひとり練習し、あるアマチュア歌謡コンクールで優勝したことからデヴューすることになり、「別れ船」などヒットにも恵まれ、戦時中も慰問を続けた。
戦後は岡晴夫、近江俊郎らと戦後三羽烏と呼ばれ、「かえり船」が大ヒット。
その後、少し低迷したが、沖縄歌謡の「島育ち」「19の春」でまたまたブームを起こした。

アメリカ製のナショナル・ギター社のエレキ・ギターを首下にまであげて奏でる。日本ではじめてのエレキギター奏者だという人もいる。
最後まで現役奏者であり、この5月に公開予定だった『オース!バタヤン』というドキュメンタリーも僕は楽しみにしていた。

「戦前」や「戦後すぐ」のヒット曲はなぜか自分ではほとんど歌えない。
たまに伴奏に合わせて歌っても、なんだか調子がとれないのだ。
でもバタヤンの曲だけは、不思議と歌っても無理をしている感じがしない。
彼は正統の演歌歌手なのだが、どこかJ-POPの元祖のようなところもあると思う・・・合掌!
 

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1 コメント

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バタやん、生きていたんだ! (友野雅志)
2013-04-30 11:19:19
バタやん、まだ生きていらしたんだーー失礼かな。あの世代の歌手がみんないなくなるなかで。『島育ち』は奄美を舞台とした歌です。彼は、ほとんど奄美をテーマにしたのですが、なぜかはわかりません。作詞が三界稔さんだからかもU+2048

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