幼いころに恋に落ち、数年後に劇的な再会を果たした男女が、本の朗読を通じて愛を確かめ合うラブストーリー。ベルンハルト・シュリンクのベストセラー「朗読者」を原案に、『めぐりあう時間たち』の名匠スティーヴン・ダルドリーが映像化。戦時中の罪に問われ、無期懲役となったヒロインを『タイタニック』のケイト・ウィンスレット、彼女に献身的な愛をささげる男をレイフ・ファインズが好演。物語の朗読を吹き込んだテープに託された無償の愛に打ち震える。[もっと詳しく]
ナチス親衛隊への傾斜は、一般人のなかの「秘密」と「熱狂」にも、依拠したかもしれない。
ベルンハルト・シュリンクの『朗読者(The Reader)』は、新潮社から邦訳が出版されてすぐ買って読んだ。
タイトルの響きが良かったのと、表紙写真に『木の器』などの著作もあり、そのほっとするような工芸作品が人気の三谷龍二の作品が使用されていたからだ。
『朗読者』は95年に刊行されたった5年で20カ国で発刊され、500万部のベストセラーとなっったらしい。
なかでもアメリカでは200万部の大ベストセラーとなっている。
作品を読みながら、「この作品を映画化するとすれば、どういうキャスト・スタッフになるんだろうか?」と僕は漠然と考えていた。
その『朗読者』を原作とする『愛を読むひと』は08年に公開されたが、この年に映画界は惜しむべき才能をふたり喪っている。
アンソニー・ミンゲラとシドニー・ポラックだ。
監督として、製作者として、そして時折りは役者として、数々のエポックメイキングな作品を世に送り出してきたふたりは、20歳ほどの年齢の違いはあるが、連携してミラージュ・エンタープライズを立ち上げている。
その事実上の最後のプロデュース作品が『愛を読むひと』であったのだ。
『愛を読むひと』という作品そのものがドラマティックな運命を辿っている。
もともとミンゲラの脚本・監督が予定されていた。
実際には、脚本も別人を指名し、監督にたったのは、『めぐりあう時間』のスティーブン・ダルドリーだ。
主役のハンナ役には、当初ニコール・キッドマンに白羽の矢が立てられたが、彼女の妊娠で断念。
ニコール・キッドマンは『オーストラリア』に妊娠中であるにかかわらず、主演することになった。
ハンナ役はケイト・ウィンスレットに変更されたが、彼女は『レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで』(08年)と撮影が重なり、『愛を読むひと』の公開も結局08年にずれ込んだわけだが、ケイト・ウィンスレットはこの二作でアカデミー賞主演女優賞を獲得した。個人のW受賞は、20年ぶりのことであるらしい。
『愛を読むひと』の制作陣もミンゲラ、ポラックに2名が追加され、アカデミー賞でははじめてのことらしいが、4人の製作陣にオスカーが授与された。
原作の『朗読者』は、1958年のマイケル(少年期:デヴィッド・クロス)とハンナ(ケイト・ウィンスレット)との偶然の出会いからひと夏の恋の描写を第一部とし、その8年後ハイデルベルグ大学の法科習生となったマイケルがナチス戦犯裁判で突如姿を消した被告席のハンナを目撃する日々を第二部とし、1976年無期懲役を宣告されたハンナにかつて出会いのときにふたりの性の儀式としてそうしたように「朗読」したテープを送り続けるようになり関係を再開したふたりの日々の描写を第三部としており、ほぼ時系列での展開となっている。
すっかり年をとったマイケルとその娘との関係の描写や、ラストのもって行き方など、映画版の描写とは、当然のように異なって感じられるところもある。
映画版では、マイケル(初老期:レイフ・ファインズ)の述懐のように時制は繰り返し輻湊される。そして、ハンナの「秘密」をめぐるふたりの秘められたドラマであることが、強調されているように思える。
僕など、もう初老にさしかかろうとする年代の人間からいえば、マイケルの少年時代の「性」をめぐる有頂天ともいえる体験の「熱」のようなものは、苦く懐かしくもあるような感覚で自分のちょっとした体験と重ね合わせて思い起こされたりもするが、やはりその「愛」のかたちに結局のところ生涯を決定付けられることをあらためて認識する、初老のマイケルの寂漠とした感慨の方に、気持ちは沿っていくのを禁じえなかった。
この作品の主題は、アウシュビッツに代表される戦争犯罪にかかわった一般人の罪にかかわる問題である。
ここでは第二次世界大戦後60余年が経過する現在においてもなお、戦争体験者同士あるいは非体験者との世代のギャップを超えたテーマが横たわっている。
もちろん、このことはナチス・ドイツの問題だけではなく、長い歴史の世界中で繰り返されてきた権力をもたない一般人の「戦争責任」問題に通じることであり、日本でも例外ではない。
アウシュビッツだけをとってみても、この時代にドイツでは約8000人の「看守」など民間人の関与が確認されている。
もうひとつの主題は、ハンナの秘密である「識字障害」である。
ハンナが看守に転職したのも、「朗読」をあんなにも心楽しみにしたのも、戦犯裁判で不当ともいえる刑を宣告されたのも、たぶんマイケルとの日々を突然終了させたのも、すべては「識字障害」であることを人に知られたくないからということであった。
「識字障害」は学習障害のひとつだが、英語では「ディスレクシア」と命名され、失読症、難読症、読字障害などと呼ばれている。
「ディスレクシア」と知能障害とはほとんど無関係とされる。
左脳の機能障害ではないかとされるが、症状も個人差が大きく、原因が特定されているわけではない。
欧米では全人口の5%~10%ともいわれ、アメリカ2500万人、ドイツ400万人、日本600万人が、症状の軽重は別として、当てはまるといわれるから、とんでもない数である。
「ディスレクシア」であることを公言している著名人としてWikiでは次のような名前があがっている。
オーランド・ブルーム(俳優) ・リチャード・ブランソン(実業家) ・カール16世グスタフ(スウェーデン国王) ・シェール(歌手・女優)・アンダーソン・クーパー(アンカーマン)・ トム・クルーズ(俳優) ・サミュエル・R・ディレイニー(小説家・SF作家)・パトリック・デンプシー(俳優) ・ウーピー・ゴールドバーグ(女優・コメディアン・歌手)・ アンソニー・ホプキンス(俳優)・ジョン・アーヴィング(作家) ・ブルース・ジェンナー(俳優・元陸上選手)イングヴァル・カンプラー(IKEA創業者) ・キアヌ・リーブス(俳優)・キーラ・ナイトレイ(女優)・ ジェイ・レノ(コメディアン) ・ジェイミー・オリヴァー(料理人)・ ジョン・レノン(歌手・シンガーソングライター・ギタリスト) ・オジー・オズボーン(ミュージシャン)・ トーマス・エジソン(発明家)・ ガイ・リッチー(映画監督・脚本家)・ リチャード・ロジャース(建築家) ・リー・ライアン(歌手)・ レオナルド・ダヴィンチ(画家など) ・ブライアン・シンガー(映画監督)・ ジャッキー・スチュワート(元F1レーサー)・マジック・ジョンソン(バスケットボール選手、実業家)・リンゼイ・ワグナー(女優) ・テリー・グッドカインド(ファンタジー作家)・・・など。
左脳が機能障害をおこしている分、逆に右脳が活性化しており、独特の能力に秀でているとも言われている。
「ディスレクシア」の障害を最小化するために、さまざまな工夫がなされているようだ。
けれど、ハンナにとって、ただ「秘密」として保存することが自分の「矜持」であったのかもしれない。
15歳の語学に秀でたマイケルが、ただただ「性愛」の導入儀式として夢中になって「朗読」していた『オデュセイア』や『犬を連れた奥さん』や『ドクトル・ジバコ』や『チャタレイ夫人』や・・・そして獄中でもマイケルから送られてきた「朗読」テープに一心に耳を澄ませながら、ハンナはその本を借りて、テープの朗読にあわせて、「識字」を学ぼうとするのである。
ハンナにとっては、いつまでたってもマイケルは「坊や」だ。
年齢が20歳以上離れているとしても、ひと夏の経験と別れがどれほどの失意をもたらしたとしても、マイケルがハンナと関係を再構築する契機は、存在した。
けれど、マイケルは名乗り出なかった。
自分の少年期の恋に、羞恥を感じたのか?
ナチ協力で裁かれるハンナの過去に、惧れをなしたのか?
名乗り出て証言することでアンナの「秘密」が曝け出されることに、躊躇したのか?
「法」と「善・悪」そして「罪」という、人が人を裁くことへの、疑念が晴れなかったのか?
『朗読者』あるいは『愛を読むひと』という作品には、個人や対の観念と共同幻想との対立の問題が孕まれている。
マイケル少年の家族は、いつも父の「権力」の前に、重苦しく他人行儀な空気が支配していた。
そのことはまた、ナチスドイツに熱狂した大衆心理の深層が、どれだけ戦後に執拗に糾弾と反省の日々が続いたとしても、そう簡単に払拭されるものではないことを少しく暗示している。
もしかしたら、ヒットラーユーゲントの「健康」で「自信に溢れた」少年、青年たちが傾斜しためくるめくような日々と同質の何かが、文学を朗読し、性愛を貪りつくすあの特異な日々の中にも、無意識にどこかで現象していたのかもしれない。
「識字障害」はまだよく解明されていないところがあるみたいなんですね。だから症状を有する人たちは、人知れず、さまざまな克服方法を開発しているようです。
僕は文盲と書きましたが、彼女のどこか変な行動は脳における何らかの障害のせいかもしれませんね。
従って、識字障害という表現の方がふさわしいようです。
今更変えませんが。(笑)
>「小犬を連れた奥さん」
男女密会のお話ですから、「チャタレー夫人の恋人」同様に本筋にオーヴァーラップしますね。
チェーホフの中でもかなり好きな小説です。
世界大戦をくぐったドイツの複雑な国民意識というものも、背景にあるかもしれませんね。
反応が遅くてすみません。
私もこの作品はいろいろと考えました。
なぜ、ハンナのために名乗り出なかったのか?
どうだったかは、はっきり分かりません。
しかし、人の心理の複雑さを考える上で改めて感じさせられた気がします。
はい、うまい監督さんですね。
ミンゲラの監督というのも、見てみたかった気もしますけどね。
うまいですよね。
映画を見た後、本を読んで、新たな感動を得ました。
映画⇒原作で成功しました。
本当は順番としては、映画→原作の方が、いいような気がしますね。
僕もあの少年は、ちょっと生理的に合わなかったけど(笑)
映画を先に見て、原作も後で読んだので、思い入れの強い作品です^^
とても良い映画でしたね♪
もちろん、あの時代のハンナは、自分の障害について、客観的に把握はしていなかったと思いますね。
ただ、うまく文字が識字できないということが、コンプレックスにはなっていたでしょう。
収容所の看守をしたのも、教育を受けられなかったから、仕事の選択肢が限られていたためだと。
それを、年とってから、罪を償うのと一緒に、埋め合わせをして取り戻そうとしているのかな、と。
そんな風に誤って受け止めたとしても...感動したことには変わりありません。
いろんな思いを私にくれた映画でした。
wikiに取り上げられていたものの一部引用しました。
ほとんど、公言の出典がありましたから、根拠はあるんでしょうね。
たとえば、役者さんがシナリオを覚えるとかでも、人知れぬ苦労をされてきたのだと思います。
今年もまた宜しくお願い致します。
原作を読まれているんですね。
本でも「ほぼ時系列での展開」となっているのですか・・・。
映画とはさぞ描写も違うことと思います。
kimion20002000さんの読みの深い記事を、今年も是非たくさん読ませて頂きたいと思っています!