6月22日(月)アルペンルート富山県側の玄関口である立山駅近くで車中泊をした後、駅近辺や雄山神社などの参拝と散策、昨日見学した称名滝(H=350m)やハンノキ滝(H=500)も、また見たくなり小雨の降る中再び訪れた。
今日は月曜日のせいか訪れる人も少なく、ひっそりとした自然の中で、すごい水量を伴いながら、称名滝が轟音を発しながら流れ落ちている。
何回見ても、すごい水量で350mの高さから流下する様は、まさに圧巻で何時まで観ていても飽きる事がなかった。
その横にあるハンノキ滝は、500mの高さから流れ落ちているが、昨日の水量と比較して半分程度の水量で、一日でこんなに水量が変わるものかと驚かされる。
二つの滝の散策を終えた後、立山街道を富山方面に下り、途中で昼食をすました後、県道67号線に入り、摩崖仏で有名な「大岩山日石寺=おおいわさんにっせきじ」へ向かって行った。
10km位先に行った所に日石寺はあって、駐車場には程なくして到着する。
ここ日石寺は、天を突く美しい剱岳の麓の町として知られ、富山県上市町に所在している。
本来ならば下側の駐車場からが、正規の参拝道であるが、私達は間違って上側の駐車場に来てしまったようだ。
下の駐車場からは、横に茶店があり、大岩・百段坂の参道を登ることになる。
登りきると古びた大きな門があり、門をくぐると、また幾段もの石段を登ると本堂の境内にたどり着く。
日石寺(にっせきじ)は、富山県中新川郡上市町にある真言密宗大本山の寺院である。
山号は大岩山(おおいわさん)で、山号から「大岩不動」の通称で知られ、金剛不壊寺という別名もある。

大岩百段坂を登りきって、この紅い手摺のついた石段を登りきると本堂前の境内である。
大岩山日石寺の沿革は、聖武天皇神亀2年7月(725年)奈良時代の高僧行基が、大岩川清流のほとりの凝灰岩の大岩に不動明王の像を刻んだのが開基である。
この摩崖仏は全国数多い石仏の中で稀にみる立派な彫刻と評価されている。

駐車場から真っ直ぐに進むと本堂境内にでる

紅い手摺のある石段を上ると正面に本堂がある
広々とした本堂に入っていくと正面に摩崖仏の不動明王が彫られているが、最初は暗くて良く分からなかった。
目も慣れしだいに像がはっきりと見えてくると、自然の岩に彫られた摩崖仏の大きさと、建物の中にすっぽり治まり、凄然とした姿を現していることに驚かされる。

日石寺本尊である本堂摩崖仏の不動明王
日石寺の本尊であり、摩崖仏の不動明王は平安時代末期~鎌倉時代初期の行基菩薩の作と伝えられている。
高さ6m、幅10mの凝灰石に立体的に浮き出るように、不動明王二童子像(当寺の本尊)、阿弥陀如来像、僧形像の5体を半肉彫りで彫り出した磨崖仏で、北陸では最大級のものである。
不動明王の右手には剣、左手には羂索(けんさく:戦いや狩猟で用いる環のついた投網)を持ち、あらゆる衆生をもれなく救済する意味がある。
そして、左右には矜羯羅童子(こんがらどうじ)像、制咤迦童子(せいたかどうじ)像、阿弥陀如来坐像、僧形坐像(伝・行基像)が半肉彫りで彫り出されている。
不動明王二童子像は平安時代後期の作で、阿弥陀如来坐像、僧形坐像は後年になって追刻されたものと思われている。
建武2年(1335年=南北朝時代)、不動堂が台風で倒壊した際に大破し、康永元年(1342年=南北朝時代)に修理されているが、各像とも根幹部分は造像当時のままである。
室町時代に上杉勢の兵火に遭い、また昭和42年(1967年)に本堂が火事に遭うが、磨崖仏の不動明王はほとんど損傷をうけることなく今日まで残っている。
気宇壮大な表現は全国の磨崖仏のなかでも見事な傑作として、国の重要文化財に、そして石仏が史跡に指定されている。

弘法大師像から横一列に並ぶ菩薩像と六本滝
本堂の参拝と摩崖仏を見学した後、境内に出ると水の流れる音の方に進んで行く、山裾の林の中から棒状に流下する六本の滝が見えてくる。
滝の手前横には、弘法大使像や数体の菩薩像が横一列に並び、私達を出迎えてくれる。
滝のある正面手前には不動明王が手水岩の上に立ち、ここから参拝できるように造られ、正面には六本滝が勢い良く流下し、バチャバチャと水音を発している。

横一列に並んで私達を出迎えてくれる大師像と菩薩像
この六本滝には次のような云われがある。
一切衆生の六欲・根本煩悩を断つとされ、6つの龍頭から流れ落ちる六本瀧(ろっぽんだき)は、六大(地、水、火、風、空、識)を型どった6つの蛇口から水を落とし、うたれる人々の六根(眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根)を清浄にし、一切の衆生の六欲、根本煩悩を洗いおとし、心身を清めて不動尊を参拝させる意味で造られている。
高さ18尺(約5.5m)の6基の龍頭より、立山の麓の湧水が激しく流れ落ちる瀧に打たれる、これを灌頂を受けるといい、佛様と御縁を結べると伝えられている。
毎年、大寒の日に寒修行が行われる。予約すれば、だれでも白衣を借りられ、瀧に打たれ、身を清められることができる。

立山の湧水が六基の龍頭より流れ落ちる六本瀧
六本瀧の周辺は深い森のように樹齢何百年かの樹木が鬱蒼と生い茂り、昼なお暗き状況である。境内と結ばれている緑の則面には、無数の石仏が安置され、伽藍や自然とうまく調和して、寺院特有の雰囲気をかもし出している。
六本瀧以外にも、下記の十二支瀧があり、その横には、瀧のもたらすマイナスイオン発生と人体への影響についての看板が掲げられている。

マイナスイオンを発生さしている十二支瀧
昭和46年の建設で、「12支えと」にちなみ、龍頭の頭上には12支の本尊が安置されている。
瀧のマイナスイオン効果について次のように書かれている。
「大岩山の瀧では、水と水とが激しくぶつかり合って起きるレナード現象によって、マイナスイオンが発生しています。 マイナスイオにはくつろぎ、リラックスできる効果などがあります。」
この日石寺は自然と水の豊かな寺院であることが実感さしてくれる。さすが立山の麓の寺院だけのことはあり、いたるところから豊かな浄水が生きよい良く湧出している。
眼病平癒に霊験ありと言われる藤水 生きよい良く龍頭より出水する藤水
不動明王の厳石を廻り出る御霊水は、眼病平癒に霊験あり、諸人の願いに御利益があるとされています。
この御霊水をくみ取る時には不動尊の御進言、
なうまくさんまんだ、ばざらだん。
せんだまかろしゃだ。そはたや。
うんたらた。かんまん。
を唱え、大聖不動明王の大慈悲を蒙りましょう。
昔、この藤水を飲んだ盲目のお百姓さんが、たちどころに眼が開き、帰りは杖がいらなかったと伝えられている。

亀の背のような雲蓋石・天蓋石(佛石)
本堂の正面左手にあり、水を掛けると円形・方形・六角形などの形が現れ、未来を予知する、との言い伝えがある。
色鮮やかな紅い欄干に囲まれた観音堂
本堂から少し下がった所にあり、赤い欄干がひと際鮮やかに感じる。
二層建ての建物の上部に造られ、外観は中尊寺金色堂と同形式の和様三間堂で、屋根は方形造の建物である。
外には聖観世音菩薩像があり、人々のお経の声に応じて姿を現し、その悩みを救おうという大変慈悲深い菩薩様として知られている。
毎月21日10時から慶讃法要が行われ、先祖供養をお願いすることもできる。
観音堂から紅い手摺のある石段を下りていくと、左側に池があり、その先には大きな岩があって、池を分断するように紅い手摺のついた橋が架けられている。
池と岩の周辺には紅葉の大木が生い茂り、秋の紅葉の美しさを想像さしてくれる。
境内から岩の方を見ると、大岩の中央には大きな穴が掘りぬかれ、窟内には石仏が彫られ、祀られているようである。
紅い欄干の橋を渡り、石段を上ると窟入口があり、その上部には「阿覚門」と書かれている。
中に入ると、円形のドームのように丸く彫られ、正面には厄除大師(弘法大師)の像が彫られ、左右には数体の石仏(菩薩)が横一列に並んで彫られている。
大師像の前には祭壇があり、その横には般若心教が書かれた教板が置かれている。
私も内部を見学していて、祭壇の前にいると急に般若心教を唱えさしていただきたくなって、妻と二人で唱えることにした。
私達の唱える般若心教が窟内に響きわたり、唱え終わるとすがすがしい気分にさしてくれている。

厄除大師(弘法大師)を安置している阿覚窟
明治30年 日石寺第十四世一覚和尚の建設で、厄除大師が安置されている。
その謂れは弘仁9年(808年=平安時代初期)日本全土に悪疫が流行し、このことをご心配になった嵯峨天皇は、紺紙金泥の般若心教一巻を自分でお書きになり、弘法大師に供養させられたところ、悪疫が治まり病人が生き返ったとのことです。
これを結んで 「厄除大師」 とあがめられ、厄年の人が拝むと霊験があるといわれている。
弘法大師御宝号 ~ 南無大師遍照金剛
このように伝えられている。
阿覚窟内部には中心に弘法大師が左右には石仏(菩薩)が彫られている

岩横には珍しいメグスリの木 八角に造られ美しい姿の大日堂
ここ大岩山日石寺は眼のお不動さんとしても知られ、ご利益が多くの人々に信じられている。
眼に効くといわれる「藤水」のほか、千里眼の薬といわれる「メグスリの木」が植栽され、ご覧のように参道脇にも植えられている。
私はメグスリの木を見るのは初めてであった。
メグスリの木は標高800~1,000mの山間部にしか産しない珍重な木で、江戸時代から樹皮・小枝・葉を煎じて飲むと、肝臓や眼病に効くといわれている。
大日堂(大日如来)は本堂と渡り廊下で繋がった緑豊かな木立の中に建てられ、八角円の建築様式をとり入れた建物である。
法隆寺夢殿と同形式の建築様式である。
本尊である不動明王の親佛で 「天と地の恵を全て人に平等に与える」 と伝えられている。

現在も未完成の三重の搭 未完成のため内部構造も見える三重の搭
大日堂の横を通り進んで行くと、斜面の上に三重の搭が姿を現してくる。
参道から三重の搭に向かって石段が真っ直ぐに造られ、その上に三重の搭が建てられている。
逆光で少し見えにくいが、堂々とした白木の搭が、緑の樹木に囲まれて建っている。
石段を登って搭を見ると、内部の心柱や内部構造が見え大変興味深く感じる。
一般的に三重の搭や五重の塔は、板壁などで覆われ見ることが出来ないが、ここでははっきりと見ることができる。
しかし、これはどうやらこの搭が未完成のままであるからであった。
三重の塔は、富山県最古の木造の三重の塔で、江戸時代後期の建築物である。
規模は縦横幅4.38m×4.38mで、高さは約15mの建物である。
寺伝によると大岩山中興の祖代十一代如龍和尚が、境内の竹林を開き仏像を安置しようとしたところ、古銅塔一基が発掘され、この地は、宝塔有縁の山であると建立を発願されたが、第十二代覚伝和尚がその意を継ぎ、天保十四年(1843年=江戸時代)に建築されたものである。
棟梁は富山市の池上清助で、未完成のまま現在に至っている。
上市町指定文化財である。

現在も未完成のままであるため 「三重の搭」内部の構造が見えている
三重の搭の見学を終えた頃には、雨もあがり、傘もささずに見学することができたが、ここ大岩山日石寺は大変興味深い寺院であった。
立山山麓に位置する為にか、これほど自然と一帯となり、立山や剱岳湧水の恵み受け、それをうまく活かしきって寺院が建設されているように感じる。
中でも大岩に彫られた摩崖仏である不動明王は、広大で大変興味深く、訪れた私達を暫く釘付けにさしてくれる。
摩崖仏の不動明王を本尊とし、それに準じて本堂の建物が建てられている、全国的にも稀な寺院であると思う。
今年6月に封切られた「劔岳 点の記」の映画撮影の際には撮影提供もこの寺院で行われたようである。
全ての見学を終えた後、駐車場に戻り、愛車エステイマを走らせ次の目的地へ向かって行った。
今日は月曜日のせいか訪れる人も少なく、ひっそりとした自然の中で、すごい水量を伴いながら、称名滝が轟音を発しながら流れ落ちている。
何回見ても、すごい水量で350mの高さから流下する様は、まさに圧巻で何時まで観ていても飽きる事がなかった。
その横にあるハンノキ滝は、500mの高さから流れ落ちているが、昨日の水量と比較して半分程度の水量で、一日でこんなに水量が変わるものかと驚かされる。
二つの滝の散策を終えた後、立山街道を富山方面に下り、途中で昼食をすました後、県道67号線に入り、摩崖仏で有名な「大岩山日石寺=おおいわさんにっせきじ」へ向かって行った。
10km位先に行った所に日石寺はあって、駐車場には程なくして到着する。
ここ日石寺は、天を突く美しい剱岳の麓の町として知られ、富山県上市町に所在している。
本来ならば下側の駐車場からが、正規の参拝道であるが、私達は間違って上側の駐車場に来てしまったようだ。
下の駐車場からは、横に茶店があり、大岩・百段坂の参道を登ることになる。
登りきると古びた大きな門があり、門をくぐると、また幾段もの石段を登ると本堂の境内にたどり着く。
日石寺(にっせきじ)は、富山県中新川郡上市町にある真言密宗大本山の寺院である。
山号は大岩山(おおいわさん)で、山号から「大岩不動」の通称で知られ、金剛不壊寺という別名もある。

大岩百段坂を登りきって、この紅い手摺のついた石段を登りきると本堂前の境内である。
大岩山日石寺の沿革は、聖武天皇神亀2年7月(725年)奈良時代の高僧行基が、大岩川清流のほとりの凝灰岩の大岩に不動明王の像を刻んだのが開基である。
この摩崖仏は全国数多い石仏の中で稀にみる立派な彫刻と評価されている。

駐車場から真っ直ぐに進むと本堂境内にでる

紅い手摺のある石段を上ると正面に本堂がある
広々とした本堂に入っていくと正面に摩崖仏の不動明王が彫られているが、最初は暗くて良く分からなかった。
目も慣れしだいに像がはっきりと見えてくると、自然の岩に彫られた摩崖仏の大きさと、建物の中にすっぽり治まり、凄然とした姿を現していることに驚かされる。

日石寺本尊である本堂摩崖仏の不動明王
日石寺の本尊であり、摩崖仏の不動明王は平安時代末期~鎌倉時代初期の行基菩薩の作と伝えられている。
高さ6m、幅10mの凝灰石に立体的に浮き出るように、不動明王二童子像(当寺の本尊)、阿弥陀如来像、僧形像の5体を半肉彫りで彫り出した磨崖仏で、北陸では最大級のものである。
不動明王の右手には剣、左手には羂索(けんさく:戦いや狩猟で用いる環のついた投網)を持ち、あらゆる衆生をもれなく救済する意味がある。
そして、左右には矜羯羅童子(こんがらどうじ)像、制咤迦童子(せいたかどうじ)像、阿弥陀如来坐像、僧形坐像(伝・行基像)が半肉彫りで彫り出されている。
不動明王二童子像は平安時代後期の作で、阿弥陀如来坐像、僧形坐像は後年になって追刻されたものと思われている。
建武2年(1335年=南北朝時代)、不動堂が台風で倒壊した際に大破し、康永元年(1342年=南北朝時代)に修理されているが、各像とも根幹部分は造像当時のままである。
室町時代に上杉勢の兵火に遭い、また昭和42年(1967年)に本堂が火事に遭うが、磨崖仏の不動明王はほとんど損傷をうけることなく今日まで残っている。
気宇壮大な表現は全国の磨崖仏のなかでも見事な傑作として、国の重要文化財に、そして石仏が史跡に指定されている。

弘法大師像から横一列に並ぶ菩薩像と六本滝
本堂の参拝と摩崖仏を見学した後、境内に出ると水の流れる音の方に進んで行く、山裾の林の中から棒状に流下する六本の滝が見えてくる。
滝の手前横には、弘法大使像や数体の菩薩像が横一列に並び、私達を出迎えてくれる。
滝のある正面手前には不動明王が手水岩の上に立ち、ここから参拝できるように造られ、正面には六本滝が勢い良く流下し、バチャバチャと水音を発している。

横一列に並んで私達を出迎えてくれる大師像と菩薩像
この六本滝には次のような云われがある。
一切衆生の六欲・根本煩悩を断つとされ、6つの龍頭から流れ落ちる六本瀧(ろっぽんだき)は、六大(地、水、火、風、空、識)を型どった6つの蛇口から水を落とし、うたれる人々の六根(眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根)を清浄にし、一切の衆生の六欲、根本煩悩を洗いおとし、心身を清めて不動尊を参拝させる意味で造られている。
高さ18尺(約5.5m)の6基の龍頭より、立山の麓の湧水が激しく流れ落ちる瀧に打たれる、これを灌頂を受けるといい、佛様と御縁を結べると伝えられている。
毎年、大寒の日に寒修行が行われる。予約すれば、だれでも白衣を借りられ、瀧に打たれ、身を清められることができる。

立山の湧水が六基の龍頭より流れ落ちる六本瀧
六本瀧の周辺は深い森のように樹齢何百年かの樹木が鬱蒼と生い茂り、昼なお暗き状況である。境内と結ばれている緑の則面には、無数の石仏が安置され、伽藍や自然とうまく調和して、寺院特有の雰囲気をかもし出している。
六本瀧以外にも、下記の十二支瀧があり、その横には、瀧のもたらすマイナスイオン発生と人体への影響についての看板が掲げられている。

マイナスイオンを発生さしている十二支瀧
昭和46年の建設で、「12支えと」にちなみ、龍頭の頭上には12支の本尊が安置されている。
瀧のマイナスイオン効果について次のように書かれている。
「大岩山の瀧では、水と水とが激しくぶつかり合って起きるレナード現象によって、マイナスイオンが発生しています。 マイナスイオにはくつろぎ、リラックスできる効果などがあります。」
この日石寺は自然と水の豊かな寺院であることが実感さしてくれる。さすが立山の麓の寺院だけのことはあり、いたるところから豊かな浄水が生きよい良く湧出している。


眼病平癒に霊験ありと言われる藤水 生きよい良く龍頭より出水する藤水
不動明王の厳石を廻り出る御霊水は、眼病平癒に霊験あり、諸人の願いに御利益があるとされています。
この御霊水をくみ取る時には不動尊の御進言、
なうまくさんまんだ、ばざらだん。
せんだまかろしゃだ。そはたや。
うんたらた。かんまん。
を唱え、大聖不動明王の大慈悲を蒙りましょう。
昔、この藤水を飲んだ盲目のお百姓さんが、たちどころに眼が開き、帰りは杖がいらなかったと伝えられている。

亀の背のような雲蓋石・天蓋石(佛石)
本堂の正面左手にあり、水を掛けると円形・方形・六角形などの形が現れ、未来を予知する、との言い伝えがある。

色鮮やかな紅い欄干に囲まれた観音堂
本堂から少し下がった所にあり、赤い欄干がひと際鮮やかに感じる。
二層建ての建物の上部に造られ、外観は中尊寺金色堂と同形式の和様三間堂で、屋根は方形造の建物である。
外には聖観世音菩薩像があり、人々のお経の声に応じて姿を現し、その悩みを救おうという大変慈悲深い菩薩様として知られている。
毎月21日10時から慶讃法要が行われ、先祖供養をお願いすることもできる。
観音堂から紅い手摺のある石段を下りていくと、左側に池があり、その先には大きな岩があって、池を分断するように紅い手摺のついた橋が架けられている。
池と岩の周辺には紅葉の大木が生い茂り、秋の紅葉の美しさを想像さしてくれる。
境内から岩の方を見ると、大岩の中央には大きな穴が掘りぬかれ、窟内には石仏が彫られ、祀られているようである。
紅い欄干の橋を渡り、石段を上ると窟入口があり、その上部には「阿覚門」と書かれている。
中に入ると、円形のドームのように丸く彫られ、正面には厄除大師(弘法大師)の像が彫られ、左右には数体の石仏(菩薩)が横一列に並んで彫られている。
大師像の前には祭壇があり、その横には般若心教が書かれた教板が置かれている。
私も内部を見学していて、祭壇の前にいると急に般若心教を唱えさしていただきたくなって、妻と二人で唱えることにした。
私達の唱える般若心教が窟内に響きわたり、唱え終わるとすがすがしい気分にさしてくれている。

厄除大師(弘法大師)を安置している阿覚窟
明治30年 日石寺第十四世一覚和尚の建設で、厄除大師が安置されている。
その謂れは弘仁9年(808年=平安時代初期)日本全土に悪疫が流行し、このことをご心配になった嵯峨天皇は、紺紙金泥の般若心教一巻を自分でお書きになり、弘法大師に供養させられたところ、悪疫が治まり病人が生き返ったとのことです。
これを結んで 「厄除大師」 とあがめられ、厄年の人が拝むと霊験があるといわれている。
弘法大師御宝号 ~ 南無大師遍照金剛
このように伝えられている。

阿覚窟内部には中心に弘法大師が左右には石仏(菩薩)が彫られている


岩横には珍しいメグスリの木 八角に造られ美しい姿の大日堂
ここ大岩山日石寺は眼のお不動さんとしても知られ、ご利益が多くの人々に信じられている。
眼に効くといわれる「藤水」のほか、千里眼の薬といわれる「メグスリの木」が植栽され、ご覧のように参道脇にも植えられている。
私はメグスリの木を見るのは初めてであった。
メグスリの木は標高800~1,000mの山間部にしか産しない珍重な木で、江戸時代から樹皮・小枝・葉を煎じて飲むと、肝臓や眼病に効くといわれている。
大日堂(大日如来)は本堂と渡り廊下で繋がった緑豊かな木立の中に建てられ、八角円の建築様式をとり入れた建物である。
法隆寺夢殿と同形式の建築様式である。
本尊である不動明王の親佛で 「天と地の恵を全て人に平等に与える」 と伝えられている。


現在も未完成の三重の搭 未完成のため内部構造も見える三重の搭
大日堂の横を通り進んで行くと、斜面の上に三重の搭が姿を現してくる。
参道から三重の搭に向かって石段が真っ直ぐに造られ、その上に三重の搭が建てられている。
逆光で少し見えにくいが、堂々とした白木の搭が、緑の樹木に囲まれて建っている。
石段を登って搭を見ると、内部の心柱や内部構造が見え大変興味深く感じる。
一般的に三重の搭や五重の塔は、板壁などで覆われ見ることが出来ないが、ここでははっきりと見ることができる。
しかし、これはどうやらこの搭が未完成のままであるからであった。
三重の塔は、富山県最古の木造の三重の塔で、江戸時代後期の建築物である。
規模は縦横幅4.38m×4.38mで、高さは約15mの建物である。
寺伝によると大岩山中興の祖代十一代如龍和尚が、境内の竹林を開き仏像を安置しようとしたところ、古銅塔一基が発掘され、この地は、宝塔有縁の山であると建立を発願されたが、第十二代覚伝和尚がその意を継ぎ、天保十四年(1843年=江戸時代)に建築されたものである。
棟梁は富山市の池上清助で、未完成のまま現在に至っている。
上市町指定文化財である。

現在も未完成のままであるため 「三重の搭」内部の構造が見えている
三重の搭の見学を終えた頃には、雨もあがり、傘もささずに見学することができたが、ここ大岩山日石寺は大変興味深い寺院であった。
立山山麓に位置する為にか、これほど自然と一帯となり、立山や剱岳湧水の恵み受け、それをうまく活かしきって寺院が建設されているように感じる。
中でも大岩に彫られた摩崖仏である不動明王は、広大で大変興味深く、訪れた私達を暫く釘付けにさしてくれる。
摩崖仏の不動明王を本尊とし、それに準じて本堂の建物が建てられている、全国的にも稀な寺院であると思う。
今年6月に封切られた「劔岳 点の記」の映画撮影の際には撮影提供もこの寺院で行われたようである。
全ての見学を終えた後、駐車場に戻り、愛車エステイマを走らせ次の目的地へ向かって行った。
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