氣まぐれ剣士の言いたい放題
628 長島茂雄
長島元監督のエピソードだそうです。
1954年、高校を卒業した長嶋さんは、当時、「鬼」と言われた砂押邦信監督率
いる立教大学の野球部に入ります。
実は、立教大学は本人が望んだわけでありませんでした。高校生のとき、長嶋さんには、プロ野球球団からいくか誘いがありました。その中に憧れの巨人もありました。
しかし、立教大学のマネージャーが長嶋さんの留守中に来て「うちの砂押がお宅の息子さんをあずかって六大学一のプレーヤーに育成したいと申しております」とお父さんを口説きました。
契約金のことしか話さないプロ球団にうんざりしていた、まじめ一筋のお父さんはいたく感動し、「お世話になります」と即答。本人の気持ちもきかず、勝手に立教大学に決めたのです。
(そのため、あとで父子の関係はこじれるのですが、結果的に、父親の決断は間
違っていなかったと長嶋さんは感謝する)
そのお父さんは、しばらくして病気で亡くなります。お父さんは、臨終の間際、息子の手をとり、はっきりとこう言いました。
「野球をやるからには、六大学の一番の選手にならんといかんぞ。プロに行って
も日本一の選手になれ」
そして、そのまま目を閉じたのです。
長嶋さんは、この父の遺言によって、野球一筋の人生を歩む決意を固めます。
「日本一」
それが長嶋さんの夢になるのです。
さて、立教大学の野球部、砂押監督のスパルタ教育。これがすさまじかったのです。
シートノックを取り損なうと、連帯責任で練習はやり直し。まるで軍隊です。
当時、長嶋さんは守備が自分でもわかるくらい下手だったので、練習はなかなか終わりません。失策し殴り倒され、ときには長嶋さんのコーチがやられることもありました。
夕暮れまで練習し、飯を詰め込むヒマもなく、夜間練習の特訓が待っていました。
暗くて互いの顔すら見えない、伝説の月夜のノックです。月のない夜には、ボールに白い石灰をなすりつけただけ。
長嶋さんは、当然ながら、何度もエラーをします。このときに砂押監督の言葉がすごいのです。
「いいか、長嶋、ボールをグラブで捕ると思うな。心で捕れ、心でっ!」
さらには、
「おまえはまだグラブに頼っているのか!そんなもの、捨ててしまえ!」
と素手で捕る練習になりました。
骨折の危険はありましたが、真剣に玉に向かうことで、球際を見極め、変化に対応できるあの見事なフィールディングが磨かれていったのです。
その後、ご存じのように、長嶋さんは東京六大学だけでなく、日本野球界のスーパースターへと成長していくのです。
長嶋さんは、プロとして常にお客さんを喜ばせることを考えてプレーしていた人です。そのために努力するのは当然だと考え、それを人に見せたがない人でもありました。が、実は人一倍、真剣に努力してきた人だったのですね。
立教の監督もいいこと言いますね。
「心でとれっ!」
まるで氣まぐれ剣士の「心で攻めて心で打て」みたいです。
やっぱり野球も剣道も同じですね。
といっても、長島監督と氣まぐれ剣士とは“ラベル”いや“レベル”が違いますが・・・。そんなこと言わなくても当然ですね。
いかがでした。
次回もお楽しみに。
以上
628 長島茂雄
長島元監督のエピソードだそうです。
1954年、高校を卒業した長嶋さんは、当時、「鬼」と言われた砂押邦信監督率
いる立教大学の野球部に入ります。
実は、立教大学は本人が望んだわけでありませんでした。高校生のとき、長嶋さんには、プロ野球球団からいくか誘いがありました。その中に憧れの巨人もありました。
しかし、立教大学のマネージャーが長嶋さんの留守中に来て「うちの砂押がお宅の息子さんをあずかって六大学一のプレーヤーに育成したいと申しております」とお父さんを口説きました。
契約金のことしか話さないプロ球団にうんざりしていた、まじめ一筋のお父さんはいたく感動し、「お世話になります」と即答。本人の気持ちもきかず、勝手に立教大学に決めたのです。
(そのため、あとで父子の関係はこじれるのですが、結果的に、父親の決断は間
違っていなかったと長嶋さんは感謝する)
そのお父さんは、しばらくして病気で亡くなります。お父さんは、臨終の間際、息子の手をとり、はっきりとこう言いました。
「野球をやるからには、六大学の一番の選手にならんといかんぞ。プロに行って
も日本一の選手になれ」
そして、そのまま目を閉じたのです。
長嶋さんは、この父の遺言によって、野球一筋の人生を歩む決意を固めます。
「日本一」
それが長嶋さんの夢になるのです。
さて、立教大学の野球部、砂押監督のスパルタ教育。これがすさまじかったのです。
シートノックを取り損なうと、連帯責任で練習はやり直し。まるで軍隊です。
当時、長嶋さんは守備が自分でもわかるくらい下手だったので、練習はなかなか終わりません。失策し殴り倒され、ときには長嶋さんのコーチがやられることもありました。
夕暮れまで練習し、飯を詰め込むヒマもなく、夜間練習の特訓が待っていました。
暗くて互いの顔すら見えない、伝説の月夜のノックです。月のない夜には、ボールに白い石灰をなすりつけただけ。
長嶋さんは、当然ながら、何度もエラーをします。このときに砂押監督の言葉がすごいのです。
「いいか、長嶋、ボールをグラブで捕ると思うな。心で捕れ、心でっ!」
さらには、
「おまえはまだグラブに頼っているのか!そんなもの、捨ててしまえ!」
と素手で捕る練習になりました。
骨折の危険はありましたが、真剣に玉に向かうことで、球際を見極め、変化に対応できるあの見事なフィールディングが磨かれていったのです。
その後、ご存じのように、長嶋さんは東京六大学だけでなく、日本野球界のスーパースターへと成長していくのです。
長嶋さんは、プロとして常にお客さんを喜ばせることを考えてプレーしていた人です。そのために努力するのは当然だと考え、それを人に見せたがない人でもありました。が、実は人一倍、真剣に努力してきた人だったのですね。
立教の監督もいいこと言いますね。
「心でとれっ!」
まるで氣まぐれ剣士の「心で攻めて心で打て」みたいです。
やっぱり野球も剣道も同じですね。
といっても、長島監督と氣まぐれ剣士とは“ラベル”いや“レベル”が違いますが・・・。そんなこと言わなくても当然ですね。
いかがでした。
次回もお楽しみに。
以上