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METライブビューイング2018-19『アイーダ』は必見!

2018年10月28日 19時51分28秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

一昨日、金曜日の夜、「東劇」で早々と今期のメトロポリタン最新公演の「ライブビューイング」を観てきました。10月6日にニューヨーク・メトロポリタン歌劇場で行われた公演の録画、スタッフ・キャストは以下の通りです。

 

指揮:ニコラ・ルイゾッティ

演出:ソニヤ・フリゼル

 

アイーダ:アンナ・ネトレプコ

アムネリス:アニータ・ラチヴェリシュヴィリ

ラダメス:アレクサンドロス・アントネンコ ほか

 

 今回の上演の圧倒的なレベルの高さについては、別の機会にゆっくりと論じたいと思っているが、とりあえず、感じたことを2、3書き留めておきたい。

 まず、一番に思ったことは、この『アイーダ』というオペラが、ヴェルディの作品群のなかで後期に属するのだということを、これほど強烈に感じた〈上演記録〉は、この日が初めてだったということだ。これは、細部の折り重なった旋律、各楽器の音色の描き分けの妙を的確に表現してのけたルイゾッティの指揮と、それに応えきれるメトのオケの技量の成果だ。ヴェルディのオペラにおけるオーケストラの響きでは、『リゴレット』以降、ことさらに近景と遠景のごとき音色と音量の描き分けが重要になってきた、と私は考えているが、それを明確に意識させられる上演記録が、ようやく登場したと思えた今回のメト公演である。これは、20年以上前のミラノ・スカラ座で、マゼールが実現しかけていた音楽の方向だと思うが、今回の成果は、メトの緻密なアンサンブルに負うところが大きい。

 そして、そうした精緻なオケの響きの中から立ち上がる各歌手たちの声の抜けのよさと見事なバランスに感動した。このオペラで最も重要なのは〈三重唱〉という音楽に際して、その構造を一転の曇りもなく聞かせることなのだ。アムネリス、アイーダ、ラダメス、今回のメトでのこのトリオは、しばらく、最強の組み合わせとなるのでは、と思った。

 そして何より嬉しかったのは、どうも最近は〈力づく〉で強引に歌うようになったかな? と少々疑問を感じていたネトレプコが、実に美しく軽やかで澄んだ声を響かせていたことだ。オケの繊細な響きに、しっかりと溶け込んでいた。

 こうした彼らの美質が最高度に発揮されたのが幕切れの地下牢の場面。これには思わず息を呑み、涙腺が熱くなってしまった。昨年のザルツブルクのムーティ指揮の『アイーダ』(NHKがBSで放映していた)が吹き飛んでしまった。(今回のメトの『アイーダ』は来年、WOWWOWで放映するはずだから、絶対にエア・チェック! である。)

 私は一足先にプレミア試写で鑑賞させていただいたが、本上映が、11月2日からの1週間、全国の指定映画館で始まる。これは必見だ。なお、東京・銀座「東劇」のみ、11月15日までの2週間の上映となる。

 

【追記】(2018年11月4日)

 このブログUP直後に、友人から電話をもらって「アイーダ、そんなに良かったのか」と問われたので、私の表現で伝え切れないところがあったかと思いながら、「三重唱」の聞こえ方を、私は思わず「きれいな三角形を描くように響く」と表現した。これは気に入った。じつは、その際に、ヴェルディの響きについて、私は以前、「誤解」していたというようなことを語った。そのことについて付け加えることで、私の真意がより伝わると思う。

 この「誤解」とは、あそらく大方のヴェルディ好きが高く評価している部分だ。とかく、元気がいいとか、勢いがあるとか言われる音楽傾向のことだ。わたしは、それをしばしば「せっかち」「ためが足りない」「おおざっぱ」と言っていた。ところが、ヴェルディの最後の作品『ファルスタッフ』を、最晩年のカラヤンが指揮したライブ映像で聴いて、その、あまりに室内楽的な精緻で軽やかで澄んだ音楽に耳を洗われた思いをして、あわてて様々なヴェルディ演奏を遡って聴きなおし始めたのは、ほんの2、3年前くらいからだ。そして、おそらく私と同じで、プッチーニ好きでヴェルディは苦手だったはずのマゼールが残した数少ないヴェルディ作品の録音・録画が、私に解答へのヒントを与えてくれた。明らかにマゼールは、カラヤンの『ファルスタッフ』が実現した世界を、今世紀に入ってからの『椿姫』の録画では目指しているし、古い『ルイザ・ミラー』のDG録音にも、その萌芽が聴かれる。

  多くの評者が、ヴェルディの演奏を語る際に「勢い」や「歯切れのよさ」を称えるのは私と真逆の評価だが、それを私は、100年以上にわたって続いたヴェルディへの大きな誤解の産物だと考え始めている。私が、先日のメトの『アイーダ』を高く評価しているなかで、「ムーティが吹き飛んでしまった」と書いたのは、そういう意味だし、ネトレプコが「力づくで強引な」歌ではなかった、と積極的に讃えたのも、すべて、そこから来ている。マゼールの『アイーダ』を引き合いに出したのも、そうしたことが背景だ。

 今年のメトの『アイーダ』は、ヴェルディの音楽が染みついている人々に、そのイメージへの大きな転換を迫り、目を開かせる公演記録のひとつなのだと思う。しばらく、こうしたヴェルディ音楽を牽引した指揮者二コラ・ルイゾッティのこれまでの仕事を振り返りながら、今後の動きを注目しようと思っている。

 ヴェルディも没後100年以上になって、やっと私たちは、新たなヴェルディ像にたどり着く入口に立っているのかも知れない。

 

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◇付記◇

 なお、今回の記事執筆を機に、当ブログに新たに「オペラ(歌劇)をめぐって」というカテゴリーを起こしました。冒頭、タイトルの下の日付右側のカテゴリー名称をクリックすると、これまでに私がオペラを話題にしたコラムがまとまって読めるようになりましたので、ご利用ください。

 

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「フルトヴェングラー、未完の大器」を再確認/F・ライトナーのブラームス/レイポヴィッツ指揮「幻想」

2018年06月28日 10時23分12秒 | 新譜CD雑感(クラシック編)
半年ごとに、新譜CDの中から書いておきたいと思ったものを自由に採り上げて、詩誌『孔雀船』に掲載して、もう20年以上も経ちました。2011年までの執筆分は、私の第二評論集『クラシック幻盤 偏執譜』(ヤマハミュージックメディア刊)に収めましたが、本日は、最新の執筆分で、今年上半期分。最新号のために書いたものですが、このブログに先行掲載します。なお、当ブログの、このカテゴリー名称「新譜CD雑感」の部分をクリックすると、これまでのこの欄の全ての執筆分が順に読めます。
 
■改めて「フルトヴェングラーは未完の大器であった」と確信

 一九五四年の初冬、七〇歳になる一年前という〈老年期〉に病に倒れて世を去った大指揮者フルトヴェングラーについて、私は、かつて「フルトヴェングラーは〈未完の大器〉だった」と書いた。三〇年以上も前、一九九〇年代の初め頃のことだ。趣旨はこうだ。「フルトヴェングラーは第二次大戦の終結まで、ナチの時代と共に歩み、その特殊な状況の中で無我夢中で指揮を続けた悲劇の音楽家だ。その彼が落ち着いて自己の芸術を本格的に検証し始めたのは、五〇年代に入り、LPレコードの登場で積極的に録音を行なうようになってからのことだ。それはフルトヴェングラーの音楽が大きく変わりつつあることを予感させる演奏を生み始めたが、その途上で世を去ってしまった」というものだ(拙著より引用)。録音技術が飛躍的に進化した現代では実感が湧かないだろうが、英EMIレコードのプロデューサーだったウォルター・レッグの回想に、一九五二年の『トリスタンとイゾルデ』全曲録音で、録音されたばかりの自身の指揮する音楽に耳を傾けるこの不世出の大指揮者の感嘆ぶりが記されている。録音嫌いだった彼は、この日以降、自身の指揮する音楽の客観化を急速に進めていったと、私は今でも確信している。第二次大戦終結までの十数年は、言わば〈ナチの時代という熱病〉に冒されていた歪んだ時代だったということだ。そのことは、一九三〇年代初頭の彼の録音に聴かれる鮮やかな隈取りの構築的な音楽づくりへの志向からも確認できる。「失われた二〇年」というものが、フルトヴェングラーにもあるということだ。だからこそ、このフルトヴェングラーの〈開眼〉からわずか二年半での死は、あまりにも早い。今回ドイツAUDITEから二枚組で発売されたCDは、フルトヴェングラーの死の前年一九五三年八月二六日に行われたスイス・ルツェルンでの音楽祭のライヴ収録。曲目はシューマン「マンフレッド序曲」ベートーヴェン「交響曲第三番《英雄》」シューマン「交響曲第四番」。「序曲」も含めた当日の全プログラムが収められた初の発売盤で、しかも放送局に残されていたマスターテープに遡ったという触れ込みで音質が飛躍的に改善され、「英雄」などは、客観化されたフルトヴェングラー芸術の偉大な成果と言ってもよいEMIの正規スタジオ録音と容易に比較試聴できるほどのものになっている。この「ルツェルンの英雄交響曲」は、テンポの自在な伸び縮みの天才的なドライブと伸びやかで輝きにあふれた雄渾さを確保しながら、内声部を濁りなく聴かせ隅々まで彫琢の限りを尽くそうとする強い意志の感じられる名演が繰り広げられている。しばしば、はやる心を落ち着かせようとするかのような足取りを聴かせるが、そこにも、自在なテンポの揺れがある。私は、久しぶりにフルトヴェングラーの天才的な音楽の自在さに触れて、改めてこの指揮者の〈早すぎた死〉を惜しんだ。シューマン「第四」は、DGGへのスタジオ録音の、いかにもワンテイクで即興的に採られたといった観のある録音と比較すると、曲想の変転とテンポ設定との関係性など、全体設計に格段の工夫の跡が聴かれる。特に第二、第四楽章の節回しに、それが顕著だ。ベートーヴェンのように堅固な構築性を保った音楽とは異なる、こうしたロマン派の不安定な音楽に対する方法論が確立しつつある予感を感じた。それは、私が今、新しい世紀を迎えてずいぶんと回り道をして戻りつつあると感じている、戦後の屈折したロマン派音楽演奏の歴史を一気に飛び越えてしまうものでもある。言うなれば、一過性の芸術である「演奏」と繰り返し再現される「録音」との接点を、どこに形成するかということだ。改めて、「フルトヴェングラー未完の大器説」を、声を大にして言う。

■N響ライヴシリーズでライトナーのブラームスアルバム登場
 この一、二年ほどの間、私は、この欄で「一筆書きの音楽」という言葉を幾度も使っている。カイルベルトについて書いたあたりからだ。そして、この数十年にわたって迷走していた西欧クラシック音楽の指揮者の在り様に希望を見出すとしたなら、オペラハウスでのライヴ感覚を武器にしたネゼ=セガンのような指揮者に可能性があるとも書いた。おそらく、そのことは、前項でのフルトヴェングラー再考とも深く関わっているし、皮肉なことには、昨今のレコード業界の不況からライヴ収録の編集ものばかりがリリースされていることとも、密接な関係がある。「完璧な録音」を目指したことで失ったものもある。もう三十年ほど昔に、私は、フランス系指揮者を論じる際に「劇場指揮者の系譜」という言葉を使ったが、今にして思えば、その時に、数多あるドイツの「劇場指揮者の系譜」にも目を向けるべきだったのだと思う。六〇年代以降、世界のレコード会社は、コンサート指揮者のスタジオ・セッションを中心に回り始めていた。フェルディナント・ライトナーも、そうした流れの中で軽んじられてきた指揮者のひとりである。その彼のブラームス交響曲一、二、四番、ドイツレクイエムといった大曲をNHK交響楽団で振った演奏が、三枚組アルバムとなって発売された。N響のブラームス「第一交響曲」と言えば、一九八七年定期演奏会での収録が、サヴァリッシュとの共演でソニーから発売されている。その切り立った大きな落差からくる〈静寂〉の巨大さには一歩譲るが、ライトナーの柔和で自然な運びが豊かに息づいた演奏である。カイルベルトのような「この人でなくては」という強い自己主張の指揮ぶりではないが、まちがいなく「音楽がそこに生まれている喜び」があふれている。
 
■レイポヴィッツ指揮の『幻想交響曲』復刻盤の存在意義は?

 ベルリオーズ「幻想交響曲」の名盤史については、私の音楽評論としては最も古いものの一つとなった文章がある。一九九〇年五月にクラシック新譜の紹介雑誌『レコード芸術』編集部の求めに応じて寄せたもので、後に私の第一評論集にも収録したものだ。今でも、そこで展開した見方に変更はないし、チョイスされた各盤にも、その後の登場したいくつかの問題提起を孕んだ盤をほんの少し加える程度で構わないと思っている。うっかり書き落とした演奏は無い、と断言してもよい。――ということは、この一九五八年に米ウエストミンスター社の末期に録音・発売されたレイポヴィッツ指揮ウィーン国立歌劇場管による録音は「選外」ということになる。いくつかの、レイポヴィッツが残した録音について書いたことはあるが、ひとつの時代の〈あだ花〉のようなところのある人で、決して長い歴史の中での普遍的な存在意義のある演奏を残した人ではないと思っている。ある時代に刺激を与えたことは事実だが、それは、果たして、今になって聴きなおす意味がどれほどあるのか、ということだ。最近、かつての時代の、こうした癖のある演奏を珍重する聴き手が増えているのかと思ったが、どうも、そうではないようだ。むしろ、次々に「聴き比べ需要」を開拓しなければならない売り手の側の趣味に、その原因があるようだ。私の所有している米盤LPレコードと聴き比べてみて、かなり音質的には優れたCD化だと感じたが、もっと地味でも、復刻する価値のある録音があると思った。レイポヴィッツは、シェーンベルクやウェーベルンに師事したという経歴から、「革新性」が神話化された指揮者だが、「やりたいこと」が散発的で、まとまりのある印象に欠けることが多い人だと思っている。
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カイルベルト1953年バイロイトの『指輪』全曲/ネゼ=セガン『メンデルスゾーン交響曲全集』/福原彰美『ブラームス小品集』

2017年12月15日 12時45分12秒 | 新譜CD雑感(クラシック編)

半年ごとに、新譜CDの中から書いておきたいと思ったものを自由に採り上げて、詩誌『孔雀船』に掲載して、もう20年以上も経ちました。2011年までの執筆分は、私の第二評論集『クラシック幻盤 偏執譜』(ヤマハミュージックメディア刊)に収めましたが、本日は、最新の執筆分で、今年下半期分。新春に発売される号のために書いたものですが、このブログに先行掲載します。(詩誌では字数制限に合わせて省略した部分がありますが、以下はオリジナル版です。)なお、当ブログの、このカテゴリー名称「新譜CD雑感」の部分をクリックすると、これまでのこの欄の全ての執筆分が順に読めます。

 

■カイルベルト一九五三年バイロイト《指輪》が超廉価で発売

 カイルベルトが初代音楽監督を務めたバンベルク交響楽団創立70周年記念のボックスアルバムを当欄で取り上げた時に、私は「一筆書きの音楽」という言葉を使った。この一九五〇年代には当たり前だった音楽が、その後の半世紀以上もの歳月を経てあらかた失われてしまったのを、私たちは体験してきたわけだが、そうした一筆書きの音楽が〈再生〉する可能性が、最近、ここかしこで予感されるようになってきている。次項で取り上げるネゼ=セガンもそのひとりで、ニューヨークのメト・オペラでのいくつかの公演を「ライブビューイング映像」で鑑賞して以来関心が高まってきたところで、メトの次期音楽監督就任が決まったとの報が入り、ますます期待が膨らんでいる。先日、来日して「NHK音楽祭」に手兵バイエルン国立管弦楽団を率いて参加したペトレンコもそうだ。これもまた、揺るぎない音楽が滔々と流れ続けて弛緩することのない大名演だったが、就任が決まっているベルリン・フィル音楽監督の地位が、この人の飾り気のない音楽の足かせにならないことを祈るばかりだ。少々脱線してしまったが、表題の「カイルベルト《指輪》全曲録音」の話題に進もう。これは、ワーグナー・マニアならご承知のように、五〇年代に毎年のようにバイロイト音楽祭で『ニーベルングの指輪』四部作を指揮していたカイルベルトの遺産のひとつだ。これもまた、滔々と流れる音楽が迸る名演である。じつは、カイルベルト/バイロイトの『指輪』四部作全曲(あるいは、その内のいくつか)の録音は他の年度のものがいくつも残されており、このあたりの情報に詳しい方ならば、五五年の「世界初のステレオ録音」の存在もご存じだろうと思う。数年前に突然「新発見」として英テスタメント社から発売されたので、購入された方も多いと思う。英デッカ社が当時の若きディレクター、ピーター・アンドリーに任せた正規のライブ収録だったが、アンドリーがこの直後に退社してライバルのEMIに移籍したせいか、あるいは、その後任として入社したカルショウが、スタジオ録音での『指輪』全曲録音をショルティ/ウィーン・フィルで企画したためか、お蔵入りとなっていたものだ。今回、私が取り上げるのは、それとは異なる五三年盤である。じつは、五五年ステレオ盤が登場した際、「全曲はともかく」と、少し遅れてだったと記憶しているが分売の『ワルキューレ』だけはしっかりと聴いてみた。そして、「ま、この程度のものか」といった感想で、そのままにしておいたのだ。今回、それよりも二年前の録音が、モノラルながら、全四部「ボックス入り12枚組」1800円程度で発売されたので、すぐさま飛びついて聴き比べたという次第。そして、本当のカイルベルトの真価に仰天したのだ。これこそが、「一筆書きの音楽」の神髄だ。わずか二年とは言え歌手も入れ替えがあり、同じ歌手では明らかな年齢的な衰えがあることも事実だが(五五年には第二キャスト盤もあるが、歌手陣は明らかに五三年盤が上。)、ひょっとすると、カイルベルトがマイクを意識しているのかと思うような取り澄ました部分が、この五三年録音には皆無だということが大きい。『ワルキューレ』は異演が多いから比較しやすいが、録音も優秀。五五年盤のステレオ音に負けていないだけでなく、第一幕冒頭からして、濃密な気配、空気感が凄い。ジークムントとジークリンデの二重唱から一気に駆け抜ける幕切れのアチェレラントの加速度では、名高いフルトヴェングラーのバイロイト『第九』を思い出させるほどのもの。この味わいは五五年盤では得られない。テスタメント盤で、言われているほどのものではないと思った方にこそ、聴いていただきたい貴重な遺産と信じて疑わない。

 

■ネゼ=セガンの「メンデルスゾーン交響曲全集」に聴く〈気配〉


 これは、以前当欄で採り上げた「シューマン交響曲全集」の姉妹編とでも言うべきもの。ヤニック・ネゼ=セガンがヨーロッパ室内管弦楽団を振ってのパリでの演奏会ツィクルスを収録したもので三枚組のアルバムである。ベートーヴェン以後、シューベルト、シューマン、メンデルスゾーンは、それぞれの苦悶の中で、ロマン派時代の交響曲の在り様を探り続けたが、それだからこそ、「全集」「全曲演奏会」といったアプローチには意味がある。『第1番』では、古典的なプロポーションからはみ出でくる音楽の軋みが興味深かったが、何といっても、新鮮な魅力に溢れていたのは『第2番《讃歌》』だ。この声楽付きの特異な音楽は全体をまとめ上げるだけでも至難の作品だが、例えばカラヤンの残した録音のように、優れた演奏からは極上の愉悦が得られる。比較的最近のものでは、私はクルト・マズア指揮ゲヴァントハウス管弦楽団の録音、エド・デ・ワールト指揮オランダ放送フィルの録音などが印象に残っている。端正な構築を聴かせるマズア盤、優美でしなやかなデ・ワールト盤に対して、このネゼ=セガン盤は深く沈み込んだ中からじわじわと音楽が立ち上がる〈気配〉が素晴らしい。「第2曲」で声楽が加わると、そのカラフルであたたかな色香にあふれた世界からは、それこそ、楽園に遊ぶかのような幸福感が現出する。前項のカイルベルトに続いて、ここでも〈気配〉がキーワードとなってしまったが、この曖昧で怪しげな言葉は、音楽の魅力を解く重要な要素なのだ。音楽が人の心の間隙に入り込む瞬間の秘密を解く鍵が、そこにある。そのことについて、引き続き、次項で考えてみたい。

 

■福原彰美が『ブラームス・ピアノ小品集』で新境地


 ハイドン、モーツァルトを経てベートーヴェンが飛躍的に表現力を拡大させてしまったピアノ曲が、シューベルト、シューマン、メンデルスゾーン、ブラームス等をどれほど苦しめて来たかを私たちの世代は知っている。それは演奏する立場にとっても同じ苦しみだったと思うし、その苦悶を私自身は、ずっと辿りながら聴いてきたと自負している。自問自答のように閉じたブラームスのピアノ曲では、ことさら、その演奏スタイルの歴史に関心があったが、ここ数年ではニコラ・アンゲリッシュの一連の録音に注目していた。このピアニストのくっきりとした音楽の小気味よさは、例えばウィルヘルム・ケンプが表現した夢見るような世界よりも、ずっと引き締まった音楽の魅力だ。そこから放射される光は、確かに隅々までよく照らしてくれた。だが、何かが足りない、と感じてもいた。それを埋めてくれたのが、私にとって身近な存在でもある福原彰美だったのは、うれしいことである。これまで何度となく書いたことだが福原のことは、たまたまの出会いがあって個人的にも、その音楽的成長を見続けてきた。その福原の久しぶりのソロ・アルバムが、これである。ブラームスのピアノ小品「作品七六」「一一八」「一一九」に加えて二つの歌曲が福原自身の編曲によってピアノで奏でられるという意欲的なアルバム。「Acoustic Revive」というレーベルからの発売で、Amazonなどの通販でも入手できる。福原のブラームスからは、大柄な巨匠芸への憧憬を断ち切った潔さから生まれる淋しくも儚いブラームスの音楽が、きらきらと輝いて香っている。ワレフスカという一筆書きの音楽を守り抜いた稀有なチェロ奏者とのデュオ以来、ローゼン、アモイヤルなど様々な名手との共演を重ね、音楽の根源的な気配、空気感を敏感に感じ取った若い才能が、私に問いかけてくるものは大きい。思えば、福原の演奏に最初に魅せられた際に、私は「彼女のピアノには、ある種の畏怖の感覚がある」と表現した。それは、薄氷の上を爪先立って歩くような繊細さとして、新しい感性だと讃えたものだった。ここ数年、彼女は、かつてのそうした美質から離れて、〈大きな〉音楽を目指していたように思う。その福原が、強い打鍵力に支えられた本物のピアニッシモを奏でる実力を手にして、還ってきたのだと思った。「作品一一八」冒頭の大きな音楽のうねりと繊細な内声部との共存に、福原の新境地が象徴的に生きている。

 

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バンベルク響17枚組ボックスの稀少録音/ドゥダメルの「ウィーン・フィル・ニューイヤー」/園田高弘とN響/堀米ゆず子とN響

2017年07月28日 16時04分16秒 | 新譜CD雑感(クラシック編)

半年ごとに、新譜CDの中から書いておきたいと思ったものを自由に採り上げて、詩誌『孔雀船』に掲載して、もう20年以上も経ちました。2011年までの執筆分は、私の第二評論集『クラシック幻盤 偏執譜』(ヤマハミュージックメディア刊)に収めましたが、本日は、最新の執筆分で、今年上半期分です。いつものように、詩誌主宰者のいつもながらのご好意で、このブログも掲載します。なお、当ブログのこのカテゴリー名称「新譜CD雑感」の部分をクリックすると、これまでのこの欄の全ての執筆分が順に読めます。

 

■バンベルク交響楽団の創立70周年記念17枚組CD
 ドイツ・グラモフォンのマークが付いているが、テレフンケン(テルデック)、アマデオ、オイロディスク、オルフェオ、BMG、ソニー、バイエルン放送の音源まで加わったもので、もちろん、このオーケストラの前身である「プラハ・ドイツ・フィルハーモニー」時代からバンベルクでの創設時の指揮者まで務めたヨーゼフ・カイルベルトの指揮も収録されている。このオーケストラは第二次大戦前、当時のチェコ=スロヴァキア共和国の首都プラハで、同地に在住のドイツ人によって結成され、それが戦後になってプラハが共産圏(いわゆる東側)に組み込まれる事態となり、それを嫌って西側に亡命した楽員たちがドイツのバンベルクで創設したオーケストラだ。その重厚で暖かな音色が、大戦後のベルリン・フィルをはじめとする機能美へと傾斜していったオーケストラ文化の転換期にあって、大げさに言えば〈タイム・カプセル〉のような独自の存在感を持っていたことを思い出す。それは、一九八〇年代半ば、ヨッフム指揮の時代くらいまでだろうか。結成後間もない五〇年代のクレメンス・クラウスの「ばらの騎士のワルツ」、スイットナーの「ペール・ギュント組曲」、フリッツ・レーマンの「幻想序曲《ロメオとジュリエット》」、フェルディナント・ライトナーの「ワルツ《春の声》」なども収録されているのがうれしい。常任指揮者就任の決定直後に事故で急逝してしまったケルテスのマーラー「交響曲第四番」や、相性の良かったケンペの「歌劇《売られた花嫁》ハイライト」やシューベルト「未完成」も貴重。今はすっかり失われてしまった〈一筆書きの音楽〉の勢いが、何よりも代え難い魅力となっている。

 

 

■ドゥダメルのウィーン・フィル2017「ニュー・イヤー」
 ウィーン・フィルも半世紀以上もの間に随分と変化して、往年の響きや艶が失われているが、それは〈仕方のない時代の流れ〉として、私は積極的に受け入れてきた。だからこそ、奇妙に前のめりの音楽で煽るカルロス・クライバーよりも、〈意識操作の果ての音楽〉に徹したマゼールのニュー・イヤーを高く評価していた。マゼールのような〈屈折した抒情〉がマゼール自身も晩年に気づいていたように、いつか突き抜ける道が開けることを信じつつ、いったい、それは誰の手で、いつのことだろうと思っていた。それが、ウェルザー=メストでもなかったのには拍子抜けしたわけで、あの借りてきたネコのような初登場はイケナイ。だが、ドゥダメルには目が離せなくなってしまった。じつは、このドゥダメルという指揮者がベネズエラのオーケストラを振った演奏で姿を現した時には、何か違和感を感じたのだが、今にして思えば、それは、オーケストラの側に、どこかしらの無理というか力みというか、自然な音楽の流れとは異質の何かが挟まっていたからだと思う。この若い指揮者の美質は、よく言われるような「ラテンの血がさわぐ」と言った言葉で語れるようなものではない。体全体からほとばしるように生まれ出る音楽の持ち主に〈借り物〉ではない真の音楽家集団が応えたのが、このニュー・イヤー・コンサートだ。かつて一九五〇年代から六〇年代に、ウィーン・フィルはいくつもの奇跡的な名演を残しているが、それは、いずれも一期一会の輝きだった。それと同じことが、ここでも起っている。聴いていて幸福になるCDである。「音楽は、これほどに自由なのだ!」と思わず叫びたくなった。


■園田高弘とサヴァリッシュ/N響のシューマン「協奏曲」
 このところ、ひんぱんにNHK交響楽団の演奏会記録がCD化されている。こうした放送局のアーカイヴ音源が登場するのは、各レコード会社が新譜を作る体力を失っているからに他ならないから、余り喜ばしいことではないし、いつも私が指摘しているように、磨き上げられた正規のスタジオ・セッション録音と異なり、演奏家の解釈の真価を問うものとしては「参考資料」といった受けとめが大切だという私の持論には変わりがないつもりだ。だが、この2枚組アルバムに収められたシューマンは強く印象に残った。園田高弘は、堅固な構築力を持った音楽を聴かせる数少ない日本人ピアニストのひとりだったと思うが、だからこそ、このシューマンの「協奏曲」の音楽の流れに乗せて、独特の夢みるような幻想性を生かすことが出来たのだろう。ずいぶんたくさんの演奏で、この曲を聴いてきたつもりだ。一番初めに聴いたのはリパッティとカラヤン/フィルハーモニア管のEMI盤。自在なピアノをしっかりと支える敏感な反応のオーケストラとの奇跡的な共演が生まれていた。それと音楽の方向は異なるのだが、園田のピアノにも、じつに豊かな夢があり、それがしっかりと微動だにしない土台の上にあることが感じられた。指揮を受けもつサヴァリッシュは、この一九六四年十一月がN響との初顔合わせだったという。力が漲っていながら感興にあふれた自在な伴奏が繰り広がるのは、すべてがうまく合致した瞬間がここに生まれているからだ。N響に対して次第に模範を示す教師然とした音楽が前面に出てくる以前のサヴァリッシュが、ここにいる。これは、セッション録音ではなかなか生まれない演奏の記録だ。

 


■堀米ゆず子とヘルベルト・ケーゲル/N響のシベリウス
 これもNHK交響楽団のアーカイヴからのアルバム。前項よりもずっと後の時期、最も古いものでも一九八〇年九月に行われたもので、曲目はシベリウス「ヴァイオリン協奏曲」。以下、八一年のドヴォルザーク、八七年のモーツァルト「2番」と続き、最後に二〇一〇年のベートーヴェンと、4つの「ヴァイオリン協奏曲」を収めた2枚組。独奏者は堀米ゆず子である。一九八〇年という年が堀米にとってどういう年だったかを、私は今でも鮮明に記憶している。エリザベート王妃コンクールでいきなり優勝し、すぐさま本選の演奏がレコード(まだCDが一般的になる前だ)で発売され、一躍、時の人となったのがこの年、まだ彼女が十八歳だったと思う。その曲目もシベリウスの「協奏曲」。もちろん伴奏は本選会場ベルギーの放送局の交響楽団だった。ヴァイオリン・ケースを抱えた彼女の写真を掲載したジャケットの「ドイツ・グラモフォン盤」が緊急発売されたのは日本だけだったはずだ。もちろん今でも持っているが、タワー・レコードからそのジャケットを復元したCDが発売された時にも、懐かしくて購入してしまった。スターン/オーマンディ盤でほぼ満足していた私が、この曲のたくさんの録音を収集するようになったきっかけがこの堀米盤だ。じつは、それ以来、この曲は女性ヴァイオリニストに合っている、とも思っている。それほどに堀米のインパクトは強かった。その本選から数ヶ月しか経ていない凱旋公演のひとつをこうしてCDで聴けるとは思っていなかった。本選よりも一段と確信を持った骨太の音楽が艶やかに奏でられる。それを受ける指揮者がヘルベルト・ケーゲル。これは凄い!

 

 

 


 

 

 

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METライブビューイング「エフゲニ・オネーギン」を観て――これは「新しい音楽が生まれる軋み」なのか「勘違いの駄演」なのか

2017年05月24日 17時50分33秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

 先日、東京・東銀座の「東劇」で「METライブビューイング」の新作、チャイコフスキー『エフゲニ・オネーギン』を観た。ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で4月22日に公演されたばかりのもので、キャスト・スタッフは以下のとおり。

 

オネーギン:ペーター・マッティ

タチヤーナ:アンナ・ネトレプコ

レンスキー:アレクセイ・ドルゴフ

オリガ:エレーナ・マクシモア ほか

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指揮/ロビン・ティチアーティ

演出/デボラ・ワーナー

 

 オネーギン役が、当初に予定していたホヴォロストフスキーから、この役を歌い込んでいることで知られるペーター・マッティに交代しての上演だったが、メトでは初となるネトレプコのタチヤーナが、ひときわ話題になった公演である。ネトレプコは確か2年ほど前から、この役に取り組んでいたと思うが、私は初めて聴いた。指揮は若手のティチアーティで、最近、グラインドボーンの指揮者に就任したという。

 公演の仕上がりとしては、演出も、舞台装置、衣装もそれなりにオーソドックスでまずまずのものだが、私としては、愛蔵盤レーザー・ディスクのシカゴ・リリック・オペラの1984年の記録の壮麗な舞台に及ぶものではないと感じた。そして、肝心の、音楽の仕上がりに、今回のメトの公演には、大いに疑問が生まれた。

 もともと私は、前述のシカゴ・リリック・オペラにおけるフレーニ、ドヴォルスキー、ギャーロウというベストと言ってよいキャストを得てバルトレッティの指揮する音楽が、このチャイコフスキーの特異なオペラ世界を見事に伝えてくれていると思っていたので、少々、勝手が違った、というのが正直なところだ。

 私は、『エフゲニ・オネーギン』は、オペラ作家としてのチャイコフスキーにとって、いわば、習作というか、試作品の類だと思っているのだ。すなわち、チャイコフスキーの〈本格的なオペラづくり〉は、これに続く『オルレアンの少女』を経て『スペードの女王』で開花し、次の『イオランタ』で、完全にチャイコフスキー流のオペラ書法が完成した、ということだ。それは、ちょうどバレエ音楽が『白鳥の湖』ではパリ伝統のバレエ音楽の書法からかなり逸脱した奇形さをともなっていたのに対して、『くるみ割り人形』や『眠れる森の美女』では、ずっとバレエ音楽の書法がこなれてきたのに似ている。チャイコフスキーは、オペラもバレエも、最初は劇音楽としては奇異なくらいに変則的な、シンフォニックな音楽として書き始めている。

 じじつ、チャイコフスキー自身も、『エフゲニ・オネーギン』を「オペラ」と呼ぶことに疑問を感じたのか、「叙情的シーン(場面/情景)」と名付けている。このオペラを観る者は、このことを忘れてはならない。

 バルトレッティの指揮するオーケストラの響きを聴いてみて欲しい。そこでは旋律がこだまのように響き合い、歌手たちのアンサンブルが溶け合っている。この対話の多いオペラが、声とオーケストラの響き全体の中から生まれ出てくることが、第一幕冒頭のタチヤーナとオルガの対話、夫人と乳母の対話から、すぐに、「それ」と伝わってくる。だから、各幕がそれぞれ、ひとつながりの抒情詩のようにしみ込んでいるチャイコフスキー音楽の特徴が生きてくるのだ。

 こうした演奏スタイルは、おそらく、それなりの歴史を持っているはずだ。1958年にヴィシネフスカヤをヒロインに得て巨匠ボリス・ハイキン指揮ボリショイ歌劇場管で録音されたものは、私自身はもう50年近く昔に抜粋版のメロディアのLPレコードで聴いたのが最初だが、レーザー時代の到来で、「オペラ映画版」で全曲を手に入れたのは、ずいぶん後のことだった。そして、同じ時期には、名盤として名高いショルティ指揮コヴェントガーデン歌劇場の録音も、同様に音源の転用による映画版が発売されている。シカゴ・リリック・オペラのものは、初の公演ライブ収録版だったと思う。だが、いずれの演奏も、私が指摘する特徴を、大なり小なりとも持っている。おそらく、それが、この曲(オペラ)演奏のコンセンサスだったと思う。つまり、「わかっている人」は、皆、そうしていた――のではないだろうか? 念のため、1988年のトモワ・シントウが歌うエミール・チャカロフ指揮ソフィア音楽祭の録音も引っぱり出したが、いささか乱暴ではあっても、傾向は同じだ。

 だから、私の知る限り、今回のメトの音楽づくりは、かなり異質なものだと言ってよい。それが、率直な感想である。

 当日の私のメモには、こんな言葉が踊っている。

――それぞれの歌声が溶け合わず、それぞれの個人のキャラが立っている

――チャイコフスキーの、この曲の特徴が生かされていない

――グランド・オペラに近づけてしまった?

――グランド・オペラ風な転換にはムリがある

――1幕2場のネトレプコの絶唱は凄いが、シンフォニックなつながりが途絶える

――指揮者が、個人プレイの歌手たちを御し切れていないのか?

 じつを言うと、このメモ断片の終わりの2行あたりから解き明かしていこうと、昨日の夕刻までは考えていたのだ。だが、「ひょっとすると、これは、あたらしい『エフゲニ・オネーギン』が生まれるための軋みなのかもしれない」と思うようになったのは、ベテランのマッティが幕間のインタビューで洩らしたひと言が気になっていたからだ。このオネーギン役を何度もこなして当たり役としているマッティが、代役に刈りだされて初めて組んだネトレプコのことを、「彼女がグイグイ押してくるので、自分の音楽が変わった」というようなことを言っていたのだ。

 だから、一晩の間に私のなかに大きな「?」が育ってしまったのだ。

 このチェイコフスキーの〈習作〉〈試験的作品〉であるはずの『エフゲニ・オネーギン』から、その底に眠っているものを抉り出そうと、ネトレプコや若い指揮者がチャレンジしていると見るか、あるいは、わかっていない歌手のわがままと、それを抑え切れなかった未熟な指揮者とによる破綻と見るか、ということだ。

 これは、この音楽の最近の演奏をたくさん探し出すと同時に、おそらく来年になってから「WOWOU」でオンエアされるはずの今年のメト公演を、何度も鑑賞して確かめるしかあるまい。

 

 (じつは、先日「WOWOW」で再放送された『メリー・ウィドウ』を見て、最初の印象とかなり違っていることに気付いて、ちょっと反省し、弱気になったことが関係している。これについては、いずれ、別の機会に。何はともあれ、私は、やはり、「繰り返し視聴」の〈音盤派〉なのだと、そして、「聞き比べ」の〈推敲派〉なのだと思い知った。第一印象だけに頼ってはいけないのだ。)

 

 

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