竹内貴久雄の部屋

文化史家、書籍編集者、盤歴60年のレコードCD収集家・音楽評論家の著作アーカイヴ。ときおり日々の雑感・収集余話を掲載

竹久夢二の表紙絵で知られる「セノオ楽譜」の、黎明期の謎を追って…

2013年02月23日 15時47分14秒 | 「大正・昭和初期研究」関連

 先日、この場でも書きましたが、来月から2ヵ月間ほどにわたって開催される『セノオ楽譜と大正クラシックス』と題する美術展の準備に追われています。展示品の選択と、その構成は決まりましたし、整理して現地に送りましたが、掲示する解説パネルの原稿が、まだ終わっていないのです。
 先日は「関西方面」などとあいまいな表現で済ませてしまいましたが、場所は、四国・松山の「高畠華宵・大正ロマン館」です。ご興味のある方は、ぜひお出かけください。ひょっとすると、私が、1、2回、関連講演のトークをすることになるかも知れませんが、その場合は、もちろん、この場に告知します。
 会場のご案内HPは、下記です。
 http://www.kasho.org/bijutsukan.html 
 「セノオ楽譜」というと竹久夢二を想起される方が大半でしょう。そのこと自体は間違いではありませんが、それは、「大正時代」という、日本の近代化過程のなかでひときわ力強く動いていた時代の中に置いてみてこそ、ほんとのおもしろさが見えてくるのです。「日本人の西洋音楽受容史」研究という、もうひとつの私の関心事の次の一冊として書き上げたい本の原稿の一部として、書き始めています。
 実際の完成した本の中で、どのあたりを占めることになるか、まだわかりませんが、本日は、とりあえず書きあげた原稿の一部を公開します。(ここだけでも、私としては、かなり大胆な新説だと自負しています。)


セノオ楽譜のはじまり
 「セノオ楽譜」とは、妹尾幸次郎(ペンネーム:妹尾幸陽)が設立した「セノオ音楽出版社」の発行したA4判よりやや大判の楽譜書。明治末期に発刊の準備が開始されたようだが、正式な会社設立は大正4年(1915年)と言われている。翌年、大正5年4月に発行された「セノオ楽譜 第12集 お江戸日本橋」の表紙絵を竹久夢二が担当。以来、音楽好きの女学生を中心に人気が沸騰、わずか10年ほどの短期間に800点を越える膨大な出版点数を数えるに至った。西洋音楽の民衆への普及に与えた影響は大きかったが、昭和初期には、衰退が始まった。その理由は――

1)レコードの普及……電気吹込技術の発明による音質の向上や、昭和2年(1927年)以降の、国内プレス工場の操業開始などが普及のきっかけだった。
2)ラジオ放送の開始……NHKの前身、中央放送局が東京・名古屋・大阪で放送を開始したのが大正14年だった。
3)無声映画から音声付き映画へ……最初のサウンドトラック映画がアメリカで製作されたのは1928年(昭和3年)。以後、映画はレコード、ラジオとともに、音楽普及の有力な媒体に躍り出た。

――以上の3点に集約されるだろう。
 セノオ音楽出版社を設立した妹尾幸次郎は明治24年(1891年)生まれと言われているから、会社設立時にはまだ20歳代前半だったことになる。詳細な経歴はわかっていないが、慶応義塾大学に出入りしていたようで、そこで、黎明期の西洋音楽愛好家と接点を持ったと思われる。その後、時事新報社の記者となったとされるが、初期の「君が代」制定に絡んで、軍楽隊を指導していたフェントンの直筆譜を書き写して発表した「一記者」と伝えられる人物が妹尾幸次郎だったという証言もあることから、音楽記者として採用されていた可能性が高い。音楽方面の取材を続ける過程で、何らかの音楽界人脈を築き上げていったのだろう。
 現在、セノオ楽譜第1集として伝わっているのは『ドナウ河の漣』で、「明治43年7月1日初版」と記された奥付を持つ大正中期に印刷・発行された重版が、いくつも発見されている。続く第2集が『軍艦行進曲』で、これも初版発行は同じ「明治43年7月1日」と記載され、第3集『君が代行進曲』が「明治44年3月25日初版」とあるのに、第4集『夜のしらべ』は突然「大正4年9月25日初版発行」となる。
 一方、第1集『ドナウ河の漣』とまったく同一の表紙絵、ウラ表紙絵を持つ「音楽社出版部」発行の『月刊西欧名曲叢書第十四輯 ドナウ河の漣』という大判の楽譜書が存在していることが最近わかった。ウラ表紙に印刷された解説文もまったく同じだが、編集発行印刷が「音楽出版協会 武内粛蔵」となっており、発行日は「大正4年9月10日」で、初版か、重版かは明示されていない。そしてさらに、この「月刊西欧名曲叢書」というシリーズが明治43年から45年に数冊刊行されていること、その間のいくつかに、解説者として妹尾幸次郎の名前が見られることも分かってきた。
 このことから、まだ推論の域を出ないが、以下を提示する。
 
 1)「セノオ楽譜」の前身として「西欧名曲叢書」というシリーズがあった。
 2)何らかの分離独立が図られ、妹尾幸次郎が大正4年に会社設立に踏み切った。
 3)その時点では、まだ妹尾が過去に関与した曲譜の権利が妹尾にはなかった。
4)おそらく大正6年頃に、やっと解決が図られ、先の3点のみ出版権が妹尾に移った。
5)妹尾は、初版発行日を、前身の「西欧名曲叢書」時代にまで遡って表記した。
6)この時に通し番号制を開始し、最初のセノオ楽譜「夜のしらべ」を第4集とした。
7)第1~第3集の、「明治期の印刷・発行日を持つセノオ楽譜」は、存在しない。
8)大正9年の第220集あたりに、突如「明治44年初版」のものが数点現れるのは、前記の曲譜権利返還の追加があったからではないだろうか?

 この「8」で追加された明治期初版と記載されているのは『凱旋ポルカ』、『海軍行進 敷島行進曲』といった曲目で、先の第2集、第3集と共通して軍楽隊系列の音楽であることが興味深い。妹尾幸次郎は、明治末期の日露戦争後に日本を覆っていた愛国精神を鼓舞する「少年文化」の流れの中で、楽譜出版を発案していたと言ってよいだろう。
 では、なぜそのセノオ楽譜が、大正文化を解くキーワードともなっている「少女文化」のシンボルに変化して行ったのだろうか?


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。