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「えびな書店店主の記」から思い出したことなど――山田俊幸氏の「病院日記」(第14回)

2011年11月01日 11時21分41秒 | 山田俊幸氏の入院日記



 以下は山田氏から私の携帯に、10月5日に送信されてきたものです。

[私の余計な付け足し]
 今回分では、明治、大正期の作家・芸術家たちの底流にある「男色傾向」というか、そうした風潮――最近、私が愛用する言葉で言えば「時代の気分」とでもいったことに関しての発言と証言が、とても懐かしいものでした。私自身にも記憶や実感のあるエピソードなのです。私自身は昔から、そして今でも、「クリエイテイヴな人間は異性に煩わされるより、同性ととことん自分の内面世界を極めようとする者が多い」と思っていますから、それほど特別な事とは思っていません。ただ、それぞれの時代に、それなりの特徴があったとは思います。
 初めの方に出てくる「伊勢丹の古書市」は、そのころもう私は中古レコードのコーナー方にばかり行っていました。今にして、惜しいことをしたと思わないでもありませんが、山田氏と私との基礎的な蓄積の差とか関心の方向の違いは、既にこのころ始まっていたのだとも思いました。(by 竹内)


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寝たまま書物探偵所(14)・・・「えびな書店店主の記」 by 山田俊幸

 先日、病院に見舞いに来てくれた丸橋さんが、蝦名規『えびな書店店主の記』(港の人・四月と十月文庫1、2011年6月26日発行)を持ってきてくれた。えびな書店の目録『書架』の後書きを中心にまとめた本だ。
 わたしがえびな書店を知ったのは、たぶん伊勢丹の古本市ではなかったかと思う。それも、その古本市の始まりの頃だったろう。その頃の伊勢丹は版画堂さんなんかも出ていて、絵に興味のあるわたしなどには出物の多い古本市だった。そんな中で、えびな書店は、画家の片鱗の伺える装幀画だとか、書簡の類が、わたしなどにも買える値段で出ていた。そういう点、まことにありがたい本屋さんだった。まだまだ、肉筆画は、どの画家のものでも高価な時代だったから。
 伊勢丹のえびな書店からは、細々(こまごま)としたものをずいぶん買わせてもらった。当時、入れ込んでいた富田渓仙の年賀状とか、岡鹿之助の装幀原画とか、橋本関雪が外遊中に日本に連れて来たドイツ少女のインサイダー書簡とか、じつに様々で多様なものをもとめた。もっとも、そうしたものをじゅうぶんにその後生かしきれてはいないのが悩みだ。だけれども、今年の暮れ、岡鹿之助だけは上原近代美術館の岡鹿之助展で、ようやく展覧されるらしい。それが、多少の救いになるかもしれない。

 蝦名さんの書いた本は、『書架』で一度は読んだもののはずだが、また一冊本にまとまってみると、けっこう新鮮だった。自分の古本体験、あるいは記憶とクロスする部分もある。こういう本は、そうした面白さなのだろう。
 例えば、こんな話が出ている。会津八一が好きな蝦名さんは、「会津八一とリヒテル」で、「またその書簡に充ちている厳しさと優しさもわたしを酔わせる。人間として立派なのである。(略)早稲田のある先生が、同人雑誌にせよ八一男色説を唱えているのを読むのは、いささか不愉快なのである」と書く。それに異論はないのだが、蝦名さんを不愉快にさせたのは、早稲田の先生である丹尾安典先生。同人雑誌とは、『一寸』だ。それにはわたしも参加しているからなんとも微妙な位置にいる。丹尾の男色説が違うというだけの論拠があるわけではないし、事実で言うならば、いくつかの本を読むなら、あるいは多少そうした傾向があったのかもしれない。だが、それは明治に生まれ大正に芸術家として活動した人達に共通した「趣味(テースト)」だったろうと、わたしなどは考えている。
 わたしが学生の時、『文藝春秋』だったかに、折口信夫のそうした傾向を書いた「我が師折口信夫」という小説が出され、スキャンダル的話題を呼んだことがある。学生たちの噂は短絡的である。話題は、折口門下の先生方に及び、消息通だった死んだ横田章はいかにも見てきたように、折口信夫と西角井正慶と高崎正秀の話をしていた。「三人で学校の門を出て、渋谷の駅まで歩いて行くんだそうだ。そしていつも駅にくると、高崎帰れ、西角井来い、と言うんだそうだ」と。横田の話が見てきたようだったのは、父親が同じ國學院だったからだろう。この話も、父親世代の噂だったにちがいない。そんな横田も、いつも一緒に連れ立って行動をしていたわたしと、あの二人おかしいんじゃないのと女子学生から噂されていたのだから、らちもないことだ。
 あの出版に関してみごとだったのは、岡野弘彦さんだった。岡野さんは最後の内弟子で、雑誌が出た直後から学生たちからはあれこれと取り沙汰されていた。わたしたちは岡野さんの新古今和歌集の講義を受けていたが、講義に入る開口一番、雑誌のことに触れ、「わたくしの時には、そうしたことはありませんでした」と、その時だけはしっかりと学生の顔を見ながらしゃべり、その後は天井を見ながら語るいつものスタイルで、講義に入った。忘れられない瞬間である。
 こんな折口信夫の傾向は、じつはこの時に初めて明かされたことではなく、室生犀星がすでに書いていたことを後で知ることになる。『我が愛する詩人たちの伝記』の中でだ。
 その犀星にしても、萩原朔太郎との間でそんな傾向があったことを、日夏耿之介が書いている。朔太郎が、鎌倉の日夏をしきりに訪ねた時期があったらしい。そんなあるとき、日夏のもとに突然犀星が来て、「ぼくは君に嫉妬を感じるな」と言って帰ったと言う。
 良し悪しは別だろう。江戸時代の武士階級の共同、協力という一体意識「一所懸命」には、この男色関係が大きく関与していると、いつか滝川政次郎先生から聞いた。同心という組織は、まさにそれ(男同士の恋愛関係)を人工的に作った組織だと言う。明治の近代化で、その男色は表面上は消えたようにみえる。だけれども、大正に入ると新しい宗教も含め、小さな閉じたセクトやコロニー、友人関係といったものが芸術家を大きく育てることになる。こうした強い人間関係には、男色的な親密な要素が多少必要だとも言えるだろう。大正時代にあらわれた「趣味(テースト)」と言ったのは、そうした意味である。スキャンダル的な男色論は噴飯だが、考えるべきことではあるのだ。

 蝦名さんが中央公論の画廊でやった青山二郎の装幀展も見た。その時は、だれが集めたのか知らず、すごいものだと思った。1989年のことらしい。
 1992年の『書架』の第十五号には、カラーで古賀春江の水彩画が出ているという。これは、前の年だかの錦糸町西武の古本市で出たものだろう。そこでは、「山田さん、一足ちがいで古賀春江を逃しましたね」と言ったのは、岩切信一郎君だったかもしれない。錦糸町西武は、源喜堂書店が目録から当日の出物まで、びっくりするような価格で出品するので、わたしたちには有り難い古本市だった。そこに、なんと古賀春江が出たというのだ。「あまり面白くない水彩画だったけれど、中川紀元の鑑定がありました」とも言われた。値段も、二十万前後のようで、いかにも源喜堂らしい値付けだった。これは目録にはなかったから、会場で追加されたものにちがいなかろう。誰が買ったのかなあ、と聞くと、蝦名さんだと言われた。わたしが行った時には蝦名さんの姿はなかったから帰った後だったらしい。
 これについては、本の二カ所で触れている。「古賀春江の水彩画を得てしばらく掛けていたことがある。いずれを表と裏にすべきか分からないが、とにかく一枚の片面には短い髪の自画像、もう一面には風景が描かれていた。パウル・クレーを知る前、シュルレアリストの一人に後年組み入れられるとは本人も予測がついていない、やや腺病質らしい十六、七歳の面貌がそこに映し出されていた。自画像が四、五点しか確認されていない古賀の発展を知る貴重な資料であるには違いないが手元に残そうという気は起こらなかった。」(「原勝四郎の絵を見た最初」)と書いているのがそれだろう。そしてそれは、目録の「カラーに古賀春江の十六、七歳ごろの水彩の自画像を載せていますが(裏が風景で、中川紀元のシールがついていました)、これは即売会で見つけたものです。利をむさぼろうとしたのが天の罰するところとなって売りあぐね、結局地元に近い美術館に寄贈するところとなりました。」(「開業二十年まで」)と、美術館に収まったらしい。岩切信一郎君の言うように山田にはまったく残念だったが、結果は蝦名さんのもとに行ってよかったのだ。

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