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クルレンツィス指揮『マーラー第6番』/プロッセダ『メンデルスゾーン《ピアノ協奏曲》』/グロメス『ロッシーニへのオマージュ』

2018年12月27日 15時10分07秒 | 新譜CD雑感(クラシック編)

半年ごとに、新譜CDの中から書いておきたいと思ったものを自由に採り上げて、詩誌『孔雀船』に掲載して、もう20年以上も経ちました。2011年までの執筆分は、私の第二評論集『クラシック幻盤 偏執譜』(ヤマハミュージックメディア刊)に収めましたが、本日は、最新の執筆分で、2018 年下半期分。年明けに発行される最新号のために書いたものですが、このブログに先行掲載します。なお、当ブログの、このカテゴリー名称「新譜CD雑感」の部分をクリックすると、これまでのこの欄の全ての執筆分が順に読めます。

  
■「劇場指揮者の時代」を再確認させるクルレンツィスのマーラー
 

 いよいよ「平成」の時代が終わろうという時に、思いがけないCDに出会った。テオドール・クルレンツィス指揮ムジカエテルナによるマーラー『交響曲第6番《悲劇的》』である。このCDについて書く前に、私とマーラーとの出会いについて書こうと思う。じつは、私が初めてマーラーの音楽を聴いたのは1960年代の半ば、まだ中学生だったころだ。テレビで読響のコンサート番組が放送されていて、当時常任指揮者だったウィリス・ペイジが『交響曲第1番《巨人》』を採り上げたのだった。確か、ブルーノ・ワルターの同曲のステレオ・レコードが初発売され話題になったのと、ほぼ同時期だったはずだ。おそらく彼の活躍していたアメリカではマーラーを演奏会で採り上げるのは普通のことだっただろう。しかし当時の日本は、まだそれほどではなかった。マーラーは「新時代の音楽」だった。このことは、日本人の「西洋音楽受容史」に関心を深めて執筆を続けている現在の私の、音楽文化史家としてのスタートラインとも密接に関わりあっている。「西洋音楽とは何か」がまだ完全には醸成されていない中でマーラーは、正に衝撃的な「新時代の音楽」だった。そして、マーラーがロマン派の音楽に屈折した心情を持ち込み苦悩してゆく過程を追体験していったのが私自身の青春時代だった。だが、そうした私のマーラー観は、戦後という時代を象徴的に体現して世を去った天才指揮者ロリン・マゼールの演奏スタイルの変遷を追っている内に、存外、私個人の思いではなく、誰にも当てはまる十九世紀的ロマン主義への憧憬ではないか、と思うようになっていった。だから、もう二十年ほども前になってしまったが、「BBCラジオ・クラシックス」でクルト・ザンデルリンク指揮のマーラー『交響曲第9番』の感動的名演が発売された際のライナーノートへの執筆で、私は思わず「大丈夫だよ、マーラー。僕らは、まだ生きている」と涙しながら書いてしまったのだった。それほどにマーラーは、私たちの時代の生き方に示唆を与える存在だった。では、私がマーラーを初体験した中学生時代よりさらに十年ほど遅れて1972年に生まれたクルレンツィスは、マーラーについてどう語っているのだろう。クルレンツィスは言う。「マーラーにあったある種の新鮮さは、時とともに損なわれ、枯渇していった。」何ということだ! これが、マーラーが当たり前になった今日の彼の立ち位置なのだ。彼は言う。「マーラーが、未知の作曲家なら、もっとよかったのに。」私はひそかに、ほくそ笑んだ。彼は私のようなマーラーとの出会いがしらの感動を体験していない! さて、そんな彼のマーラーは、実に快調である。例えば、バルビローリ指揮ニュー・フィルハーモニアの1967年録音に聴かれる慈しむような、優しい歌い上げは皆無だ。ざっくりと切り立った鋭さから、悲痛な叫びが突き上げてくる。その聴いていて思わず身を乗り出し、ぞわぞわとしたものが込み上げてくる自然な劇性は、彼自身が何んと言おうとも「新鮮」そのものだ。私は、バーンスタイン以後、マゼール、ブーレーズなどが、そして最近ではサイモン・ラトルが苦闘してきたマーラー像の結実が、いとも簡単に起こってしまったことに愕然とした。思えば、クルレンツィスもまた、私がこのところ言及し続けている「劇場指揮者」の系譜に属するひとりだ。やはり、レコード録音の全盛期という「20世紀」に生まれた「スタジオ録音とコンサート指揮者偏重の時代」に失ったものがあったのかも知れない、と改めて思った。
 
 
 
■プロッセダが「雄弁」に語るメンデルスゾーン『ピアノ協奏曲』
 

 『ピアノ協奏曲第1番』は、見つけると必ず買い求める曲のひとつになっている。LPレコードの時代からなので、もう相当なコレクションになってしまった。決して同曲異演のそれほど多い曲ではないから、ほとんどすべての録音を購入していると思うが、そこに新たに加わったのが、このロベルト・プロッセダのピアノ、ヤン・ウィレム・デ・フリエンド指揮ハーグ・レジデンティ管弦楽団による新譜である。この曲は、明らかに若書きの「青春の音楽」である。だから、ともすれば粗削りで、勢いに任せて突き進むスタイルの演奏に寛容である。私の知る限り、その方向であっという間に駆け抜ける演奏をやってのけて、「青春」を偽装した最初の巨匠はルドルフ・ゼルキンだと思う。だが、私はそれよりもずっと構成感を大事にして丁寧に弾いているレーヌ・ジャノーリの演奏が好きだった。あるいは、クリスティーナ・オルティスの柔らかで繊細な世界も好ましかった。今回のロベルト・プロッセダ盤は、とてつもなく丁寧な演奏だ。この曲の独奏ピアノが、これほどに多彩な色を弾き分けて素早く叩かれたことはなかったように思う。ピアノの音のひとつひとつがはじけ飛ぶようだ。それに呼応してオケも細心の注意を払っている。そこから生まれる緊張感の持続。息を詰めて聴き終えてしまった。もしこの演奏に不満があるとすれば、アゴーギクにまで工夫の限りを尽くすピアノによって、最後まで開放されることがないことかも知れない。大人の雄弁さなのである。
 
 
■グロメスがロッシーニの魅力をチェロで伝える魅力的なアルバム
 

 ロッシーニのメロディの魅力には独特のものがある。ショパンの有名な変奏曲もそうだが、これまでにも多くの作曲家がロッシーニへのオマージュで作品を残している。ラファエラ・グロメスという女性チェロ奏者による『ロッシーニへのオマージュ』と題されたこのアルバムは、ケルン放送響の伴奏によるものとユリアン・リームのピアノ伴奏によるものが混在し、どちらのロッシーニのメロディも、そのリームが編曲を手掛けているほか、オッフェンバックによる『チェロと管弦楽のための幻想曲《ロッシーニを讃えて》』、ピアノ伴奏によるマルティヌーの『ロッシーニの主題による変奏曲』も収録したアルバムだ。どの曲もグロメスのよく歌うチェロの自在さが温かく、心地よく聴ける。ロッシーニ『スターバト・マーテル』の最もオペラティックな歌《苦しみ悶え》は、原曲のテノールよりも彼女のチェロの歌のほうが相応しくさえ感じる。オッフェンバックの愛情あふれる作品の豊かな歌と軽やかなリズムによる様々なロッシーニ・メロディの引用も楽しい。様々なオペラの場面が目に浮かんできて、思わず浮き浮きとしてくるから不思議だ。また、ロッシーニ晩年の名作『老いのあやまち』の第十巻から「一滴の涙」が、チェロとピアノのバージョンで収録されているが、そのしっとりとした歌には思わず「これはチェロのために書かれた曲だ」と納得する。様々な楽器によるロッシーニ・メロディの妙技を聴いてきたが、これは確実にお勧めの一枚である。
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