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期待を裏切られた2018-19METライブビューイングの『カルメン』、指揮者の力量に疑問

2019年03月13日 14時52分09秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

先日、もはやメトロポリタン・オペラの「定番」と言っていいリチャード・エア演出の『カルメン』が、今期はヨーロッパ各地で好評のクレモンティーヌ・マルゲーヌのカルメン役で上演され、その2月2日公演が、さっそくライブビューイングで上映されている。私は今週の月曜日3月11日に鑑賞した。スタッフ・キャストは以下の通り。

 

演出:リチャード・エア

指揮・ルイ・ラングレ

 

カルメン:クレモンティーヌ・マルゲーヌ(メゾソプラノ)

ドン・ホセ:ロベルト・アラーニャ(テノール)

ミカエラ:アレクサンドラ・クルジャック(ソプラノ)

エスカミーリョ:アレクサンダー・ヴィノグラドフ(バス)ほか

 

 歌手は、それぞれ、それなりに好演だったと思う。ところが、全体の印象というと、これがいけない。各々が個人プレイが突出していて、オーケストラの動きに溶け合わないのだ。と、いうより、オーケストラの響きが、歌手を大きく包み込んで舞台を動かすという感じがないので、とにかく、音楽がバラけて聞こえ、アンサンブルとしてまとまっていない。要するに、集中力がないのだ。ベテラン、アラーニャのドン・ホセを中心に、カルメン、ミカエラ、エスカミーリョそれぞれをあいてに二重唱あとまりはいいのだが、それがアンサンブルとして集中した高揚感が生まれてこない。これは不思議な感覚だ。メトの公演の収録映像で、これほどイライラしながら見たのは、ほんとうに久しぶりだ。

 ルイ・ラングレの指揮ぶりに原因があるのだと思う。各幕の前奏曲など、丁寧なのはいいのだが、音楽のラインがレントゲン写真のように骨格が透けて見える鳴り方で、アリア的な部分からレチタティーボ旋律に別のメロディラインでドラマを煽るところに移るあたりで音楽的につながらず、ブツンブツンと途切れてしまう。ビゼーのメロディラインを大きく動かしてゆくドラマチックな逞しさが消えてしまっているというか、全員でひとつのものに向かっていくといったまとまりが、聴こえてこないのだ。少なくとも、一昨日、鑑賞した限りでは、そうとしか感じられなかった。これは、来年、WOWWOWでの放送をチェックして、確認しなくてはならない。ルイ・ラングレの音楽づくりは、一昨日、東劇での上映を1回だけ鑑賞した限りでは、きちんとしていて、きれいに整理整頓された音楽によって、全体のバラバラ感が際立ってしまったように思う。

 翌日、同じ演出のメトでの2009年公演(ネゼ=セガン指揮、ガランチャのカルメン、アラーニャのドン・ホセ)の推進力に溢れた音楽を再確認し、併せて、2014年公演のディスクも再生して観た。

 2014年はラチヴェリシュヴィリのカルメン、アントネンコのドン・ホセで、指揮はエラス=カサドだ。これも、まったく同じ舞台だが、音楽の印象はまったく異なる。こちらは、ラングレを聴いた翌日の印象では、かなり散らかった音楽といった感じなのだが、ビゼーの音楽の芯は野太く響き、大きく動いて鳴っていた。

 そこで、にわかに気になってきたのが、同じビゼーのオペラでも、『真珠採り』と異なる『カルメン』の成立までの事情だった。

 『カルメン』はメロディを付与されていない多くのセリフ場面を含む「オペラ・コミック」として初演され、それらのセリフに音符を付してレチタティーボ化をする途中でビゼーが没しているということだ。引き継いで完成させたのはビゼーの友人ギローだ。アルルの女第2組曲をまとめたことでも名が残っている。私の手元に1950年にアンドレ・クリュイタンス指揮パリ・オペラ・コミック座による録音があって、1970年頃から、私のレコード・コレクションになっているものがあるが、それも引っ張り出して聴いてみた。

 うまく表現できないが、『カルメン』には、どこか、音楽的に「継ぎはぎ」のようなところがあって、それを補って余りあるほどの劇性が内包された音楽なのではないかということだ。

 これはまた、「音盤派」を自任する私としては、ラングレ指揮の公演の放送を待ってエアチェックし、何十回もくり返し比較鑑賞しなければ、ほんとのところはわからないということかも知れないと思った。

 

 

 

 

 

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