竹内貴久雄の部屋

文化史家、書籍編集者、盤歴60年のレコードCD収集家・音楽評論家の著作アーカイヴ。ときおり日々の雑感・収集余話を掲載

英国ロイヤル・オペラ・ハウス、2018/19『ワルキューレ』でパッパーノが真価を発揮

2018年12月16日 23時03分13秒 | オペラ(歌劇)をめぐって
 
 
 
「英国ロイヤル・オペラ・ハウス」シネマシーズンの今期2018/19は、バレエはロイヤルバレエの定番となった『マイヤーリング(うたかたの恋)』で幕を明けたが、オペラはワーグナー『ワルキューレ』である。年明け早々の1月11日(金)から、全国の東宝東和系の指定館で全国上映されるが、先日、12月14日にいち早く鑑賞する機会を得たので、そのご報告をしよう。
 10月28日上演の映像記録で、スタッフ、キャストは以下の通りである。
【演出】キース・ウォーナー
【指揮】アントニオ・パッパーノ
【出演】スチュアート・スケルトン(ジークムント)
    エミリー・マギー(ジークリンデ)
    ジョン・ランドグレン(ヴォータン)
    ニーナ・ステンメ(ブリュンヒルデ)ほか
 キース・ウォーナーの演出は2005初演以来のもので、賞賛と非難が相半ばしたまま再演が繰り返されているもののはずだが、話には聞いていたものの、細部まで丁寧に映像鑑賞したのは、今回が初めてだった。指揮はコヴェントガーデン王立歌劇場(英国ロイヤルオペラ)の音楽監督となって数シーズン目を経たアントニオ・パッパーノである。
 じつは、パッパーノという指揮者は、私にとっては思い出深い名だ。最初に聴いたのはまだ彼が駆け出しの頃、ウィーン国立歌劇場のいわゆる当番指揮者陣の一人に加わった直後、プッチーニ『マノン・レスコウ』を指揮する日だった。旅行中だった私がたまたま居合わせて、飛び込みで500円そこそこの安価なチケットで入場し、その活きのよい指揮ぶりに将来を期待して、その名を記憶したのが始まりである。その彼が、ベルギーの「モネ劇場」の音楽監督を経てコヴェントガーデンに君臨するようになったのは周知のことだと思う。ただ、私自身は、モネ劇場でのマスネ『マノン』全曲録音などにはあまり納得できず、むしろ2010年前後に聖チェチリア音楽院管弦楽団と精力的に録音していた一連の交響曲録音、とりわけ、チャイコフスキーの交響曲の怒涛のような勢いある指揮ぶりを称賛していたように記憶している。
 思わぬ方向へと、記述が脱線してしまった。ただ、私は、コヴェントガーデンでのパッパーノの仕事全部の映像を鑑賞しているわけではないが、例えばプッチーニ『トスカ』では、そのいささか乱暴で強引な音楽の進行に疑問を持っていたのだ。
 「ところが!」である。今回の『ワルキューレ』は素晴らしかった。パッパーノがプッチーニよりワーグナーに向いているとは、意外なことのようだが、じつは、そうではない。パッパーノが紡ぎだす音楽の「息継ぎ」の見事さが、ワーグナーの音楽の流れに、しっかりと寄り添っているのだ。ブリュンヒルデを歌ったニーナ・ステンメが幕間のインタビューで語った言葉を借りるなら、「一歩一歩登っていく山のような旋律」を長い息づかいで歌い継いでゆく様は、じつに音楽的な充実感のある展開だ。各動機が重なり合い数珠つなぎになって繰り出される。個々の歌手も、これなら安心して歌えるというものだ。かつて、1980年代くらいまで、ワーグナー音楽の演奏が、ともすれば各動機がトランプのカードをとっかえひっかえ次々と出してゆくような「動機の展示会」になってしまったことを思えば隔世の感がある。ブーレーズのバイロイト登場あたりからの傾向ではあるが、パッパーノのそれは、私がこの10年ほど聴いた中でも秀逸の鳴りだったと言ってよいように思う。骨太で巨大な響きながら、細部がよく鳴っている。
 第3幕では冒頭から幕切れまで、殊更に様々な旋律要素や和音が途方もなく組み合わされ、最も複雑な動きをオーケストラが奏でるが、それを曇りなく振り分ける指揮者の力量には舌を巻いた。それでいて、大きく自然な感情の高揚が得られるのは、パッパーノが本質的な意味での「カンタービレの指揮者」だからなのだろう。これは、ワーグナー演奏としては決してドイツ的ではない斬新さだが、往年のトスカニーニのワーグナーやプッチーニに通じるものか、とも思う。ひょっとすると、パッパーノの骨太なカンタービレは、どうやらプッチーニでは「せっかち」で「厚塗り」の響きになってしまうようだ。
 キース・ウォーナーの演出については、私は支持者に回った。いかにもシェイクスピア演劇の国イギリスならではの、演劇的な意味合いで成功した演出だと思った。
 もともと、『ワルキューレ』は対話劇であり、室内劇的な展開を持っているドラマだ。それを最大限に生かす方向に徹したものと言えるだろう。各登場人物相互の関係が、図式的に手に取るように描き分けられ、心理劇としてわかりやすい演出に仕上がっている。登場者の服装が現代的なことがしばしば揶揄されるが、確かに、そのことによってストーリー全体が「神話的」ではなくなっているかもしれない。ある意味では「家庭争議」のようになってしまっているとも言えるのだが、それもまた、この演出が狙った「室内劇」の皮肉な成果だということもできるだろう。
 何はともあれ、この『ワルキューレ』は、ワーグナーが苦手な向きをも釘づけにすることは間違いない。わかりやすい演出と壮麗で巨大な音楽がバランスよく同居した『ワルキューレ』としてお勧めする。