竹内貴久雄の部屋

文化史家、書籍編集者、盤歴60年のレコードCD収集家・音楽評論家の著作アーカイヴ。ときおり日々の雑感・収集余話を掲載

METライブビューイング『メリー・ウィドウ』2015年公演から、このオペレッタの歴史的名盤に思いを馳せた

2015年02月25日 17時23分17秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

 

 METライブビューイングの『メリー・ウィドウ』を東劇で鑑賞した。ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場での新演出公演、先日、1月17日の舞台を収録したものだ。スタッフ、キャストは以下の通り。
指揮:アンドリュー・デイヴィス
演出・振付:スーザン・ストローマン
配役
 ハンナ:ルネ・フレミング(ソプラノ)
 ダニロ:ネイサン・ガン(バリトン)
 ヴァランシエンヌ:ケリー・オハラ(ソプラノ)
 ロシヨン:アレック・シュナイダー(テノール)
  ほか
 私のお気に入りの演目なので期待して行ったのだが、正直なところ、かなり肩透かしを食った感じだ。決して出来が悪いわけではない。劇としては充分に楽しめた。だが、どうにも、からだの奥底からワクワクするといった音楽ではないのだ。何故だろう? そればかり、上映中に考え続けていた。
 演出は、ニューヨークの歌劇場にとってはお膝元と言ってよいブロードウエイのミュージカル演出でベテランといわれているスーザン・ストーローマン。彼女の堂に入った演出は、登場人物の細かな動作や、位置移動にまで及んでいると思われるもので、そのコミカルな味わいはなかなかのものだが、その動きで、例えば半世紀も前のジョージ・キューカー監督のミュージカル映画『マイフェアレディ』での「運がよけりゃ」の場面を思い出させたりもして、どこか類型的な観がついてまわる。もちろん、「マキシム」の場面のダンスも然り。ブロードウエイ・ミュージカルはこの50年ですっかり様変わりしたが、それを無理に押し戻して、50年代、60年代のロジャース=ハーマンシュタイン時代のミュージカルを想起させたが、どこか取ってつけたようではあった。だが、一番の問題はやはり、メトの舞台が大きすぎるということではないだろうか? このオペレッタはもっと、サロン的なコンパクトさが不可欠なのかも知れないと思った。
 このあたらしいプロダクションがそれなりに成熟するまで、もう少し待たなければならないのかも知れないと思ったが、問題は、音楽のほうだ。
 ご承知のようにアメリカの映画音楽は、ウィーン仕込みのオペレッタに大きく影響されている部分があるが、それは、全盛期のディズニーの長編漫画映画、例えば『ピーターパン』のような、あるいは『シンデレラ』のような夢見るサウンドに結実している。だから、メトのオーケストラ・サウンドで聴くオペレッタの音楽に期待していた。
 今回のMET公演での指揮者アンドリュー・デイヴィスはロンドン名物の『プロムス』の「ラスト・ナイト」でも、観客への語り掛けやアドリブの受け答えで会場を沸かせるなど、中々に芸達者なところを見せていたから、このオペレッタの指揮も期待していた。だが、出て来た音楽は、軽妙洒脱というよりダイナミック、甘くやわらかな音楽というよりガッチリと組みあがった音楽、といったもので、これには失望した。私の愛聴しているいくつかのCDのような、南ドイツの暖かな揺れ動く音楽でもなければ、ロンドンのサドラーズ・ウェルズ風のヌケのよい軽快さでもなく、パリ・オペラコミークの華やかな喧騒とも違うのだ。分厚くボッテリとしたサウンドが、ここでは、どうにも座りが悪い。これはどうしたことか?
 このオペレッタも他のオペレッタと同じく、〈架空の〉異国情緒が満載だが、そこでの様式の異なる音楽の描き分けがなく、ヴィリアの歌へと連なる場面でも、繰り広げられるダンス音楽がどれも通り一遍だからリズムが走らない。ここで、「きちんとした音楽」を聴きたくはない。アンドリュー・デイヴィスという指揮者は、こんな大味な音楽をやる人ではないと思っていたから、ちょっと驚いてしまった。言わば、「インテンポのレハール」だ。やはり、小屋の大きさと細かな打ち合わせの演出で、「事故」を避ける無難な指揮に徹したのか、と残念に思った。
         *
 じつは、この翌日から、そんなわけで、『メリー・ウィドウ』のさまざまな録音を、久々にひっぱり出して聴いてしまった。
 私のお気に入りのひとつは、ハイライト盤だがフランツ・マルシャレク指揮のアカンタ盤。ハンナをインゲボルク・ハルシュタイン、ヴァランシエンヌをルチア・ポップが歌っている。ダニロはペーター・アレクサンダーだが、これがめっぽう芸達者。リズムのくずれ、メロディのゆらぎが何とも言えず魅力だ。もちろん二人の女声も最高に楽しめる。このアカンタのオペレッタ・ハイライトシリーズは、独RCAがラジオ音源でLPを出していた流れを汲むものだったと思う。旧西ドイツは、オペレッタのローカルな名盤の宝庫だ。
 だから、EMI系の独エレクトローラのオペレッタ・シリーズも私のお気に入り。『メリー・ウィドウ』は1960年代にヴィリー・マッテス指揮グラウンケ管弦楽団がある。ローテンベルガーのハンナ、エリカ・ケイトのヴァランシエンヌで、ロシオン役はニコライ・ゲッダだ。このクルト・グラウンケによってミュンヘンに設立されたオペレッタ専門といってよいオーケストラは、60年代に数え切れないほどのオペレッタ録音を残した楽団だが、ひとつとして駄盤が無い。
 そして独エレクトローラで1979年に録音されたのがハインツ・ワルベルク指揮ミュンヘン放送管のもの、ダニロにヘルマン・プライ、ヴァランシエンヌにヘレン・ドナートだ、これらドイツのローカル系録音の魅力は、何と言っても、その体内リズムのように血肉に同化した音楽の動き、加速度やテンポ・ルバートにある。そのあふれる魅力は、英EMIが大プロデューサー、ウォルター・レッグが心血を注いで製作したシュワルツコップ(ハンナ)、エーリッヒ・クンツ(ダニロ)、ニコライ・ゲッダ(ロシオン)らを起用した1953年のアッカーマン盤をいとも簡単に凌駕したはずだ。几帳面で生真面目なオペレッタ録音の典型である。
 おそらくレッグという完璧主義のディレクターは、このアッカーマン盤の「弱さ」に気づいたはずだ。1963年のマタチッチ指揮による再録音は、前作がモノラルだったから、というだけではなかっただろう。ダニロがヴェヒターに替わったがシュワルツコップとゲッダの布陣は変わらない。しかし、マタチッチのスラヴの血を良く理解した勢いのある音楽は、アッカーマンとまったく違う。
 確かに、それはレハール音楽の大事な要素ではあるが、そのレハールに強く聴かれるハンガリー系の、あるいはスラヴ系の、あるいはチャールダッシュ風の音楽の勢いは、オペレッタという音楽文化がアメリカに与えた影響全体の流れの中では、一部分に過ぎないように思う。
 ミュンヘンを中心とした南ドイツのオペレッタの温かさから、なぜ私はアメリカのハリウッド黄金時代のサウンドや、リチャード・ロジャース時代のブロードウエイ・ミュージカルを思い浮かべてしまうのだろう。まだ確証を掴んでいないので、単なる私見に過ぎないが、アメリカの映画音楽はウィーン仕込みのオペレッタを持ち込んだ亡命ユダヤ系音楽家の影響を強く受けたが、それは、こうしたレハールのものよりも、オスカー・シュトラウスやコルンゴールドの甘く揺らめく音楽、あるいはセンチメンタルな音楽が持つ豊かなサウンドの延長にあるものだと思っているのだ。
 だから、このマタチッチ盤も、レッグの懸命な努力にもかかわらず、私は、この曲の本当の魅力は出せていないと思っている。音楽的には、ドイツ語歌唱であるにもかかわらず、むしろ、サドラーズ・ウェルズ風の抜けのよい闊達な金官群と引き締まった弦の音楽が小気味よいものとなっている。(サドラーズ・ウェルズのオペレッタ録音は、50年代から60年前後まで、こちらもイギリスのローカル発売盤でいくつも聴ける。)ある意味では、その亜流ともいうべきものが、今回のアンドリュー・デイヴィスによるメト公演だったとも言える。
 ――と、ここまで書いてきて、少し、デイヴィスという指揮者を支えている音楽文化が理解できたような気がした。すると、アメリカ人の、あるいはブロードウエイが持っている音楽文化とのギャップが、今回の、取ってつけたような音楽を生んだのかとも思った。
 メトよ、指揮者の選択を誤ったのだ、と言っておこう。英語バージョン公演だからといって、ロンドンから指揮者を呼んだのが間違いだった?