竹内貴久雄の部屋

文化史家、書籍編集者、盤歴60年のレコードCD収集家・音楽評論家の著作アーカイヴ。ときおり日々の雑感・収集余話を掲載

モーツァルト・コレクション/バレンボイム指揮の交響曲第31、39、40番

2009年05月21日 10時08分42秒 | ライナーノート(EMI編)






 1991年2月の東芝EMI新譜として、ほぼ1960年代のEMI録音を原盤としたモーツァルト録音を交響曲からオペラ・ハイライト集まで全15枚にして『モーツァルト・ポピュラー・コレクション』と名づけて一挙に発売されたCDの1枚です。60年代の演奏を聴くということの意味は当時もありましたが、今では、更に積極的な意味があるかも知れません。「温故知新」が鑑賞の重要な要素のひとつであることは、「未知のものとの偶然の出会い」とともに自明のことですが、当時は60年代の録音を聴き直す人は少なかったと思います。巨匠時代の終焉が「60年代」なのですが、まだ当時のほとんどの聴き手が、往年の巨匠時代の呪縛から自由になっていませんでした。そういう時代に書かれた文章だと、ご理解ください。これまで同様、ブログへの再掲載に当たっても当時のフロッピーデータのまま、どこも修正していませんが、今でも十分に通用する内容だと思っています。
 なお、同シリーズ全容の意義についての解説原稿が、全15枚に重複して付けられましたが、その解説原稿は、5月19日付の当ブログに掲載済みです。


【TOCE-6801】ライナーノート

 バレンボイムはイスラエルの血を引いているが、生まれはアルゼンチンのブエノスアイレスで、幼いころから父親にピアノを習い、本格的な音楽教育はウイーン音楽アカデミーで受けている。1942年生まれだからそろそろ50歳に差し掛かる年齢だが、このモーツァルトの交響曲の録音は1968年、まだバレンボイムが20代の青年時代のものだ。
 このことは、バレンボイムを、はじめピアニストで、のちに指揮者に〈転向〉した音楽家と同列には考えられないということを示している。確かに、ウイーンで教育を受けたバレンボイムのレコーディング・デビューは、1964年のショモギー指揮ウイーン国立歌劇場管とのベートーヴェンの第3ピアノ協奏曲他だが、その3年後の67年にイギリスに渡り、バルビローリとのブラームス、クレンペラーとのベートーヴェンの各協奏曲全集を完成させた2ヵ月後の68年1月には、指揮者として、この一連のモーツァルト録音が開始されているのだ。
 今回のCD化は「第31番、39番、40番」だが、この他に「第35番」「第38番」「第41番」などがある。また、同じ頃、シェーンベルク「浄夜」/ワーグナー「ジークフリート牧歌」/ヒンデミット「ヴィオラと弦楽合奏のための葬送音楽」を同じイギリス室内管弦楽団と録音している。
 演奏は、古典的な様式感を前面に押出したものではなく、バレンボイムのピアノの特徴である造形のくっきりとした細やかな音楽性を持ちながら、随所に熱っぽさがバランス良く配されたもので、主張のはっきりした演奏だ。
 「31番」は第1楽章から表情づけのたっぷりとした演奏で、この曲としては、かなり大きくうねる表現なので、ともすれば重い音楽になりがちだが、リズムの刻みが明瞭なのと、木管を浮び上がらせる弦とのバランスの良さで、それを免れている感がある。そして、リズムの明瞭さを際立たせるためか、息の短いフレージングで区切りながら進む硬質の音楽づくりなので、いわゆるモーツァルト的な典雅さよりも、前進する意志を強調した演奏となっている。
 第2楽章は、ゆったりとしたテンポでしなやかに弦が奏でる音楽が美しい。が、ここでも、1音1音スタカートでていねいに鳴らし、間の取り方が良いので、思わず耳をそばだててしまう。
 終楽章は、打ってかわって速いテンポで怒涛のように突き進むが、控え目なフォルテが、全体をバランス良くまとめている。
 「第40番」では、木管の音を全体から遊離させて鳴らしているのが特徴的で、特に速いテンポの両端楽章で、それが際立っている。分裂的性格をサウンドとして表現しているとも言えようか。
 第1楽章はかなり速いテンポで、テンポだけはフルトヴェングラーの有名な演奏に近いが、音の輪郭をくっきりと取り、アインザッツの乱れもない。
 第2楽章は淡々として、呼吸も浅い。その雰囲気を第3楽章へとつなぎ、正確にテンポを刻んで、インテンポで前進する。中間部も思い入れを押さえてテンポを変えずに終始する演奏。
 終楽章は前のめりにグイグイと進むが、散発的な管のパッセージが単調さをカバーしている。
 「31番」「40番」のいずれもバレンボイムの実験的意欲に溢れた演奏で、音楽の自在さが犠牲にされているということも言えるが、はっきりとした主張を持ったもので、イギリス室内管も率直にバレンボイムの要求にそのまま応えている。
 バレンボイムにしてみれば、やりたかったことを、一通りやっているといった感のある個性的なモーツァルト演奏だ。
 この2曲に比べると「第39番」の演奏は、一見オーソドックスだが、それでも、第1楽章の序奏部や第2楽章の、異様に遅いテンポで隈どりをはっきりと丁寧に描いていく様や、打楽器の扱いなど、あるいは第3楽章の中間部のフレージングなど充分に個性的だ。
 これらの演奏に共通するのはレントゲン写真のように骨格を透かして見ようという分析的な姿勢で、バレンボイムの音楽が、決してリリカルなものではなく、むしろ〈新ウイーン派〉的な側面を持っていることを示している。ウイーンでのピアノの師はブーランジュやエドウィン・フィッシャーだが、彼の音楽の根底には〈シェーンベルク以後〉の流れが影を落としているようだ。指揮者バレンボイムのデビュー時の録音がこの一連のモーツァルトのほかに「シェーンベルク/ワーグナー/ヒンデミット」なのは、意味のあることなのだ。興味の尽きないアルバムだ。