何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

紀三井寺-(3) (和歌山)

2019年05月18日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・和歌山市】紀三井寺はもとは真言宗山階派に属していたが、昭和二十三年(1948)に独立して救世観音宗総本山を名乗り、山内に子院6ヶ寺および末寺14ヶ寺を包括する。
紀三井寺の正式な寺号は「紀三井山金剛宝寺護国院」だが、山内に湧き出る3つの霊泉から「紀三井寺」という名前で親しまれてきた。

正面に大きな千鳥破風を設け、「救世殿」の扁額を掲げた本堂に....。 唐破風の向拝は、4本の角柱の向拝柱を配した三間で、水引虹梁が3分割され、真ん中が高く両側の丸桁の位置にある。 正面に一間の擬宝珠高欄付き切目縁があり、母屋は二間の吹き放しの外陣と内陣が格子で仕切られている。 格子の上には西国巡礼寺院らしく多くの奉納額がずらりと掛けられ、真ん中の上の欄間に懸仏が懸けられていて興味深い。 組物は彫刻が施された尾垂木の三手先で、組物間が詰組になっているなど細部に禅宗様が用いられている。
本堂前右手の石段を上ると、直ぐ右に朱塗りの多宝塔、左には一間の外陣が吹き放しになった開山堂が建つ。 開山堂の向拝の龍の彫刻に目を見張らされた。 龍頭と上半身の木鼻、そして水引虹梁に下半身の彫刻が施され、まるで龍が向拝柱を突き抜けている姿になっていて珍しいと思う。
開山堂の向拝から優美端厳な朱塗りの多宝塔をしばし眺める。 多宝塔は室町時代の再建で、山内に現存する最古の建物とされるが、修復や整備がキチンと行われているようであまり古さを感じさせない。 本堂側である南面が正面だが、両側面(多分後方も)が和様の盲連子の窓であるのに、正面は黒い縁取りの禅宗様の花頭窓になっていて面白い。 また、初層には親柱に逆蓮頭を乗せた禅宗様高欄付きの廻縁を設けている。
多宝塔から開山堂境内の東側に進むと、覆屋に紀三井寺の鎮守である三社権現が鎮座する。 しかし、正面に工事用テントががっちりと張れていて拝観できない状況だ。 罰が当たりそうだが、テントの隙間から少し強引にカメラを突っ込んでなんとか撮影....写真を見ると、春日造りとみられる檜皮葺の三社が並んでいるが、痛みがみられるので老朽化が進んでいるようだ。

入母屋造本瓦葺の本堂(観音堂とも称す)...宝暦九年(1759)建立の総欅造り....厨子内に安置の本尊十一面観世音菩薩像」は為光上人が彫ったものとされる

正面側面とも五間で、正面三間は唐破風の向拝

水引虹梁は3分割され、各虹梁の上に動物(中央は鳳凰か)の彫刻を施した本蟇股、両側虹梁には一角獣らしき木鼻が付く...兎毛通しは猪目懸魚
 
軒廻りは二軒繁垂木、組物は二手目と三手目が尾垂木の三手先、組物間に詰組があり細部に禅宗様が用いている/組物から出ている尾垂木の先に彫刻が施されていて、二手目は波で三手目は龍頭だ

二間の外陣は吹き放しで、中央間口の上に「救世殿」の扁額
  
正面に擬宝珠高欄付き切目縁、向拝柱は角柱だが外陣は6本の丸柱/外陣と内陣の結界は格子で仕切られ、格子の上に奉納額がならび、真ん中の欄間に懸仏が懸けられている/本堂前縁に鎮座する十六羅漢の第一尊者の賓頭盧尊者....「お身代わりなで仏」といわれる

多宝塔が建つ高台から眺めた本堂....屋根に乗る大きな千鳥破風の棟に三つ盛り井桁の紋を入れた鬼板、拝に猪目懸魚、妻飾は虹梁蟇股

本堂の妻は正面の千鳥破風と同じように大棟に三つ盛り井桁の紋を入れ鳥衾を乗せた鬼板、拝に三つ花懸魚、妻飾は鳥の彫刻を施した虹梁蟇股
 
本堂に向かって右手の石段を上ると平地で、直ぐ右手に多宝塔、左手に開山堂が建つ

露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺で三間四方の開山堂....正面と側面に切目縁を設けている

正面一間が吹き放しの外陣で、外陣と内陣の間の結界は格子で仕切られている....軒廻りは二軒繁垂木、組物は出組で中備は中央間に蟇股、脇間に蓑束
 
面取柱の上に出三斗、水引虹梁上の中備は脚間に獅子の彫刻を配した本蟇股....龍頭と上半身の木鼻、水引虹梁に下半身が施された見事な彫刻で、龍が向拝柱を突き抜けている姿だ/母屋の正面中央間の梁に鳥の彫刻を配した本蟇股

本瓦葺屋根の多宝塔(重文)....室町時代文安六年(1449)の再建....山内堂宇で最古の建物のようだ

大師堂前から眺めた鮮やかな朱塗りの多宝塔(北側の側面)

上層の軒廻りは二軒繁垂木、12本の柱を立て組物は四手目が尾垂木の四手先、円形の高欄を巡らす

三間の初層は中央間に桟唐戸、側面の脇間は盲連子の窓

下層の軒廻りは二軒繁垂木で軒支輪を設けている....組物は出組で中備は側面と正面脇間に蓑束、正面中央間のみ本蟇股

多宝塔の正面は中央間に紋らしき文様を入れた桟唐戸で、脇間は禅宗様の花頭窓

初層に禅宗様高欄付き廻縁....四天柱内の内陣に鎮座する五智如来坐像は室町中期の様式

開山堂境内の南側に鎮守社の三社権現社と春子稲荷社が鎮座している

正面に工事用テントが張られた三社権現社....左隣の小さなお社は春子稲荷社
 
「春子稲荷大明神」の額が掲げられ、明神居を構えた宝形造銅板葺の春子稲荷社/切妻造本瓦葺の正面三間の覆屋に鎮座する三社権現...手前は巡拝供養碑

痛みがあって老朽化が進んでいる三社権現の檜皮葺の社(春日造りのようだ)
 
開山堂境内の南端の石垣の上に鎮座する舟光背形十一面観音石仏と宝篋印塔/塔身に「西国三十三度」と刻まれた巡拝塔の宝篋印塔....大きく反り返った隅飾突起は江戸期作と推、伏鉢に格狭間を入れ、大きな請花上にかなり欠落した九輪

コメント

紀三井寺-(2) (和歌山)

2019年05月14日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・和歌山市】開創後は歴代天皇の行幸があり、第77代天皇だった後白河法皇(上皇)が紀三井寺を勅願所と定めた以後は隆盛を極めた。 中世鎌倉時代には止住する僧侶が五百人を越えたとされる。
江戸時代に入ると、和歌山城からほど近いところにあるため、紀州徳川家歴代藩主が頻繁に参詣して紀州徳川家の繁栄を祈願し、「紀州祈祷大道場」として尊崇された。 本堂は宝歴年間(1751~1764)に建て替えられた。

新仏殿から本堂に向かって切石敷の参道を進む。 参道右の山裾に「元祖 京山恭安斎」と刻まれた浪花節の開祖・京山恭安斎の石碑が佇み、直ぐ左に西国三十三所の本尊・観世音菩薩像を祀る六角堂が建っている。 六角堂の左隣の朱塗りの袴腰鐘楼は、安土桃山時代の創建で、風格が漂い、端整で優美な姿から鐘楼建造物の中で最も白眉とされている。
袴腰鐘楼の左に、幸福観音立像を挟んで弘法大師空海を祀る大師堂が建ち、そこから先の本堂前の参道左側に多くの石造物・石仏・石柱・石碑などが佇んでいる。 本堂に最も近い所には、修行姿の弘法大師像と慈母観世音菩薩像とが本堂に向いて立っている。 慈母観世音菩薩像は、左手で赤子をやさしく抱き、右手は説法印である中品中生の印相を結んでいる。
参道を隔てた向かい側には、朱塗りの擬宝珠欄干で囲まれたコの字形の放生池があり、池に架かる反橋の先に如意輪観音坐像が蓮華座に鎮座している。
本堂前境内の南側に手水舎があるが、蓮花に擬した手水鉢の真ん中から上に飛び出た花托が水口になっていて珍しく、なかなか面白い。

新仏殿の前から眺めた境内....右側に六角堂、袴腰鐘楼、大師堂が建ち並ぶ切石敷参道の一番奥に本堂が建つ
 
参道脇に佇む石仏と石碑群...左端は舟光背型千手観世音菩薩石像、中央の黄ばんだ石板は馬頭観世音菩薩/六角堂手前の参道脇の宝形造桟瓦葺の覆屋に鎮座する舟光背型如意輪観音石像....石灯籠は安永三年(1774)の造立

露盤宝珠を乗せた六注造本瓦葺の六角堂....寛延年間(1748~1751)の建立で西国三十三所の本尊(観世音菩薩)を祀る

軒廻りは二軒扇垂木....中央の格子の結界を設けている
 
結界の中央間は三分の二の両折両開の格子戸、脇間は上下する三分割の格子窓/六角堂の隣に佇む浪花節の開祖・京山恭安斎の石碑....京山恭安斎は江戸末期、紀州徳川家の御殿医の家系に誕生

六角堂の前から眺めた本堂....参道右側に袴腰鐘楼と大師堂が建ち並ぶ

入母屋造本瓦葺の袴腰鐘楼(重文)....安土桃山時代の天正十六年(1588)の再建....旧梵鐘は文禄・慶長の役の折に没収され筑後に移されたが現存せず
 
軒廻りは二軒繁垂木で、2手目が尾垂木の二手先、中備は蓑束

擬宝珠高欄付き廻縁を支える腰組は三手先で、中備は正面中央に彩色彫刻を施した蟇股、側面に蓑束

大棟に鬼瓦、拝に蕪懸魚、妻飾は虹梁大瓶束、周囲に連子窓....鐘楼の左傍に未開蓮と巻蓮葉を持つ幸福観音立像が鎮座
 
袴腰鐘楼前に聳える樟の老木/明神鳥居を構えて老木の根元に鎮座する「大樟龍王」の額を掲げた社

弘法大師を祀る大師堂....銅製八角燈籠は昭和十一年(1936)造立

露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺の大師堂....三間四方で周囲に切目縁、正面は下半分が羽目板、上半分が格子で中央間は半蔀になっている
 
「弘法大師」の額が掲げられた大師堂....軒廻りは二軒繁垂木、組物は出組で中備は本蟇股....組物、丸桁下、梁そして木鼻に彫刻が施されている
 
大師堂前と本堂前の参道脇に立ち並ぶ石造物や石柱、また右側に放生池があり如意輪観音像が鎮座....奥の高台に多宝塔が見える/大師堂前の参道脇に立つ「千度石」と「百度参諸塚」(諸は正しい?)

大師堂前から眺めた大きな千鳥破風を乗せた本堂....本堂前の参道脇に立ち並ぶ石造物、石仏、石柱、石碑など

本堂前の参道脇で本堂を向いて鎮座する行脚姿の弘法大師像と赤子を抱く水子供養の慈母観世音菩薩像....母観世音菩薩の右手は中品中生の印相

本堂前に造営されたコの字形の放生池....朱塗りの擬宝珠欄干で囲まれ真ん中に反橋が架かる....本堂前のソメイヨシノは和歌山地方気象台の桜開花観測用の標準木らしい
 
放生池に架かる反橋の奥に如意輪観音像が鎮座/蓮華座に円光を背にして鎮座する6臂の如意輪観音坐像
 
宝形造本瓦葺の手水舎....蓮花に擬した手水鉢/花托の水口は珍しい!
コメント

紀三井寺-(1) (和歌山)

2019年05月09日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・和歌山市】奈良時代の宝亀元年(770)、荒波の東シナ海を渡って中国から到来した唐僧・為光上人によって開基されたとされる霊刹。
寺伝では、諸国を巡って仏法を広めていた為光上人がこの名草山の麓に一宿した折、夜半に山頂が白く光っているのを不思議に思い、翌日山に登ると金色に輝く千手観音様と出会い、この地が観音慈悲の霊場だと感得した上人は、自ら一刀三礼のもとに十一面観世音菩薩像を彫り、一宇を建てて安置したのが紀三井寺の起こりとされる。
宗旨は救世観音宗(総本山)で、本尊は十一面観音像。 西国三十三所観音霊場第2番札所。

両側に土産店が軒を並べる切石敷の参道の奥に、鮮やかな朱塗りの楼門が見える。
石段下に立つ「紀三井山護国院」と刻まれた大きなな寺号標石の後方に、清浄水が注がれている手水鉢があり「ざんげと招福の水場」とある。 手水鉢の傍で錫杖を持って鎮座する白衣観音菩薩像の慈悲の視線を感じながら、霊水で罪障を洗い流してから楼門に....。
存在感のある鮮やかな朱塗りの楼門は、500年以上も前に創建された仁王門だ。 近づくと、まず、中央口の欄間に施された見事な牡丹と菊の彫刻に目を奪われる。 脇間の仁王像の体型は、筋骨隆々というよりも少し脂肪のついた筋肉といった感じだ。
楼門をくぐると、行く手を阻むように急峻な231段の石段が立ちはだかり、直ぐ左右の少し奥まった所に、寂れた感じの子院・普門院と穀屋寺がひっそりと建っている。 石段を上っていくと、途中にも子院や社があり、寺号の由来である「紀三井寺の三井水」のひとつの「清浄水」が湧き出ている。 最上の石段は「還暦厄坂」といわれる六十段の石段....還暦をとうに過ぎた身だが、少し息を切らして上り切る。
石段を上りつめると平地の境内が広がり、直ぐ右手に、日本最大の寄木造り千手観音菩薩立像を安置する新仏殿が聳える。 五輪塔に見立てて建てられたとされる新仏殿に入ると、大きな千手観音菩薩像が鎮座....金色に輝く巨大な像のあまりの迫力に咄嗟に手を合わせた。
手前に金色の五鈷杵が置かれ、観音像の合掌する手と五色紐で繋がっている....ご慈悲を頂こうと五鈷杵にそっと触れ、再度合掌してから本堂に向かった。

門前に立ち並ぶ土産店の奥の石段の上に建つ朱塗りの楼門....石段下に「紀三井山護国院」の寺号標石

入母屋造本瓦葺の楼門(重文)....室町時代永正六年(1506)の建立で、桃山時代の様式を残す
 
石段下の左手に立つ大正七年(1918)造立の輪廻車/石段下の右手に霊水・清浄水が流れる井戸は「ざんげと招福の水場」で観音菩薩像が鎮座....石燈籠は享保六年(1721)の造立

上層に組高欄を設けた朱塗りの楼門....三間一戸の脇間に金剛力士像を安置

軒周りは二軒繁垂木、組物は三手目が尾垂木の三手先、中備は蓑束、軒天井と蛇腹支輪がある....腰組は三手先、中央間の欄間に鮮やかな牡丹と蓮の彫刻
  
脇間に鎮座し、仏敵の侵入を防いでいる仁王像....筋骨隆々ではないが、眼を大きく見開いた憤怒の形相が印象的/門前に立つ「不許葷肉入山門」と刻まれた戒壇石
 
楼門をくぐって直ぐ左手に建つ十一面観自在観音を祀る宝形造本瓦葺の普門院/直ぐ右手の石垣の上に建つ地蔵菩薩と聖徳太子を祀る切妻造桟瓦葺の穀屋寺
 
楼門から続く急峻な231段の石段....かつてはここが坂で「結縁坂」といわれていたようだ....女厄坂33段,男厄坂42段、還暦厄坂60段等それぞれの石段に厄の名前が付いている/石段参道の途中には子院や紀三井寺の名前の由来となった三井水の湧き水がある
 
石段参道脇に建つ入母屋造本瓦葺で波切不動尊を祀る宝蔵院/石段を挟んだ宝蔵院の向かいに建つ入母屋造本瓦葺で妻入の松寿院....弘法大師霊場で「身代わり大師」とある
  
宝蔵院の右隣に鎮座する朱塗りの入り鳥居を構えた「白龍大明神」を祀る社と、開基以来の護国院にまつわる木の「王同樹」が聳える/覆屋に鎮座する「白龍大明神」を祀る社/三十三段の「女厄除坂」の脇に鎮座する地蔵尊坐像....女性の参詣者を見守っている

参道石段の途中右側にある「紀三井寺の三井水」(日本名水百選)のひとつの「清浄水」....他の2つは「楊柳水」と境外にある「吉祥水」で、3つの湧き水が寺号のもととなったとされる
  
積み石の間から流れ落ちる湧き水(小滝)の「清浄水」/「清浄水」を護る不動明王石仏/「清浄水」の傍に佇む芭蕉翁の句碑
  
最上の六十段の石段は「還暦厄坂」といわれる/「還暦厄坂」下の右手に地蔵尊立像と浮き彫りされた不動明王石仏が鎮座

露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺の新仏殿....本堂と向かい合って建つ
 
新仏殿は鉄筋コンクリート造三階建で高さは25メートル....近代的な建物で、全体の形は五輪塔に擬しているとか

総漆金箔張寄木造の千手観音菩薩立像....平成二十年(2008)の落慶で、寄木造立像としては日本最大
 
高さ12m、重さ約30tの金色に輝く巨大な観音像千手観音菩薩....正しくは頂上に十一面を頂く千手千眼観自在菩薩(大慈観音ともいわれる)
 
手前に置かれた金剛杵(五鈷杵)が合掌する観音像の手と五色紐で繋がっている/紀三井寺がある名草山の麓から遠望した新仏殿
コメント

旧閑谷学校-(2) (備前)

2019年05月05日 | 史跡探訪-日本編

【岡山・備前市】閑谷学校は明治三年(1870)、藩政改革のため廃校となり、学房・習字所・教官宿舎が撤去された。 また、一時撤去の動きがあったものの講堂他主要施設は維持され、明治六年(1873)、備中松山藩から山田方谷を招き、「閑谷精舎」として再興された。 その後、「閑谷精舎」廃校・「閑谷黌」開校などの変遷を経たが、昭和二十八年(1953)に旧閑谷学校講堂が国宝に、翌年に「旧閑谷学校」として特別史跡に指定された。
平成二十七年(2015)、近代日本の教育遺産群の一つとして国の特別史跡に指定され、最初の日本遺産に認定された。 なお、他の教育遺産は、特別史跡旧弘道館(茨城県水戸市)、史跡足利学校跡(栃木県足利市)、史跡咸宣園跡(大分県日田市)の3か所。

東側の少し遠めの広場からしばらくの間、壮麗な講堂を眺める。 洗練された講堂は築後300年以上経た建物だが、良質の建材を用いて完璧な施工が行われたため、現在も寸分の狂い無く建ち続けているそうだ。 講堂の南側と北側に足場が組まれ、大棟の補修工事が行われていて少し残念だったが、大きな錣葺の屋根と内室を囲む入側の壁に並ぶ大きな花頭窓が独特の外観を形作っていて趣がある。
東側から縁側に上がり、花頭窓から中をのぞき込みながら廻縁を一周した。 中は床張りの一室で、10本の丸柱で囲まれた内室とその周りに入側が設けられている。 拭き漆の床がピカピカに磨かれていて、西北側から眺めると南東側の花頭窓から差し込む光が床に美しく反射していて幻想的だ。 内室の北側の床に置かれた天板が傾斜した小さな座り机を見ていると、教師の話に熱心に耳を傾ける生徒たちの姿が浮かんだ。
講堂の西側に農民が学んだ教室の「習芸斎」と休憩室の「飲室」が繋がって建ち、教師と生徒が「飲室」の小さな炉を囲んで湯茶を喫しながら談笑している光景が目に浮かぶようだ。
講堂から出て、白壁で質素な造りの「小斎」・「習芸斎」・「飲室」を外から眺めながら西端に建つ資料館に向かう。 講堂と「飲室」の南側のかまぼこ形石塀に、藩主が臨学する際に使った袖塀付の「公門」と生徒や聴講者たちの通用門の「飲室門」がある。 「飲室」の西側に少し離れて土蔵造りの白壁の「文庫」が建ち、その後方に、人工の山の「火除山」があるが、「火除山」は学舎・学房が出火した際に講堂などへの延焼を防ぐために造営されたものだ。 元禄時代に造営された総延長約765メートルの石塀を近くで見る....正面周辺の約505メートルは、高さ約2.1メートル、幅約1.8メートルのかまぼこ形になっているが、堅牢な造りとその美しさに思わず唸ってしまった。 「火除山」と石塀の間の狭い参道を進むと、学房跡に建つ資料館に着く。

入母屋造本瓦葺で錣屋根の講堂(国宝)....元禄十四年(1701)改築....旧講堂(茅葺)は延宝元年(1673)の創建で、池田光正が視察した

桁行七間、梁間六間で、錣屋根は三重構造で杮葺に板葺を乗せ、その上に備前焼の本瓦を葺いている....左隣(南側)の小さな建物は「小斎」
 
大棟端に鳥衾が乗る鬼板、拝に蕪懸魚、妻飾は豕扠首/周囲に縁側を設け、内側は床張りの一室だが入側と内室で構成

内室を囲む入側の壁に明りとりの大きな花頭窓が並ぶ

東側の入側の壁の花頭窓、内側に明かり障子がある

南側の入側

北側の入側の花頭窓と回廊....回廊には雨戸が入っている

講堂の正面となる西側....入り口に飾り金具を施した両開き桟唐戸

内部は十本の欅の丸柱で支えた内室とその四方を囲む入側とで構成されている
 
内室の長押の上に掲げられた「克明徳」の三字額....江戸中期、岡山藩5代目藩主池田治政の書/拭き漆の床は生徒たちによって磨かれていて、花頭窓から入る光を美しく反射させている
 
十本の丸柱で囲まれた内室の北側の壁には伊豫の署名がある壁書が掲げられ、北側の床には天板が傾斜した小さな座り机が置かれている

西側に建つ習芸斎に繋がった廊下から眺めた講堂
 
農民たちも学んだ教室の「習芸斎」....農民が聴講できる「朱文公学規」の講釈が行われた/教師・生徒らが湯茶を喫した「飲室」....縁に火気厳重注意文が彫られた炉が、床の中央に設けられた休憩室

講堂の南縁から眺めた数奇屋風建物の「小斎」

入母屋造杮葺屋根の「小斎」(国重文)....藩主が臨学の際に使われた御成の間で、現存する建物の中で最古の姿を残している

入母屋造本瓦葺の「習芸斎」(講堂側)と「飲室」(いずれも国重文)は1棟の造りで、右の窓のない建物は「習芸斎」の玄関

「習芸斎」の玄関は教官や来賓が使い、生徒は飲室の方から出入りした....玄関の上には開閉式の欄間が設けられている

講堂と飲室の近くの石塀に設けられた「公門」(手前)と「飲室門」

切妻造本瓦葺の「公門」(薬医門で国重文)....元禄十四年(1701)の設置で、藩主臨学の際に使用した門で「御成門」ともいう

切妻造桟瓦葺の「飲室門」(薬医門で国重文)....日通いの生徒や朱文公学規講釈に出席する聴講者が出入りする通用門

切妻造本瓦葺で土蔵造りの「文庫」(国重文)....内部は二階構造で教科書等の書物を収納....土塗り白漆喰で木部を覆った防火構造で、入口は土戸と竹格子戸で3重扉になっている

「火除山」の石垣の傍から眺めた講堂の境内....手前の切妻屋根の建物は「文庫」
 
「火除山」....防火のために造られた人工の山で、西側の学舎・学房(寄宿舎)と東側の講堂の間に造営/石塀と「火除山」の間の狭い道は西側に建つ資料館への参道

「火除山」造営の目的は、学舎・学房の出火が講堂などに及ぼないようにするもの

学校全体を取り囲む総延長約765メートルの石塀(国重文)....300年以上前の元禄十四年(1701)の完成....正面周辺の約505メートルは、高さ約2.1m、幅約1.8mのかまぼこ形をしている

学房跡の前の石塀にある切妻造桟瓦葺の「校厨門」

寄棟造桟瓦葺の資料館(有形文化財)....明治三十八年(1905)、学房跡に「私立中学閑谷黌」の本館として建てられた建物で、旧閑谷学校の貴重な資料を保管

コ字型建物の中央棟に妻破風の庇を設けた玄関がある

コ字型資料館の右側(東側)の建物

案内板の写真を拝借....備前焼の本瓦葺屋根の校門、錣屋根の講堂、小斎(杮葺)、公門、習芸斎、飲室、文庫、そして「火除山」の奥に資料館

コメント

旧閑谷学校-(1) (備前)

2019年05月01日 | 史跡探訪-日本編

【岡山・備前市】江戸時代前期の寛文十年(1670)、備前岡山藩初代藩主・池田光政によって設立された庶民のための学校で、現存する世界最古の公立学校。
寛文六年(1666)に池田光政が閑谷の地を訪れた際、学問をするのにふさわしい地だと絶賛し、家臣・津田永忠に命じて寛文十年(1670)に閑谷学校を設立した。 設立した寛文十年から建築が開始され、延宝元年(1673)に講堂(旧)、翌年に聖廟(旧)が完成....教育の中心は儒学だった。
延宝三年(1675)、光政は藩財政の逼迫から藩内の手習い所(手習い塾ともいう寺子屋の一種)を全廃し、閑谷学校に統合した。 光政は天和二年(1682)に没したが、建築開始から32年後の元禄十四年(1701)、新たな講堂が完成して現在とほぼ同じ外観を持つ壮麗な学校が完成した。

早朝、JRで岡山駅から吉永駅に向かった。 途中から急に濃い霧に覆われ、ほとんど視界がなくなったので心配したが、吉永駅に着く前には晴れてくれた。 駅前から市営の小さなマイクロバスに乗るが、乗客は自分一人だ。 山間の道を走り、約10分ほどでバス停「旧閑谷学校」に着く。
閑谷川に沿って進んで境内に入り、校門に続く道を進む....長方形に造営された泮池に架かる石橋(平橋)を渡りると、その先に中国風の造りの校門が建ち、左右にかまぼこ形の堅固な造りの石塀が延びる。 校門は旧閑谷学校の正門だが、本来は聖廟の正門で、花頭形の入口を通して正面奥に聖廟が小さく見える。
受付を済ませ、まずは校門をじっくり拝観した後、聖廟に向かう。 聖廟への緩やかな石段の両側の緩やかな斜面の草原に、それぞれ1本、芽ぐむ春を待つ孔子ゆかりの「楷の木」が燃え上がるように枝を広げている。 両側に白壁の練塀が延びる外門をくぐると、直ぐ正面に「中庭」と称される拝殿とみられる建物があり、後方に「東階・西階」と称する左右に分かれた瓦屋根の通路、それに接近して孔子像を祀る大成殿が建つ。 「東階・西階」の床を見ると、太い白線で縁取りされた六角形の敷石になっていて、まるでハチの巣のようだ。
境内の左奥に「繋牲石」と称する頂部がかまぼこ形の石柱が立つが、何の変哲もない石柱なのだが、「孔子を祀る釈奠に供える生贄の生き物をつなぐ石柱」とのことで国の重要文化財に指定されている。
聖廟の東側の一段低い位置に池田光政像を祀る閑谷神社があるが、本殿が工事用テントですっぽりと覆われているので拝観を諦め、国宝の講堂に向かった。

「旧閑谷学校」の全景....右から閑谷神社、校門と聖廟(重なっている)、講堂、 習芸斎、文庫、左奥は閑谷学校資料館
 
泮池に架かる石橋と校門への参道....右手に梅林、正面に校門、左手の石塀の奥に講堂/泮池に架かる石造り平橋(国重文)....泮池は中国上代の諸候の学校「頖宮」の制に擬して造営で幅7m、長さ約80mの長方形
 
受付の手前にある切妻造桟瓦葺の手水舎/龍の水口から清水が手水鉢に注がれている

切妻造本瓦葺の校門(国重文)....貞享三年(1686)の建立で、本来は聖廟の正門だが閑谷学校の正門でもあり鶴鳴門とも呼ばれる

聖廟の正面に建つ校門は、瓦屋根の中央部が高く、左右を低くして段差を設けた中国風....左右に設けた袖塀は白壁の築地塀

堅牢な石塀の間に設けられた3つの門....手前から校門(鶴鳴門)、公門、飲室門

受付前に建つ切妻造本瓦葺の門....薬医門造りで、左右に白壁の袖塀

受付前の門の中から眺めた校門と講堂
 
校門の屋根は豊前焼きの本瓦で、大棟端に鯱が乗る/軒廻は一軒繁垂木、付属屋の拝に猪目懸魚、妻飾は虹梁大瓶束

入口は上端の隅を丸めて花頭形に、左右には花頭窓を設けた付属屋
 
「閑谷学校」の額が掲げられた校門の入口から眺めた聖廟/楷の木と奥に聖廟....楷の木は中国山東省曲阜の孔子墓所から持ち帰った種が育苗したもの

白壁の練塀で囲まれた聖廟....儒学の祖孔子祀る御霊屋で孔子の徳を称える最重要施設

聖廟(国重文)は貞享元年(1684)の建立

備前焼の本瓦を葺いた外門、中庭、大成殿の屋根が重なっている
 
切妻造本瓦葺で四脚門の外門/境内左奥に佇む繋牲石(国重文)....孔子を祀る釈奠に供える「いけにえ」の生き物をつなぐ石柱

外門側から中庭・東階・西階大成殿が連なる・・中庭と大成殿はいずれも入母屋造本瓦葺....妻の拝にはいずれも梅鉢懸魚、妻飾は中庭が小壁で大成殿は豕扠首

三間四方の中庭....桁行三間、梁間三間で、軒廻りは一軒疎垂木、柱の上に舟肘木
 
切妻造本瓦葺で桁行二間・梁間一間の東階・西階....床は太い白線で縁取りされた六角形の敷石/大成殿の正面三間はいずれも桟唐戸で内側に格子戸

東階・西階の間から眺めた大成殿....金色に輝く孔子金銅像を安置している

切妻造本瓦葺の聖廟の文庫と厨屋(土蔵造り)

聖廟より一段低い位置に白壁の練塀に囲まれて鎮座する閑谷神社(国重文)....元々「芳烈祠」と称していたが明治八年(1875)に閑谷神社に改称

閑谷神社は貞享三年(1786)の建立で、備前岡山藩初代藩主・池田光政坐像をご神体として祀る

本殿は作業テントで覆われ改修中....神社は本殿(芳烈祠)、幣殿、拝殿、神門、神庫からなる
コメント

加茂神社 (久米)

2019年04月30日 | 寺社巡り-岡山

【岡山・久米郡】由来を調べたが、境内に立てられた環境省・岡山県の案内板しかないようだ。 案内板によると、この地に移住した式部太郎源元俊という人物が、京都の下加茂神社の大穴牟遅命と加茂神社の玉依姫命を合祀し、平安初期の承和二年(835)に加茂大社として建立した。
加茂大社は浄土宗の開祖法然上人の祖先である漆間家に代々崇敬されていたので、誕生寺建立後は鎮守の神として祭られ、江戸初期の元和三年(1617)、誕生寺の住持深誉和尚が再営して今日に至る。 祭神は玉依姫命(賀茂別雷大神の母)、大穴牟遅命(大国主の命)、加茂建角身命(玉依姫命の父)の3柱。

娑婆堂から参道を下ってJR誕生寺駅に向かっていると、民家の直ぐ脇に「加茂大明神」の額が掲げられた石造りの明神鳥居と社号標石が立つ。
鳥居を通して、緩やかな登りになっている狭い参道奥の石垣の上に鎮座する社殿が見える。 石垣は野良積と谷積の異なる石積で造営され、石垣の上に玉垣が設けられている。 野良積の間の石段を上ると樹林を背にして社殿が建ち、仏堂風の造りの拝殿は、正面と側面が全てガラス入り腰高格子戸になっている。 拝殿後方に幣殿と春日造りの本殿が鎮座しているが、幣殿の屋根が本殿向拝の下に食い込むように虹梁まで延びていて、少々窮屈そうだ。 本殿は一間社春日造りで、母屋柱は前方2本が丸柱、後方2本は角柱。 大棟には本殿の大棟には外削ぎの千木と2本の堅魚木が乗る。
本殿の左右にはしっかりした石造りの基壇上に境内社が鎮座....いずれも流造りのお社で、大棟の千木はいずれも外削ぎだが、堅魚木の数は奇数と偶数で異なる。
 
参道入口に立つ社号標石と昭和三年(1928)造立の明神鳥居....額束に「加茂大明神」の額/参道奥の石垣の上に鎮座する社殿....石垣は野良積と谷積とで造られている

石垣上に玉垣が設けられ、樹林を背に社殿が建つ

入母屋造参瓦葺の拝殿....拝殿は仏堂風で、正面と側面は全てがガラスが張られた腰高格子戸の引き戸
  
左三つ巴を入れた獅子口を乗せた唐破風向拝/兎毛通は雲の彫刻(と思う)、梁の上に彫刻を施した撥束、水引虹梁の上には波の彫刻/笠が大きく鋭く張り出し、火袋が木製の石燈籠....安政六年(1859)の造立

拝殿の軒廻りは一軒繁垂木で、組物は舟肘木.....正面三間と側面二間は全てガラス入り腰高格子戸で、組高欄付き切目縁を巡らす

拝殿と本殿の間に桟瓦葺の幣殿がある....幣殿の屋根が本殿向拝の虹梁まで延びている

春日造銅板葺の本殿....大棟に外削ぎの千木と2つの堅魚木が乗る
 
基壇上に建つ本殿....正面と側面に擬宝珠高欄、側面奥に板張りの脇障子/井桁はないが一間社春日造りで、母屋柱は前方2本が丸柱、後方2本は角柱

本殿の軒廻りは二軒繁垂木、組物の間の中備は脚間に彫刻を施した本蟇股、軒支輪がある.....手狭の精緻な菊のような彫刻が見事

拝殿側面の長押の上に正面の長押の上に奉納された品物と奉納者名が墨書きされた木札が掲げられている
 
本殿の左右に鎮座する流造銅板葺の境内社....右側のお社は大棟に外削ぎの千木と2つの堅魚木が乗る/左側のお社は大棟に外削ぎの千木と、こちらは3つの堅魚木が乗る
 
切妻造桟瓦葺で窓のない白壁の建物は神庫か神輿庫と思う/境内右手に石碑が立つが失念
コメント

浄土院 (久米)

2019年04月26日 | 寺社巡り-岡山

【岡山・久米郡】平安時代の貞観四年(862)、最澄に師事した比叡山延暦寺第3世天台座主の円仁(慈覚大師)を勧請開山と仰いで天台宗の香華院として開創された。
鎌倉初期の建久四年(1193)、源氏の武将で法然の弟子となって出家して法力房蓮生と名乗った熊谷直実が、法然の父・漆間時国の旧邸宅を寺院に改め、誕生寺と称した。(浄土院の寺号の由来は不詳)
鎌倉初期創建の本堂(御影堂)などは、安土桃山時代の兵火で焼失し、誕生寺はいったん廃寺となったが、再興され、現浄土院の地に塔頭として岡之坊が建てられた。 江戸時代初期の元和年間(1615~1624)、塔頭・岡之坊の跡地に誕生寺の奥之院として浄土院が再興され、法然上人御両親の菩提寺となっている。 宗旨は浄土宗で、本尊は慈覚大師作とされる阿弥陀如来像。

法然上人御両親霊廟の前から奥之院の浄土院に向かうと、石垣の傍に、「六角堂」を目立たせた浄土院の案内板がある。 参道を進むと、山の傾斜地に白壁の築地塀に囲まれ浄土院の境内がある。 上下二段になった境内の上段に六角堂が建っているが、想像した以上の大きさなので、一見しただけでは六角堂だと分からない。
薬医門をくぐると境内はかなり狭く、直ぐ前に庫裡、左手の階の上に本堂の六角堂が鎮座している。 階を上がって六角堂に....江戸時代の趣ある建物かと期待していたが、意外に近代的な造りで少しがっかりした。 向拝で合掌し、本堂の左側に移動....側面や廻縁隅の角度を見ることでようやく六角形の建物であることが分かった。 階を下り、庫裡前で立ち止まり、六角堂に向かって合掌してから山門を出た。
 
法然上人御両親霊廟から浄土院に向かう緩やかな石段の参道....右手の野積の石垣の上の白壁の築地塀の中が浄土院境内/浄土院の石垣の傍にある「六角堂」と大書された案内板....「法然上人御両親・漆間家の香華院で、慈覚大師開基による」とある

山の傾斜地に造営され、装飾が施された白壁の築地塀に囲まれた狭い境内の上段に六角堂、下段に庫裡が建つ

袖塀を設けた切妻造本瓦葺の山門は薬医門

門の直ぐ正面に建つ入母屋造桟瓦葺の庫裡....唐破風の玄関
 
銅板葺唐破風に立葵紋入りの獅子口が乗る/兎毛通は変形の蕪懸魚(かな)、虹梁上に絵様彫刻のある大瓶束、頭貫上に脚間に鳳凰の彫刻を施した本蟇股

庫裡玄関越しに眺めた境内上段に建つ六角堂
  
石段の脇に置かれた近代的な形の常香炉/庫裡境内の塀際に鎮座する舟光背型の地蔵石仏

石段上に鎮座する本堂の六角堂.....江戸時代ではなく築数十年の建物だろうと推

露盤宝珠を乗せた六注造桟瓦葺の六角堂(本堂)....軒廻りは二軒繁垂木で、組物は角に舟肘木のみ

流れ向拝の水引虹梁の上に脚間に杏葉紋のような彫刻を施した異形の蟇股
  
正面の入口の敷居上に魔除けとみられる鬼瓦が置かれている/向拝に下がる鰐口/廻縁隅の角から六角形の建物だと分かる....六角堂と下段の庫裡とは傾斜した渡り廊下で繋がっている

周囲に擬宝珠高欄付き切目縁を巡らし、隅降棟の下に風鐸が下がる
 
築地塀の際に置かれた旧本堂(と思う)の鬼瓦....真ん中の鬼瓦の後方に、月影銀杏や立ち葵の寺紋付き瓦が置かれている/舟光背型地蔵石仏....左右の手の部分が欠落している




コメント

誕生寺-(3) (久米)

2019年04月22日 | 寺社巡り-岡山

【岡山・久米郡】本堂(御影堂)は鎌倉時代建久四年(1193)の創建。 2代目の本堂は、安土桃山時代の天正七年(1579)に戦国時代の武将で美作・備前各地を転戦して毛利氏と合戦を繰り返していた宇喜多直家の兵火で破壊され、現在の3代目は元禄八年(1695)に再々建された。 境内には法然上人の産湯の井戸、そして両親の霊廟がある。

阿弥陀堂、毘沙門堂を拝観した後、有料の客殿・方丈庭園・「法楽園」を拝観するため古い唐門をくぐる。 唐門は室町時代の建立で、大きな花頭窓を設けた白壁の塀に挟まれていて趣がある。
唐門の直ぐ右脇には擬宝珠高欄付き廻縁を設け、軒四隅に風鐸が下がる少し細身の袴腰鐘楼が建つ。 霰崩風の敷石参道の先に大きな唐破風玄関の客殿が建ち、右側に方丈庭園が広がり、左側に客殿と本堂とを結ぶ吹き放しの渡り廊下がある。
客殿に入り、襖で仕切られた部屋の周りの入側を進み、襖絵、掛軸、衝立、額絵馬などを拝観。 襖絵は「狩野法橋義信一代の傑作」で「一点雑念を挟まず朗々たる心境にのぞんだ六十八才(安政二年)のまさに円熟した作品」とあり、見事な襖絵をじっくり堪能した。
客殿後方の縁にでて、木立の中に広がる「法楽園」を拝観....小さな石橋が架かる池泉の回りが苔生していて風情を感じさせるが、期待したほどではなかった。
最後に吹き放しの渡り廊下を進んで本堂内に....内陣と外陣が金色に輝く4本の丸柱で仕切られ、柱の上方の精緻な彫刻群と頭貫台輪上の組物と中備(蟇股・蓑束)がいずれも鮮やかに彩色されていて目を見張った。

本堂(御影堂)向拝から眺めた阿弥陀堂

入母屋造檜皮葺の阿弥陀堂....平成十二年(2000)の再建だが、創建は元禄年間(1688~1704)
 
獅子口が乗る唐破風向拝の彫刻は、兎の毛通が鳳凰で水引虹梁上は空飛ぶ天女/中央間は杏葉紋を配した連子入りの桟唐戸、入口に「瑞應殿」の扁額
  
阿弥陀堂の内陣に鎮座する二重円光を背負い弥陀定印を結んだ阿弥陀如来坐像/向拝柱の傍に置かれた摩尼車/阿弥陀堂前に佇む石燈籠....元禄元年(1688)の造立
 
五色の幟旗が立ち並ぶ参道奥に建つ毘沙門堂....堂内に仏法の護法神である木造毘沙門天像を安置

本堂に連なる客殿(左)と入母屋造桟瓦葺で妻入の寺務所....社務所の奥は方丈の屋根

瓦葺塀で囲まれた客殿への唐門と方丈前庭に建つ袴腰鐘楼

客殿への銅板葺の唐門....室町時代の建立で、両側に花頭窓の透かしを設けた塀が連なる
  
唐門に鳥衾付き鬼板、兎毛通は蕪懸魚、虹梁の上に異形の蟇股/唐門両側の透かし塀に設けた大きな花頭窓/唐門の桟唐戸は上部に異形の花狭間を入れ、摩滅しているが入子板に彫刻が施されている

唐門の傍に建つ入母屋造桟瓦葺の袴腰鐘楼
 
袴腰の上に擬宝珠高欄付き廻縁、軒四隅に風鐸が下がる

大きな唐破風の玄関を設けた入母屋造桟瓦葺の客殿....文政十二年(1829)の再建

唐破風に施された彫刻群....兎毛通は鳳凰、上の虹梁には絵様彫刻を施した撥束(と思う)、下の虹梁には龍、木鼻は獅子と像そして虹梁に花(牡丹かな)
 
客殿は周りに板張床の入側が設けられている....各部屋に見事な襖絵がある/客殿内の獅子の間....勢至丸坐像を安置する厨子や襖絵、法然上人像等が置かれている
 
鎌倉時代建仁元年(1201)作の「吉水の出逢い」....左は69歳の法然上人像/厨子に安置されている合掌する九歳の勢至丸(法然上人幼名)坐像
 
客殿の入側に展示されている掛軸や額絵馬など/葵の御紋が入った文化年間(1804~1818)作の「御戸帳」
 
客殿内の展示物....御用札に「蕐頂御殿御用」の黒書/片手で鬼を持ち上げる桃太郎

襖絵は全て「狩野法橋義信一代の傑作」で、義信は幕末の文政十年(1827)に40歳で「法橋」の称号を得た....掛軸は真ん中が「山越阿弥陀来迎図」、左右が「二祖対面図」でいずれも室町時代の作

客殿後方の木立の中に広がる「法楽園」....小さな石橋が架かる池泉の回りが苔生している

客殿と方丈の間の中庭....砂を敷いた庭にかわいいお顔の一石六地蔵と屋根形笠の飾り石燈籠(と思う)がある

客殿と方丈とを繋ぐ廊下から眺めた方丈前庭と袴腰鐘楼、右奥は本堂への渡り廊下
 
客殿から眺めた本殿への吹き放しの渡り廊下/本堂外陣前に4本(三間)の金色の丸柱....長押上に彩色された精緻な彫刻、頭貫上の台輪上にいずれも彩色が施された出三斗(柱上)と中備に蟇股と蓑束
コメント

誕生寺-(2) (久米)

2019年04月18日 | 寺社巡り-岡山

【岡山・久米郡】法然の父・漆間時国と母・秦氏君が神仏に祈願し、長承二年(1133)に授かった子が法然。 勢至丸と名付けられ、幼少九歳までこの地で両親と暮らした。 御影堂である本堂の須弥壇の位置は、法然が生まれた部屋があった場所とされる。
父の漆間時国は保延七年(1147)、漆間一族と対立していた明石源内武者定明の夜襲に遭って死去。 勢至丸は、九歳から岡山県北東部の奈義の菩提寺で修行を積み、十五歳になった久安三年(1147)、母と別れ比叡山に登った。

本堂の左側に、本堂を向いて「文殊地蔵大菩薩」の扁額が掲げられた地蔵堂と聖観音像を安置した観音堂が並んで建つ。 観音堂の中を格子戸を通して覗くと、正面に華やかな飾の付いた宝冠を頂く聖観音像が鎮座し、左右には十六羅漢とおぼしき像が並んで聖観音像を見守っている。
観音堂から本堂後方に進むと、境内を流れる片目川に架かる石造り反橋の「無垢橋」があり、その先に、白壁の築地塀で囲まれた法然上人の両親の霊廟がある。
薬医門をくぐって厳かな空気に包まれた霊廟内に....脇間に大きな花頭窓がある礼堂、その奥に勢至菩薩像を祀る勢至堂が寂然と建ち、勢至菩薩像の両脇に法然上人の両親の墓がある。 霊廟境内には法然上人産湯の井戸があり、誕生寺ゆかりの人々の五輪塔の墓碑の他、石仏・供養塔・句碑などがひっそりと佇んでいる。 霊廟の西側に法然上人両親の菩提所である奥の院の浄土院があり、参拝した後、誕生寺境内に戻った。

本堂を向かって鎮座する観音堂と簡素な地蔵堂

露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の観音堂....寛永八年(1631)頃の建立で、初代津山城主の寄進
 
腰高格子引戸の上に「南無観世音大菩薩」の扁額、入口の右の柱に「中国三十三観音特別霊場」の聯/観音堂内陣に鎮座する聖観音像
  
円光を背負い、飾付宝冠を頂き、左手に未開連を持つ聖観音像/本尊前の小さな厨子に安置されている舟形光背の聖観音像/堂内に置かれた五重小塔
  
切妻造銅板葺の地蔵堂....「文殊地蔵大菩薩」の扁額が掲げられている/地蔵堂に鎮座する延命地蔵尊像(左?)と文殊地蔵尊像/観音堂前に佇む石塔は中国風八角石幢のようだ

無垢橋の辺に聳える三代目の「両幡の椋」(「誕生椋」の石標)、佇む五輪塔と六字名号塔

境内を流れる片目川に架かる石造り反橋の無垢橋....大正九年(1920)建設....橋の奥に法然上人の「御両親御霊廟」がある

白壁の築地塀で囲まれた法然上人の両親の霊廟....切妻造桟瓦葺の薬医門を通して勢至堂が見える

霊廟境内の中央に鎮座する勢至堂....正面の入母屋造桟瓦葺の建物は礼堂(と思う)

礼堂と勢至堂の間の両側は低い白壁の瓦葺塀で、基壇上の勢至堂は玉垣に囲まれている

露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の勢至堂....堂内中央に勢至菩薩像を安置、その両脇に両親の墓がある

向拝の水引虹梁上に大きく精緻な龍の彫刻....入口に「大勢至」の扁額

軒廻りは一軒繁垂木、組物は平三斗で中備は間斗束....正面中央間は格子戸、脇間に花頭窓
 
霊廟境内の片隅に佇む南北朝時代造立の宝篋印塔/塔身の正面に舟形に彫り窪めた中に弥陀定印を結ぶ阿弥陀如来像が浮き彫り
 
山裾に勢至堂を向いて鎮座する墓碑・石仏・供養塔・句碑など....手前は松尾芭蕉の句碑/安政七年(1860)造立の六十六部供養塔

白壁の土塀で囲まれた「原田三河貞佐の墓」....十五代稲荷山城主三河守は寺領百石の寄進等多大な貢献....安土桃山時代天正14年(1586)没

右の五輪塔の地輪に天正十四年(1586)の銘

「原田三河貞佐の墓」之右手に整然と鎮座する五輪塔群(中に宝篋印塔1碁あり)

山裾に佇む6基の回向塔と石仏群....石仏は観音菩薩、地蔵菩薩、阿弥陀如来で回向塔を護るように塔の周りに鎮座
 
切妻造銅板葺の覆屋に護られた法然上人の「産湯の井戸」

霊廟境内の大きな五輪塔は津山城主森忠政の長男と養母の墓....長男は元和四年(1618)没の森大膳亮重政、養母は寛永四年(1627)没の大野木(武将柴田勝家の娘)
コメント

誕生寺-(1) (久米)

2019年04月14日 | 寺社巡り-岡山

【岡山・久米郡】鎌倉初期の建久四年(1193)、浄土宗の開祖・法然上人の徳を慕った弟子の法力房蓮生(熊谷直実)が、法然上人誕生の地に草庵を建てたのが始まり。
法力房蓮生は、美作の豪族で久米の押領使であった法然の父・漆間時国の旧屋敷を寺院に改め、誕生寺を建立、かつては誕生律寺と呼ばれた。 熊谷直実は源氏の武将で、法然の弟子となって出家して法力房蓮生と名乗った。 宗旨は浄土宗、本尊は円光大師(法然上人)像。 法然上人二十五霊跡第1番。

開祖の誕生の地に建立された誕生寺を訪れるのは、2013年の日蓮宗の開祖・日蓮聖人の千葉・鴨川市の誕生寺以来だ。
参道に架かった鉄道の高架をくぐると、右手に青空に向かって聳えるモニュメントが見える。 近づいて正面に立つと、まるで合掌する手のような姿で、真ん中に「南無阿弥陀佛」と大きく記されているので六字名号塔のようだ。 この地は中国地蔵尊三十霊場第一番霊場で、簡素な釈迦堂に六地蔵尊像が南面で鎮座している。 そこから真っ直ぐ西に延びる参道を300メートルほど進み、小さな門前町を抜けると正面に月影杏葉の紋を入れた幕が張られた山門がある。
山門をくぐると正面に、大きく張り出した裳腰に唐破風向拝を設けた簡素だがどっしりとした本堂が建つ。 境内の南側に五重石塔、阿弥陀如来坐像、旅立ちの勢至丸(法然の幼名)像、そして比叡山に旅立った勢至丸の無事を祈る母・秦氏像が本堂を向いて鎮座している。 本堂前の境内に、垂乳根が下がる古木「公孫樹」があるが、伝承だが約870年前、比叡山に旅立つ法然上人のお手植えの木とのことで、感慨深い。
 
誕生寺山門の手前約300メートルの参道脇に鎮座する六字名号塔と娑婆堂....この地は中国地蔵尊三十霊場第一番霊場

六字名号塔の脚間から眺めた娑婆堂
 
境内に鎮座する敷島地蔵尊像...舟光背型石仏で輪郭を巻いた台座上の蓮華座に鎮座/左手に宝珠、右手に錫杖を持つ地蔵尊像

露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の娑婆堂

中央に御本尊の地蔵菩薩立像、その左右に6地蔵尊像(檀陀地蔵、宝珠地蔵、宝印地蔵、持地地蔵、除蓋障地蔵、日光地蔵)が鎮座

地蔵尊像後方の上の欄間部に掲げられた彩色された透かし彫り彫刻....円光を背負う地蔵尊像と童子たち....反対側には2体の鬼と童子たち

山門の両側に5本の筋が入った筋塀(築地塀)が延びる門前....筋塀は安政四年(1857)、伏見宮家寄進

切妻造本瓦葺の山門(国重文)....正徳五年(1716)の創建....白地に月影杏葉の紋を入れた幕が張られている
 
山門は薬医門で、本柱(右)と控柱を結ぶ梁の中間の上に束が乗る/大棟と平降棟の端に長い烏衾を乗せた鬼瓦、獅子の留蓋瓦、瓦当(軒丸瓦の円形)に月影杏葉の文様

薬医門の典型的な様式を示した構造といえる....本柱に乗った女木が本柱と控柱を結ぶ出梁(男木)を支える、拝に蕪懸魚

境内の切石敷参道に枝を伸ばし、注連縄が張られた法然上人お手植えの巨木「公孫樹」(銀杏)....樹齢約870年とされる

正面に建つ本堂は鎌倉時代建久四年(1193)に熊谷法力房蓮生による創建、二代目の本堂は安土桃山時代の天正七年(1579)に宇喜多直家により破壊された

入母屋造本瓦葺で裳腰付の本堂(御影堂)(国重文)....本堂(御影堂)には本尊の円光大師(法然上人)像を安置

現在は三代目の本堂で元禄八年(1695)に再々建....正面は中央間に連子入りの両折両開きの桟唐戸、脇間は舞良戸で内側に腰高明り障子

桟唐戸の内側に腰高明り障子戸、透かし彫りの欄間....正面側面に擬宝珠高欄付き切目縁を巡らす

鳥の彫刻を施したし獅子口を乗せた唐破風の向拝の精緻な彫刻群....兎毛通(唐破風懸魚)は2羽の鶴、梁の上に馬に乗る何か、水引虹梁の上に一部を彩色した龍
 
向拝の虹梁に脚間に彫刻を施した大きな蟇股が乗る/本堂に掲げられた「誕生律寺」の扁額....誕生寺はかつて誕生律寺と呼ばれた

軒廻りは母屋・裳腰いずれも二軒繁垂木、組物は平三斗と出三斗で、中備は母屋が蓑束で裳腰は脚間に鳥や花の彫刻を施した彩色された本蟇股

昭和四十九年(1974)造立の「旅立ちの法然さま」の像....後方の右に大仏、左に五重層塔が鎮座
 
相輪を乗せた五重層塔....火袋のような軸部、親柱に擬宝珠を乗せた禅宗様風の高欄付の基礎/延享二年(1745)造立の守護大仏....安土桃山時代天正六年(1578)のような法難が起こらないよう造立され、平成二十六年(2014)に勢至堂境内から現在地に遷座

御影堂(本堂)を見守る「旅立ちの法然さま」の像
 
平成二十二年(2010)造立の勢至丸の母・秦氏像...久安三年(1147)に比叡山に旅立った勢至丸の無事を祈る姿
コメント