何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

旧清水邸書院-(1) (東京)

2024年04月16日 | 史跡探訪-日本編

【東京・世田谷区】旧清水邸書院(旧清水家住宅書院)は、二子玉川園内の”帰真園”の一角に造営された建物。 書院は明治四十三年(1910)頃、中根岸(現在の台東区)の清水家屋敷内に離れとして建てられたもので、大正八年(1919)に区内瀬田の同家の屋敷に主屋とともに移築された。 屋敷は昭和二十七年(1952)に売却され、その跡地に玉川病院が建てられたが、書院と数棟の建物は受け継がれ、病院の厚生施設として使われた。

★東急線二子玉川駅からライズショッピングセンターを通り抜けると「帰真園」に着く。 帰真坂を下り、帰真園の東側に続く土塁に沿って園路を進む。 土塁の間に建つ帰真門を横目で見ながらさらに進むと、帰真園の南端に位置する「清水門」に着く。 袖塀付きの清水門を入ると旧清水邸書院が建ち、玄関前の笹が茂る坪庭に珍しい四方仏形の飾手水鉢が置かれている。 玄関がある建物は新築部分で、右の池泉側の建物が移築復元された旧清水邸書院だ。 外壁は漆喰塗りの白壁で腰壁は下見板張りだ。

△帰真園の東側土塁の途中に建つ帰真門

△△切妻造板葺の帰真門....扉は縦羽目板を張った板戸

△帰真園の南端に建つ切妻造板葺で板張りの袖塀を備えた清水門

△清水門を入った直ぐのところに建つ旧清水邸書院

△旧清水邸書院の入り口....左側は新築部分の玄関棟、右側白壁の建物は移築復原された旧清水邸書院

△玄関前の坪庭の笹の中に置かれた四方仏形の飾手水鉢/飾手水鉢は四方側面の月輪に仏様坐像が浮彫されている

△書院南側に繋がる玄関がある棟は新築部分(左)....右の書院は移築復元部分

△書院南側は下見板張の腰部と白壁....下見板張外壁に庇付き窓

△軒廻りは一軒疎垂木/書院東側の外壁は下見板張りの腰部と白壁....出っ張った所は「書院の間」に設けられた戸棚部

★まずは旧清水邸書院の外観を拝観するため、玄関から建物の左手に進む。 玄関がある建物には台所、トイレ、水屋そして倉庫があるが、屋根や外壁は書院と同じ造りになっている。 池泉に面した書院の西側と北側は裳階で鉤の手の縁側になっていて、全面がガラス入り腰高格子戸の建付けに。 沓脱台が置かれている北側の縁側からは池泉回遊式庭園のほぼ全体が眺められるので、縁側に腰を下ろしてしばし庭園を眺めた。

△玄関の庇の軒先樋の端から垂れ下がる鎖樋

△面格子付き窓がある玄関棟の南面

△玄関棟の外壁は腰部の下見板張と白壁

△寄棟造桟瓦葺の旧清水邸書院....北面と西面に桟瓦葺の裳階を設け、鉤の手に縁側(内縁)が設けられている

△書院西側と北側は全面にガラス入り腰高格子戸の建付けで内側に縁側

△書院西側の北西端から眺めた池泉回遊式日本庭園の「帰真園」

△書院の北側は西側と同じ造りだが、内縁前に沓脱石が配されている

△腰高格子戸の上に設けられたガラス入り格子欄間

△帰真園の全景が一望できる書院北側

△池泉内に佇む石燈籠越しに眺めた旧清水邸書院
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西宮神社の大練塀

2024年04月11日 | 最古・唯一などの遺構

【兵庫・西宮市】国内に現存する最古・最大規模の練塀。
創建年代不明(平安時代後期には既に鎮座)の西宮神社の境内地を取り囲む築地塀のうち、表大門(赤門・重要文化財)がある東面と南門がある南面とに築かれている全長247メートルの練塀で、「大練塀」と呼ばれ、国の重要文化財に指定されている。 大練塀は室町時代初期(約650年前)の造営と推定されている。 西宮神社の練米は、名古屋・熱田神宮の「信長塀」と京都・三十三間堂の「太閤塀」(いずれも重要文化財)と共に日本三大練塀の一つに数えられている。 なお、西宮神社は全国に約3,500社ある「蛭子(えびす)神社」の総本社(えびす宮総本社)で、地元では「西宮のえべっさん」と呼ばれる。

★えべっさん筋に面して鮮やかな朱塗りの表大門が建ち、門両側に薄茶色の堅牢な練塀が延びている。 練塀は広大な境内の東面の南半分と南面全体に247メートルにわたって設けられている。 桃山建築の遺構を残した風格ある佇まいの赤門と呼ばれる表大門をくぐり、境内から赤門付近の練塀を眺める。 見ると約4メートル毎に縦筋が入っていて、4メートル単位の築地を連ねて構築されていることがよくわかる。 手入れが行き届いた境内の参道を通り、練塀を繰り抜いたように設けられた南門に向かう。いったん南門をでて、門前に立って東西に延びる練塀を眺める....まさに歴史を感じさせる古色蒼然たる佇まいだ。

△東面で建つ赤門と呼ばれる表大門(重文)の両側に連なる練塀....表大門は安土桃山時代末期の慶長九年(1604)、豊臣秀頼による再建

△表大門の門前から見た東面南側の練塀....「大練塀」と呼ばれ、室町時代初期(約650年前)の造営と推定されている

△境内側から眺めた切妻造本瓦葺で朱塗りの表大門

△東面南側の境内側の練塀

△境内側から見た南側の練塀....練塀は平均長さ約4メートル単位の築地塀を63連ねたもの

△本瓦葺屋根の練塀の中に設けられた門....南面側にあったと思うが境内図等で位置や門名は確認できず

△門前から見た境外南面の東側の練塀

△門前から見た境外南面の西側の練塀
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西宮神社-(4) (西宮)

2024年04月06日 | 寺社巡り-兵庫

【兵庫・西宮市】太平洋戦争が終わる昭和二十年(1945)、連合国軍の都市無差別空襲で本殿等を焼失した(赤門は残る)。 同三十六年(1961)、桧皮葺から銅板葺に変わった他はほぼ元通りに復興された。 本殿は三連春日造と云う珍しい構造をしている。 西宮神社は「十日戎」での福男選びというイベントが有名で、毎年、TVニュースで紹介されている。

★拝殿の南側に広がる中世造営の神池の庭園に。 拝殿の真正面の池の端に石造りの太鼓橋が架かっている。 瑞寶橋という青銅製の擬宝珠欄干を備えた趣のある橋だが、神様だけが渡る橋だからか柵に注連縄が張られていて通行止めだ。
太鼓橋と並行に架けられた緩く湾曲した反橋を渡って中島へ。 石組護岸の神池に浮かぶ中島は3つの島からなり、ほぼ平らな石橋で繋がっている。 拝殿側の島には古い境内社の宇賀魂神社が鎮座し、石組の築山の上に伊勢鳥居が東面で建つ伊勢神宮遥拝所がある。

△社殿の南側に広がる庭園....南北朝時代~室町時代の造営で、神池を中心に中央に石組による築山を配した庭(「蓬莱山水式庭園」という)....石組護岸の神池に浮かぶ中島は3つの島からなる

△拝殿の真正面の神池に架かる瑞寶橋....明治四十年(1907)に奉納された石造り太鼓橋で擬宝珠欄干は青銅製

△瑞寶橋と並行に架けられた石造り反橋(通行可)

△中島から見た瑞寶橋....ちょうど拝殿の真正面に架かっている

△反橋を渡った直ぐの中島(北側の大きな島)に鎮座する宇賀魂神社

△流造銅板葺の宇賀魂神社....祭神・宇賀御魂命を祀る....文明年間(1469~1487)以前からこの地に祀られていた古い境内社

△神楽所の西側に広がる神池の「神池石垣寄進碑」....元禄九年(1696)に寄進された神池の石垣を記念した石碑で、長らく池畔に散在していた

△中島と神楽所の間に架かる反り橋

△宇賀魂神社の向かいに設けられた伊勢神宮遥拝所....石組みの築山の上に周囲を石で囲み、伊勢鳥居が東面で建つ

★遥かな伊勢神宮に向かって参拝した後、3つに分かれていて平らな石橋で繋がっている石組護岸の中島を時計回りに進む。 石組み築山の石の間から流れ落ちる段落の滝があるが、小さ過ぎて見落としそうだ。 鯉が優雅に泳いでいる3つの島の真ん中は、まるで池の中にもう一つの池があるようだ。 神池西側の境内にある「おかめ茶屋」に近い島には、江戸時代には弁才天として祀られていた市杵島神社が鎮座している。 西宮神社を参拝したのは4月20日だったが、偶然にも「旬祭」という祭典を拝観することができた。 厳かに行われている神事を拝殿からしばし眺め、これはゑびす様からのご利益の一つなのかなと思いながら表大門に向かった。

△伊勢神宮遥拝所の伊勢鳥居から眺めた庭園....奥の木々の中に見える寄棟造りの建物は六英堂

△伊勢神宮遥拝所の石組みの築山から流れ落ちる小さな段落の滝....松の木の奥の建物は社殿

△中島の松の古木と植栽の中に佇む雪見燈籠

△中島の南側から眺めた庭園....神池の東側に建つ建物は神楽所

△石垣で囲まれた3つの島の中島は石橋で繋がっていて、池の中に池がある景色

△中島の「おかめ茶屋」への反橋の近くに鎮座する市杵島神社

△流造銅板葺の市杵島神社...祭神・市杵島神を祀る....江戸時代には弁才天として祀られていた

△神池の西側の境内にある「おかめ茶屋」....神池に架かる反橋(反橋は中島に3つある)を渡った直ぐの所

△神明造屋根で吹き放しの祓所....大棟に内削ぎの千木と4本の堅魚木が乗る

△偶然にも4月20日の訪問だったので、「旬祭」の祭典(午前十時)に出くわした

△祭典が始まる十時前には多くの参詣者が拝殿に居並ぶ

△最初は神酒を供えるようだ

.△野菜を供える....すでに魚が供えられている

△リンゴだろうか果物を供える

△玉手箱のようなこれは何かな?




















コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西宮神社-(3) (西宮)

2024年04月01日 | 寺社巡り-兵庫

【兵庫・西宮市】西宮神社は廣田神社の摂社で「西宮戎社」と呼ばれていたが、明治五年(1872)、官幣大社となった廣田神社から分離独立、同六年(1873)に西宮戎社から「大国主西神社」に改称された。 しかし、同七年(1874)、境内末社の大己貴社が大国主西神社とする説が挙がったため、教部省は大国主西神社を西宮神社に、末社の大己貴社を大国主西神社に改称し、両神社とも廣田神社の摂社とし、県社に指定した。 同八年(1875)、教部省から西宮神社は廣田神社とは別に祠官を定め、社務と社入も別途としてもよいとの通達が出され、西宮神社の独立が守られた。

★若い男達が「福男選び」で走る表大門から約230mの位置に建つ社殿は、昭和三十六年の再建で新しいが荘厳さが漂う。 大きな唐破風向拝の拝殿の前の左右に、いずれも青銅製の一対の狛犬と神馬とが鎮座。 向かって左側の吽形は頭頂に角があるので雌の狛犬で、右側の阿形は雄の獅子だ。 拝殿を通って中に入ると、社殿と回廊で囲まれた玉砂利と切石が敷かれた聖域がある。 真正面に鎮座する本殿は、三連春日造りという三棟(三殿)が繋がった珍しい造りだ。 本殿は昭和期の再建なれど、神々しい威厳に満ちた社殿だ。

△表大門から約230m離れた位置に南面で鎮座する西宮神社の社殿

△拝殿前左右に鎮座する一対の青銅製馬像は明治三十二年(1899)の造立

△入母屋造銅板葺きの拝殿....社頭に各一対の青銅製の狛犬と神馬とが鎮座

△正面の屋根に大きな千鳥破風を乗せ、身舎左右に翼廊とみられる入母屋造りの建物....大きな唐破風の三間幅の向拝

△拝殿前左手に鎮座する青銅製の狛犬....天保十二年(1841)造立で昭和四年(1929)の再建/右手に鎮座する青銅製の狛犬....こちらは阿形の雄の獅子

△吽形の像は角があるので雌の狛犬....昭和二十年(1945)の戦災で礎石を破損したため像を徹客、その後破損を改修して再安置

△唐破風の棟に鳥衾を乗せた鬼板、拝は変形の猪ノ目懸魚、水引虹梁に「西宮神社」の扁額....向拝は三間幅で主に両折両開で吹寄格子を配した扉

△社殿に向かって左側の翼廊(と思う)に配された吹寄格子風の窓と上に菱格子欄間/吹寄格子を配した扉

△本殿は銅板葺き三連春日造という三棟が繋がった珍しい造り....元国宝の建物で昭和二十年(1945)の戦災で焼失したが、昭和三十六年(1961)に桧皮葺から銅板葺に変えた他はほぼ元通りに復元された

△本殿の創建は江戸時代寛文三年(1663)で、徳川第四代将軍家綱により寄進

△向かって右から蛭児大神を祀る第一殿、中央は天照大御神・大国主大神を祀る第二殿、左が須佐之男大神を奉斎する第三殿

△「西宮造り」ともいわれる三連春日造銅板葺の本殿....屋根に内削ぎの千木と1本の堅魚木が乗り、拝に蕪懸魚、妻飾は豕扠首

★本殿に向かって左側に、大きく枝を広げた古木の下に四社の摂社末社が鎮座している。 その中の拝殿を備えて東面で鎮座する大國主西神社は、延喜式神名帳に記載されている式内社だ。 大國主西神社の南側に大きな神輿殿、そして社頭に六基の朱塗りの明神鳥居が建ち並ぶ神明神社が鎮座するが、社殿に多くの「稲荷大神」の提灯が下がり、赤い前垂れの狐像が守護しているので稲荷社といった方がよさそうだ。 さらに南側には、立派な基壇の上に瑞垣に囲まれて松尾神社が鎮座している。

△社殿の西側に並んで鎮座する摂社末社....右から南面の火産霊神社、百太夫神社、六甲山神社そして東面の大國主西神社

△流造銅板葺の火産霊神社....火伏の神様として信仰される愛宕の神様(祭神火皇産霊神)を祀る

△流造銅板葺の百太夫神社....祭神百太夫神を祀る、「えびすかき」として有名な人形操り蘇秦

△流造銅板葺の六甲山神社....祭神菊理姫命を祀る....白山権現と言われる山の神様で、六甲山頂に鎮座する奥宮の方角を向いている/六甲山神社社殿の大棟に内削ぎの千木と2本の堅魚木が乗る

△大國主西神社(式内社)....祭神大巳貴命・少彦名命の2柱を祀る

△拝殿は入母屋造銅板葺、後方の瑞垣で囲まれた中に鎮座する本殿は流造銅板葺/大國主西神社社殿の大棟に外削ぎの千木と3本の堅魚木が乗る

△切妻造桟瓦葺の神輿殿....入口の切妻破風の妻と身舎の妻は豕扠首

△神明神社....祭神豊受比女神(合祀稲荷神)を祀る....大阪奉行所の西宮勤番所敷地内から遷座され、稲荷神を合祀

△社殿前に多くの「稲荷大神」の提灯が下がり、狐像が鎮座

△社殿前の左右に鎮座する赤い前垂れをした狐像

△流造銅板葺の神明神社社殿....大棟に外削ぎの千木と3本の堅魚木が乗る/社頭に建ち並ぶ六基の明神鳥居と左右に石燈籠....大きい石燈籠は弘化二年(1845)、社殿側は文政元年(1818)の造立

△神明神社の南側に鎮座する酒・海上安全・船玉・道案内の神様を祀る松尾神社

△基壇上の瑞垣に囲まれて鎮座する松尾神社....祭神大山咋神・住吉三前大神・猿田彦命の三柱を祀る

△流造銅板葺の松尾神社社殿....擬宝珠高欄付き縁を設け側縁の奥に脇障子がある












コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西宮神社-(2) (西宮)

2024年03月26日 | 寺社巡り-兵庫

【兵庫・西宮市】古社廣田神社の境外摂社南宮社の名残として、「南宮神社」が現在でも西宮神社の境内に鎮座する。 鎌倉時代の弘安十年(1287)、時宗の開祖一遍上人が西宮大明神を参詣した。 安土桃山時代の天正六年(1578)、織田信長に反旗を翻した武将・荒木村重の乱の戦火で社殿を消失した。 安土桃山末期の慶長八年(1603)、豊臣秀吉の次男秀頼により慶長九年~十四年(1604~1609)に本殿、拝殿などが再建され、同年九年(1604)に表大門が再建された。 承応二年(1653)に社殿を焼失したが、寛文三年(1663)、徳川第4代将軍家綱によって本殿が再建された。 また、西宮神社は全国に頒布していたえびす神の神像札(神札)の版権を江戸幕府から得て隆盛した。

★南門をくぐると直ぐ左手の大練塀の傍にあらえびす神社と呼ばれる沖恵美酒神社が東面で鎮座している。 参道を進み社殿側に折れると直ぐ左手に廣田神社の境外摂社の南宮神社が鎮座している。 南宮神社から注連柱と鳥居が建つ切石敷の参道が真っすぐ延びているが、社殿はまだ見えない。 参道を少し進むと左脇に木々に囲まれて六英堂が建ち、門傍に「明治天皇御聖蹟」と彫られた標石が立つ。 六英堂は都内にあった明治の元勲・岩倉具視の私邸が移築されたもので、岩倉病臥中、明治天皇行幸の際に使われた部屋があったようだ。 参道を跨ぐ明神鳥居の傍の左手に神馬舎があり、やさしい顔の神馬が参詣者を迎えている。

△南門傍の大練塀脇に鎮座する境内末社の沖恵美酒神社(あらえびす神社)....明治五年(1872)この地に遷座、ご祭神は沖恵美酒大神

△切妻造銅板葺の拝殿と大棟に外削ぎの千木と5本の堅魚木を乗せた流造銅板葺の本殿

△妻入の拝殿は一軒繁垂木で組物は舟肘木、拝は猪ノ目懸魚で妻飾は豕扠首....扉は腰高格子戸/本殿は一間四方で、柱は丸柱、向拝柱は面取角柱

△正面は飾金具を施した扉と両側に小脇羽目板....正面と両側面に組高欄付き縁、側面縁奥に格子状板張の脇障子

△南宮神社前の竿が角柱の石燈籠は明治三十七年(1904)の造立

△北面で鎮座する南宮神社....西宮神社の境内にあるが廣田神社の境外摂社....切妻造銅板葺の大きな拝殿は吹き放しの造りで、「廣田神社摂社 南宮神社」の扁額が掛かる

△南宮神社前の赤い前掛けをした狛犬は弘化二年(1845)の造立/阿形の狛犬は顔面の鼻と口の部分が破損している

△拝殿を通して眺めた本殿....正面は中央と左右小脇羽目の3カ所に飾金具を施した扉を配している

△本殿は一間四方で柱は丸柱、向拝柱は面取角柱....正面と両側面に組高欄付き縁、側面縁奥に格子状板張の脇障子

△明治七年(1874)造立の注連柱....社殿に続く切石敷の参道の両側に明治期造立の石燈籠が建ち並ぶ

△注連柱傍の参道から眺めた南宮神社と朱塗りの表大門が建つ境内....ここから南宮神社の本殿大棟に乗る外削ぎの千木と5本の堅魚木が見える

★神馬舎の傍から参道に沿って大きな神楽所が建つが、現代風の造りで全面ガラス張りだ。 参道を挟んで向かい側に二基の「青銅神馬の賛碑」と手水舎がある。 手水舎の後方に、域内守護の神を祀る庭津火神社が鎮座するが、拝殿(拝所?)があるだけだ。 見ると裏に周囲に注連縄が張られた塚状の封土がある。 真っすぐな参道を抜けると広い境内が広がり、左奥に社殿、右手に平成再建の社務所が建つ。 社務所の斜め向かいの池の端にある建物に、慶長十五年(1610)に豊臣秀吉の次男秀頼が奉納した「御戎之鐘」.が保存されている。

△注連柱から社殿への参道途中の左手にある六英堂...東京丸の内にあった明治の元勲・岩倉具視公の私邸の離れが昭和五十一年(1976)に移築されたもののようだ

△六英堂の切妻造銅板葺の棟門式の門/六英堂前の植栽傍に立つ「明治天皇御聖蹟」と彫られた標石....明治十六年(1883)、岩倉公が病臥中、明治天皇行幸の際の部屋があった(伝)

△神楽所の南側に建つ入母屋造産瓦葺で妻入の神馬舎/参詣者を迎える白い神馬

△注連柱の先の切石敷参道の途中に南面で建つ明神鳥居....二ノ鳥居で確か鉄製だったか?

△切石敷参道に沿って建つ切妻造銅板葺の神楽所

△手水舎傍の参道脇に建つ2つの青銅神馬の賛碑....神馬は拝殿前に鎮座....左は明治三十二年(1899)建立、右は大正三年(1914)建立

△参道を挟んで神楽所に対面して建つ切妻造銅板葺の手水舎

△手水舎の後方に鎮座する切妻造銅板葺の庭津火神社

△庭津火神社は社殿が無く拝殿(拝所?)のみ,....拝所正面の菱格子窓の前に供えられた沢山の御幣/拝殿の奥の塚状の封土を祭祀の対象とした神社....域内守護の神として祭神奥津彦神・奥津比女神を祀る

△社殿に向かって右手に建ち並ぶ社務所と西宮神社会館(奥)....社務所は阪神・淡路大震災で倒壊、平成十年(1998)に再建

△社務所の斜め向かいの池の端に建つ御堂に「御戎之鐘」が保存されている....切妻造銅板葺きで起り屋根、側面全面に菱格子が施されているに....

△梵鐘は慶長十五年(1610)、豊臣秀吉の長男秀頼による奉納/梵鐘に刻まれた「慶長拾五年三月八日」の銘


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西宮神社-(1) (西宮)

2024年03月21日 | 寺社巡り-兵庫

【兵庫・西宮市】創建時期は不明。 社伝では、神戸・和田岬の沖に出現した蛭児神の御神像を西宮・鳴尾の漁師が引き上げ自宅で祀っていたが、御神託により自宅から西方の地の西宮に宮居を建て、御神像を遷して祀ったのが起源と伝える。
戎(えびす)の名は平安時代後期の文献に記載されていて、古社廣田神社の境外摂社の「浜の南宮」(又は「南宮社」)内に鎮座していたえびす大神は、漁業の神として信仰されていた。 南宮社が現在の西宮神社で、全国に約3,500あるえびす神社の総本山。 主祭神は西宮大神(蛭子命)で、他に天照大御神、大国主大神、須佐之男大神の三柱を祀る。

★阪神電鉄本線「西宮駅」の南口をでて”えびっさん筋”を少し南下すると、古い土塀に挟まれた鮮やかな朱塗りの門の前に着く。 社号標石と石造り明神鳥居を構えた門は赤門と呼ばれる表大門で、この門が毎年1月10日に開催される有名なイベント「福男選び」のスタート地点だ。
門前右手にお酒の神様を祀る梅宮神社が鎮座しているが、以前は御神木を祀っていたようだ。 朱塗りの表大門は安土桃山末期の創建で、その佇まいは威厳に満ちている。 表大門は江戸初期の火災やその後の戦火や震災を逃れた唯一の遺構。

△「えぺっさん筋」に面して立つ社号標石と石造明神鳥居

△明神鳥居を通して眺めた梅宮神社と石燈籠

△大棟に外削ぎの千木と2つの堅魚木を乗せた梅宮神社....石燈籠は神社側が享保十一年(1726)、道路側(右)が寛政十一年(1799)の造立

△赤門前の大練塀を背にして鎮座する梅宮神社....ご祭神はお酒の神様の酒解神

△切妻造本瓦葺の表大門(重文)....安土桃山末期の慶長九年(1604)、豊臣秀頼により再建(伝)で「赤門」と呼ばれる

△威厳が漂う四脚門の表大門....本殿が焼失した承応三年(1654)の火災、以降も戦火や震災に遭ったが逃れ、慶応年間からの遺構を伝えている

△二軒繁垂木、拝の懸魚は変形の蕪懸魚で降懸魚は蕪懸魚/板扉1枚の大きさは3.7mx2.4mで、重さは250kg(推)....出八双金具や乳金具そして釘隠が施されている

△本柱を渡した桁に4つの紙垂を下げた注連縄が張られている

△表大門は毎年1月10日早朝に『福男選び』が行われる『開門神事』で有名

★表大門をくぐると松などが茂る境内が広がり、広い参道の脇に石燈籠が整然と建ち並んでいる。 左手に参道に沿って長く延びている土塀は瓦葺の築地塀で、日本最古のもので「大練塀」と呼ばれる。 参道を進むと、左手に大練塀に挟まれたように高麗門造りの南門が建つ。 南門から一旦外に出、「ゑびす宮」の扁額が掲げられた南門と東西に延びる大練塀とを眺めてから境内に....。

△赤門から眺めた玉砂利が敷かれた松林が広がる境内....中世には現境内が浜辺近くの廣田神社の浜南宮だったことを偲ばせる景色

△西宮神社境内の東側と西側を囲んでいる築地塀は日本最古のもので「大練塀」と呼ばれる

△表大門を入った参道左手の基壇に建つ二基の石燈籠....明治期の造立とみられ、基壇上に瑞垣が設けられている

△壇上積のような基壇に建つ二基の石燈籠....前の石燈籠と異なり、蕨手のある笠、火袋に火口と円窓、中台に格狭間と連弁、節がある竿、基礎に反花と格狭間

△北向きで鎮座する流造銅板葺の兒社

△兒社は廣田神社の境外摂社・南宮神社の末社で、南宮の若宮として祀られた(伝)/一間四方で正面は引き違いの格子戸

△境内の参道から眺めた南門....南門の先に国道43号線が高架橋と共に見える

△国道43号線に面して建つ南門....門前の石燈籠は手前が大正四年(1915)造立、門傍は明治九年(1876)の造立

△切妻造本瓦葺の南門

△本瓦葺の大練塀の間に建つ南門....冠木門風の本柱上に屋根を乗せた造り

△一軒重垂木、「ゑびす宮」の扁額が掲げられている

△南門は高麗問の造りで、本柱の上の切妻屋根に直角に本柱と控柱間に切妻屋根がある/扉に乳金具と入八双金具が施されている

△南門前からみた南側の大練塀



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世田谷区立郷土博物館の石仏群

2024年03月16日 | 石仏巡り

【東京・世田谷区】世田谷代官屋敷と同じ敷地内にある世田谷区立郷土資料館の屋外展示物として、本館脇に地蔵石像や庚申塔、他に供養塔や道標などが鎮座している。 石造物はいずれも江戸時代の享保十三年(1728)~天保七年(1836)の造立で、最古の享保十三年のものは青面金剛庚申塔。 石仏群と並んで石造り農具(摺臼・搗臼・麦打ちコロ)が展示されている。

★世田谷代官屋敷を拝観した後、隣接する世田谷区立郷土資料館の本館脇に整然と並んで鎮座する石仏群に。 外壁に各石造物の解説が掲示されていて、刻まれている銘文などが詳しく記載されている。 石造物はすべて近隣の地域に佇んでいたもので、昭和期に寄贈されたとある。 いずれも貴重な遺物なのだが、ひとつ残念だったのは蓮華座に鎮座する合掌地蔵菩薩立像で、頭部がない悲しいお姿なのだ....合掌。

△世田谷代官屋敷と同敷地にある世田谷区立郷土博物館本館の脇に整然と鎮座する石造物群

△石造物は地蔵尊石像、庚申塔、供養塔、道標、狐石像など

△右は文政十年(1827)造立の文字庚申塔、中は天保七年(1836)造立の道標「品川領用水御普請所」、左は文化十年(1813)造立の供養塔「馬頭観世音」

△右は文化十三年(1816)造立の庚申塔「東目黒通」、中は延享四年(1747)造立の庚申供養塔「西ハ大山道」の刻、左は享保十三年(1728)造立の庚申塔「青面金剛」

△享保十三年(1728)造立の駒型光背青面金剛庚申塔(日月瑞雲、1鬼、2鶏、3猿)/合掌する1面6臂の青面金剛像

△摩滅が激しいが邪鬼と2羽の鶏、三猿が確認できる

△右から神使の狐像、地蔵菩薩像、三界萬霊塔

△稲荷明神の神使である六体の狐石像

△地蔵菩薩立像....宝暦六年(1756)の造立で、台座に「念〇(佛)講供養佛」の穀/蓮華座に鎮座する合掌地蔵尊像は頭部が欠失した残念なお姿

△天明五年(1785)の造立の駒型光背三界萬霊塔....道標を兼ねていて、正面に「三界萬霊等」と西・さ加み(相模)道、右側面に南・池上道、左側面に北・高井戸宿通り、背面には東・江戸道が刻まれている/萬霊塔上部に彫られた仏坐像....摩滅が激しいが地蔵菩薩か?

△三界萬霊塔の左隣に展示されている石造り農具....右から摺臼、搗臼、麦打ちコロ
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世田谷代官屋敷-(3) (東京)

2024年03月11日 | 史跡探訪-日本編

【東京・世田谷区】寛政六年(1794)に代官に就任した十代目当主の大場弥十郎が書いた「世田谷勤事録」には、世田谷代官の職務が詳細に記されていて、年貢の収納が最重要の職務だが、領内の治安維持も大きな仕事だった。 代官屋敷には罪人捕縛のための「三ツ道具」や被疑者の取調べに使われた「白州」の一部が残っている。白洲の玉砂利は当時のもの。

★園路からは見え難くて気づく人は少ないと思うが、庭園の植栽の中に大きな雪見燈籠が佇んでいる。 主屋に繋がって西側に蔵前と内蔵が建つ。 内蔵は江戸後期の建立で、置屋根の造りで眩しいほどに白い漆喰壁だ。 主屋の西側の園路脇に四基の石碑が建ち並んでいて、造立年が分る二基のうちの一基は大山道と登戸通と彫られた江戸中期の道標、もう一基は明治末期の「山吉講冨士登拝記念碑」。 他の二基はキリーク(阿弥陀如来)の梵字が刻まれた板碑と銘文不明の石碑だ。

△前庭にひっそりと佇む大きな雪見燈籠越しに眺めた主屋

△前庭の植栽を通して眺めた主屋の右から「代官居間」、「切腹の間」、「蔵前」

△主屋に繋がっている蔵前そして置屋根で漆喰壁の内蔵

△蔵前....蔵前出入口傍の外縁脇に蹲踞が置かれている

△文化十二年(1815)に建てられた内蔵/南面の壁の上下にそれぞれ窓があるので二階建て構造だと思う

△内蔵の西面と右側は南面

△屋敷地の一角に佇む道標、記念碑、板碑

△延享三年(1746)造立の道標....正面(左側面)に梵字と大山道、右側面に登戸通....梵字はカーン(不動明王)とみられる/明治三十二年(1899)造立の「山吉講冨士登拝記念碑」....三軒茶屋の冨士講(=山吉講)先達の堀江兼吉が講中の三十三回冨士登拝を記念して建てられた

△案内では板碑とあるので左の石造物も板碑か?....いずれも造立年不明

△頭部が破損し、摩耗が激しく銘文などは不明/板碑の梵字はキリーク(阿弥陀如来)と思う

★主屋の北西側に進むと、中庭に菱型竹垣で囲まれた「白洲跡」があり、木立の中に多くの被疑者や罪人がくぐったとみられる薬医門風の白洲通用門が建つ。 白洲跡に敷かれている玉砂利は当時のものだが、TVドラマ”名奉行 遠山の金さん”にでてくる白洲とは大違いで、敷かれているのはごつごつした少し大きめの砂利なので、筵を敷いてもとても座れるものではないと思うが....。 庭園の東側に井戸と土蔵が建つが、いずれも立ち入り禁止だ。

△内縁がある主屋の西側....左半分は「役所の間」で右半分は「役所次の間」

△中庭に残る「白洲跡」....玉砂利は当時のものとのこと

△切妻造板葺の「白洲通用門」

△白洲通用門は薬医門風の造り....扉は桟唐戸風の造り

△白洲通用門の一軒疎垂木の天井

△庭園の東側に建つ井戸の覆屋

△切妻造鋼板葺(と思う)の井戸の覆屋

△敷地の南東に位置する井戸と土蔵

△切妻造板葺(と思う)の土蔵



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世田谷代官屋敷-(2) (東京)

2024年03月06日 | 史跡探訪-日本編

【東京・世田谷区】現在の建物は、大場家七代目当主の盛政が江戸時代元文二年(1737)に建て替えたもの。 盛政が世田谷領代官に任じられた元文四年(1739)、屋敷が私邸・役宅の代官屋敷(公の陣屋ではない)となったもので、明治初期まで代官屋敷として使われた。 大場代官屋敷は、大名領の代官屋敷としては都内唯一の存在。

★玄関に入ると約270年前に設置された低い板敷台(式台)がある。 玄関奥に襖と板戸で囲まれた十六畳ほどの広さで天井が高い「板の間」があり、鴨居(内法長押)上の柱に槍とみられる武器が飾られている。 罪人を捕らえる「三つ道具」の一種か?
玄関の東側にある出入り口から土間に入る。 土間は台所で主屋の三分の一以上を占める広さで、三連の釜土や「世田ケ谷 御代官所」と書かれた提灯、杵などの道具類が展示されている。

△彦根藩の役人の出入口である玄関....低い板敷台(式台)は宝暦三年(1753)の設置(推)

△式台から見た天井が高い「板の間」

△「板の間」の引違板戸の右奥には十二畳敷の「代官居間」、左奥には板床の「名主詰所」が配置

△「板の間」の柱に掲げられた槍とみられる武器(罪人を捕らえる「三つ道具」の一種?)/板を張った額縁風の木造り衝立

△「板の間」から見た西側に位置する「役所の間」と「役所次の間」(左奥)

△主屋東側に位置する土間....主屋の三分の一以上を占める広さ

△三連のヘッツイ(竃)

△土間に展示されている提灯や杵などの道具類

△門前に置かれたと思われる「世田ケ谷 御代官所」の提灯

△土間の高い天井と梁組....長く曲がりくねった梁組が見事

△土間から見た「板の間」、畳敷きの「役所の間」「役所次の間」「代官居間」と二階座敷への階段

★「板の間」に面して部屋に上がる切目板を張った長式台があり、その南端に江戸末期に増築された「二階座敷」と階下に板床の「名主詰所」がある。 二階座敷が増築されたのは、主屋の南側に広がる庭を二階からゆったりと観賞するためだろう。 土間の南側の出入り口から庭側に出て二階座敷を見上げると身舎から張り出した手摺付き縁があり、その部分は茅葺屋根の軒を切り上げた平兜造りになっていて珍しい。

△土間から座敷に上がるところに設けられた切目板張りの長式台....「板の間」の南側に「名主詰所」と上に「二階座敷」がある

△二階座敷の下に新設された板床の「名主詰所」がある

△二階座敷は嘉永七年(1854)頃、十一代当主による増築

△「名主詰所」から見た「大官居間」と「切腹の間」の南面側

△「代官居間」と「切腹の間」の南面に設けられた外縁....突き当りに蔵前への入り口が見える

△土間の南側出入口の傍に置かれた古い手水鉢と直置きの石造りの流し台

△二階座敷部の屋根は平側軒を切り上げた平兜造り

△二階座敷に設けられた珍しい手摺付きベランダ

△前庭から見た名主詰所(奥)、二階座敷、外縁のある代官居間

△名主詰所(奥)前と代官居間の外縁前に大きな沓脱石が置かれている

△前庭越しに眺めた右「代官居間」、左「切腹の間」....白壁の小壁に小さな3つの通気窓

△寄棟造茅葺の主屋....都内に唯一現存する大名領の代官屋敷










コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世田谷代官屋敷-(1) (東京)

2024年03月01日 | 史跡探訪-日本編

【東京・世田谷区】世田谷代官屋敷(大場代官屋敷)はもとは旧大場家屋敷で、元宿(世田谷区役所あたり)に建てられたが、安土桃山時代の天正三年(1575)頃、現在地に移築された。 大場氏は世田谷に住んでいた武士で、室町時代、世田谷城主の吉良氏に仕えていた家臣の一人だった。 大場氏は、江戸初期に幕府から世田谷の約半分の土地を与えられた彦根藩の藩主・井伊家から世田谷領の代官に任命され、新宿に屋敷を建てた。

★東急世田谷線上町駅から数分でボロ市通りに面した大場代官屋敷の寄棟造り茅葺の表門に着く。 乳金具を配した黒塗りの門扉が閉じられているので、左手の広い通用口から敷地内に....。
表門傍に葉を落としたケヤキと緑豊かなタブノキの老木が聳え立つ。 まずは表門を拝観。 長屋門形式の表門の左側にボロ市通りに面して与力窓のある番所を設け、四方の軒先はせがい造りにして軒を深くしている。

△寄棟造茅葺の表門(長屋門)....宝暦三年(1753)頃の建築とされる....敷地内の表門傍に多くの葉を落としたケヤキ(右)と緑豊かな樹齢約200年のタブノキ(左)が聳え立つ

△正面右手が番所で、門扉の左右に潜戸を設けている

△門扉は板張り                 番所側に庇付きの面格子付き与力窓がある

△表門の外壁は腰部の縦羽目板と白壁

△敷地内から見た表門

△表門の西側に設けられた番所の出入口

△四方の軒先はせがい造りで軒を深くしている

★主屋の玄関の前庭に九重石塔が建ち、見過ごしてしまいそうな石灯籠が玄関傍の黄葉が残る楓の下にひっそり佇んでいる。 主屋内部には上がれないので、まずは主屋北面の玄関や窓から覗いて室内を拝観。 玄関奥の「板の間」の右手に「役所の間」がある。
畳まである引違板戸の窓から「役所の間」を覗くと、座敷の真ん中に文箱を乗せた文机と肘掛けが置かれているが、ここで江戸火鉢にあたりながら役務する代官の姿が浮かんできた。 窓から見え難いが、北面にある床の間に二振りの刀が刀掛台に飾ってある....もしかすると大場家の家紋入りか?

△玄関がある主屋北面の外観....前庭に九重石塔が建つ

△前庭に建つ頂上に相輪をたてた九重石塔/基礎の四方に格狭間、初層軸部の月輪に仏尊坐像が彫られている

△元文二年(1737)再建の主屋....北面は中央に玄関その中に「板の間」....玄関左手に「土間」がある

△玄関右手に「役所の間」、その前の坪庭に黄葉した楓そして石燈籠が佇む/玄関前右の坪庭に佇む石燈籠

△大場家住宅主屋は彦根藩世田谷領の代官を世襲した大場家の私邸&役宅....七代目当主の大場六兵衛盛政が代官となってから明治維新まで世田谷代官屋敷として使われていた

△玄関左手に「板の間」の床までの引違板戸の窓がある....左奥は「土間」の入り口/玄関右手に「役所の間」の床までの引違板戸の窓がある

△引違戸の窓から覗いた十畳敷きの「役所の間」....奥の座敷は「役所次の間」

△「役所の間」と「役所次の間」の西側に腰高明障子、内縁、腰高格子戸

△「役所の間」の畳敷床の間の刀掛台に飾られた二振りの刀....大場家の家紋入りの刀か?

△「役所の間」に置かれた文箱を乗せた文机と肘掛け

△「役所の間」の隅に置かれた江戸火鉢(関東長火鉢)....袖机上の猫板部分に3つ、底部2つの引き出しがある....左奥は「板の間」
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする