
【千葉・市川市】千葉氏の被官の富木常忍は出家して日常(日常上人)と名乗り、法華経寺の初代貫主となった。 二代目貫主は太田乗明の子の日高(日高上人)が継いだ。
法華経寺は、千葉胤貞の猶子である日祐(日祐上人)が三代目貫主になった鎌倉末期から南北朝時代かけて隆盛した。 日祐上人は法華経寺を胤貞流千葉氏の氏寺とし、その後の法華経寺の基礎を築いた。
祖師堂後方の一段高い所に刹堂、法華堂と四足門、宇賀神堂、さらにもう一段高い位置に清正公大神衹堂が建っている。 法華経護持の守護神である十羅刹女・他を安置する刹堂は、江戸初期に鎌倉から移築された仏堂だが、向拝に施された精緻な彫刻群、特に互いに睨みあう二頭の龍は迫力があり、まるで生きているかのようだ。
刹堂の右隣に、いずれも室町時代の建築とされる国重文の四足門と法華堂が建つ。 四足門は本柱を棟近くまで延ばし、本柱と控え柱上の組物とを立派な海老虹梁で繋いだ贅沢な造りだ。 法華堂は正面五間で、6本の丸柱の上部に禅宗様の粽が施されている。 前部一間は吹き放ちの外陣で、「妙法花経寺」の扁額が掲げられ、格子で仕切られた後部の梁間三間が内陣の造り。
法華堂から少し右の先に法華経寺の守護神を祀る宇賀神堂が鎮座し、その後方の一段高い所に、ご利益万能の霊験あらたかな清正公大神衹を奉安した白壁の正公大神衹堂がある。
祖師堂の右手奥に祖師堂と荒行堂とを繋ぐ渡廊があり、渡廊の途中に楼造りの宝殿門が設けられている。 宝殿門くぐり、鬱蒼と木々が茂る中の参道を進むと、玉垣に囲まれた大きな基壇の上に鎮座する聖教殿が現れる。 聖教殿の姿は、インドの仏教遺跡サーンチーのストゥーパを連想させる....本物を見たことはないが....。

祖師堂前の境内にある銅製多宝塔越しに眺めた妙見堂と中央奥の刹堂

入母屋造瓦棒銅板葺の妙見堂....千葉家伝来の妙見菩薩(北辰妙見大菩薩)を安置....右奥は法華堂


祖師堂後方の一段高い所に建つ左が刹堂、右は法華堂と堂前に四脚門がある/刹堂への石段横に佇む髭題目塔

入母屋造瓦棒銅板葺の刹堂....江戸初期に鎌倉から移築、屋根に獅子口を乗せた千鳥破風と向拝に軒唐破風

唐破風の兎毛通は鳳凰の彫刻、軒下と水引虹梁の間に精緻で生きているような2体の龍の彫刻

見事な像と獅子の木鼻そして手挟と持送の彫刻


軒廻りは二軒繁垂木、組物は出組で中備なし....側面の台輪の上に出組、下に舟肘木/擬宝珠高欄付き切目縁を巡らす、正面は全てガラス入腰高格子戸

刹堂には法華経護持の守護神の十羅刹女のほか鬼子母尊神・大黒天を安置している....境内に切妻造桟瓦葺の手水舎

国指定重要文化財の「四足門」越しに眺めた法華堂


切妻造柿葺の四足門(重文)...建立年不詳だが建築様式から室町後期と考えられている/禅宗様建築で鎌倉の愛染堂にあった四脚門が移築されたもの....大棟に鬼板、拝みに蕪懸魚

本柱を棟近くまで延ばし、本柱と控え柱上の組物を海老虹梁で繋いでいる

入母屋造瓦棒銅板葺の法華堂(重文)....室町時代末期の建立と推定され、江戸初期の寛文十年(1670)に修理

正面五間、側面四間で周囲に切目縁を巡らす....軒廻は二軒繁垂木、組物は木鼻付平三斗で中備に間斗束

前部一間は吹き放ちで外陣とし、格子戸で仕切られた後部の梁間三間は内陣

丸柱の上部に粽がある....「妙法花経寺」の扁額が掲げられている

入母屋造桟瓦葺で妻入の宇賀神堂....法華経寺の守護神を祀る

宇賀神堂から太田稲荷大明神への参道途中に鎮座する3基の笠付報恩塔....いずれも正面に髭題目が刻、造立年は右が安永十年(1781)、中央の唐破風笠付が天保二年(1831)、左の唐破風付きは明治十四年(1881)

報恩塔越しに眺めた清正公大神衹堂


入母屋造桟瓦葺の清正公大神衹堂(諸願成就祈願堂)....霊験あらたかな清正公大神衹を奉安/太田稲荷大明神を祀る石祠...入母屋屋根で千鳥破風と唐破風がある

聖教殿への参道入り口の石段上に建つ楼門の宝殿門....渡廊で祖師堂と荒行堂と繋がっている

聖教殿への参道入り口に立つ入母屋造桟瓦葺の宝殿門....上層前面に組高欄付き縁、脇間に連子窓

聖教殿....昭和六年(1931)建立で日蓮上人直筆の「観心本尊妙」「立正安国論」などを保存するため建立された宝殿
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます