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退屈しないように シニアの暮らし

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さて何をしようか

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2014-11-21 05:29:25 | 韓で遊ぶ

問題解決を急ぐな
NATOのユーゴ空襲が強化された時に全世界の言論に最も切実に登場した単語が正に「対話による問題解決」だった。
戦争当事者同士による一日でも早い積極的な対話を通してユーゴ問題の解決の方案を模索したならば、爆撃で死んでいくコソボ難民の数はかなり少なくなったはずだ。
違う。爆撃がある、それ以前にも対話の可能性はいくらでもあった。NATOの介入の前にセルビア系とアルバニア系の紛争が解決されれば最小限、命を失う人はいなかったはずだ。
紛争のあるところに対話を。
おそらくテレビを通してユーゴの惨状を目撃した全世界の人々の切実な叫びは正にこの一言だったはずだ。
対話を通した問題解決にはいくつかあるはずだ。国家間の紛争とか労組間の対立、家族間の葛藤など対話はすべての問題を解決の鍵を握っている。
対話を通した問題解決が思ったように簡単ではないことは、相互の利害関係がピーンと対立しているからだ。特に、はじめから互いに反目して憎しみの目で見合っている間に問題が生じると対話の場としても問題解決が円満に成されることができない。互いに少しの譲歩もなく自分の主張だけするのがあきらかだからだ。しかし、人が対話を通して解決できない問題はないはずだ。
紛争は現実の生活を不可能にする。戦争が起きると全国土が廃墟となるように、労使間の対立は産業活動を中断させ、家族の不和は家庭を破壊させる。
このような紛争は、その当事者たちはもちろんとの者たちと直、間接的に関係を結んでいる社会構成員たちにもよくない影響を及ぼすから、いつかは互いに対話の必要性を切実に感じるものだ。
こうやって一旦対話の場が作られただけでも状況は発展したと考えられやすいが本当の問題はここからだ。
対話の当事者同士、深みのある人間関係を回復しようと言う努力がなければ、たとえ互いに顔を合わせているといっても効果的な対話を期待するのは難しいことだ。
どうして戦争を始める前に国家と国家は対話することができないのか。どうして催涙弾と火炎瓶が乱舞する前に労使間は真摯な対話をすることができないのか。それでも、ある時は花のようだった妻、頼りがいのある家長として互いに信頼しながらうらやむものなく暮らしていたもの同士の夫婦喧嘩をなぜするのか。
それはただ、愚かな人間の習性だというところだけに押し付けるにはあまりにも切ない現実であることに、人は身動きできない破局に直面してやっと対話の必要性を切実に悟るのだ。
ところが、このような場合人間関係をあまりにも重視しすぎて実際の対話の確信を適当に避けていく妥協として事を結ぶ場合をよく目にすることができる。
「これから上手くやろう。」
互いに捕って食べるぐらいにうなっていたのに結局裁判所の前まで行った夫婦の間でした対話が、夫のたががこの一言で終わってしまったならばどんなにこっけいであるか。
労組間の紛争においても同じだ。闘争とか勝ち取ることに絶対の原則とか雄大な名分を掲げて血が飛ぶような戦いをしていたのに、協定のテーブルにつくと互いに握手して「上手くやりましょう。」と叫びながら写真を撮ったならば終わりだ。
これは対話を通した問題解決というよりは単純な社交場の和睦に過ぎない。たとえ対話の前の状況よりももっと激しい追及と意見の衝突が不可避であっても問題をひとつひとつ指摘していく過程が必ずあってこそ互いの成長に助けになりうるのだ。
対話が人間関係を前提にすると考える人はよくこれと同じくお茶を濁すような対話の罠に陥る危険が多い。
対話は問題解決と人間関係を分離して考えることではない。いつもこの二つをひとつに折衷することができてこそ本当の問題解決が可能なのだ。
すべての問題が人間関係だという面で終わるものではなく、どこまでも人間関係を通して問題解決の核心に狭めていくという明らかな心を持っていなければどんな解決策も正しいいえない事を覚えておきなさい。


※ 問題解決をあまり急ぐならば、適当にお茶を濁すような対話で
問題の核心を過ぎてしまう危険がある。
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面白く話す人が成功する

2014-11-20 05:20:53 | 韓で遊ぶ

対話の主導権を掌握するな
対話はピンポンのようなものだ。互いにやり取りする対話の規則が守られていなければ双方の間で興味を失うことになるからだ。
対話が進行される過程では話すことに負けないぐらい聞いてやる姿勢も重要だ。もし、しばらく話を引っ張ってきた人が「あれまあ、私の話が長くなったね。」と言いながら言葉尻を下げたならば、聞く人に問題があったということができる。
誰かを相手に話をしようとすることは物理的に声だけを出すと言う意味ではない。すなわち相手が気分よく聞いてくれることを望むことだ。どんなにだらだらと話をしても聞く人が聞いてくれないならば話をする人の立場で、力が抜けるのは当然なこと。
対話の相手を探してきた人の話を聞いてやることはその人の内面を治療してやることだ。自分の話に真摯に傾聴してくれる人の前で彼は苦痛と言う疾病を治癒することもし、欲求不満として苦痛を持った霊魂を浄化させる力を得ることになる。
だから、いい聴取者になると言うことは対話の相手として当然持っていなければならない礼儀だと言うことができる。
ならば、どうすればいい聴取者になれるのか。
最も確実な方法は相づちを打ちながら聞くということだ。反応を見せない相手に話をすることのようにつまらないことはない。まるで石を前に置いているような聴取者の態度が硬かったならばどうやっても言葉が出てこないものだ。
相づちは対話をやわらかくする潤滑油の役割をする。相槌を打ったからと言って誇張されたジェスチャーをしたり聞くまねだけをしてはむしろ馬鹿なことになってしまう。
「それで。」
「そう。」
こんな風に何を言ってもただ事務的に口を塗られた同じ言葉だけ繰り返しては本当の相づちを打ったとはいえない。言葉で、表情で、目で、真心のにじんだ心で話に助言してくれることが本当の相づちだということができる。
相手は一生懸命話をしているのに、一緒に相づちは打てなくても話の腰をポキポキ折って聞くことは聞く人の礼儀ではない。
「昨日の晩、キム代理と残業したのだけど。」
「俺は、昨日イ部長と酒を飲みに行ったんだ。」
「キム代理が急に俺と仕事をするのができないというのさ。」
「ところで、俺たち今日残業するんじゃないか。」
こんな風に話の途中で間を空けて入ってくることは対話の常識から外れたに憎たらっしいことだ。こんな人が対話の相手になったらどんなに不幸なことだろうか。
聴取者としてもうひとつ注意しなければならないことは人の言葉尻をとってはならないということだ。
「どうして子供があんなにかわいいのか。あの子のお母さんは目に入れても痛くないだろうね。」
「何を馬鹿なことを言っているんだ。子供がどうして目にはいる。コンタクトレンズでもあるまいし。」
「今日の朝、朝刊にこんな記事が載っていたよ。」
「今日の朝の夕刊だと言うことでもあったか。」
こんな風な対話はむしろ喧嘩するよりもダメだ。
これは相手の自尊心を削ぐための話法であると同時に聴取者としての役割を拒否する意思の表れとして解釈してもかまわない。
政治の場面で登用されそうなこのような低俗な話法が人間関係を篤くするどころかむしろ殺伐とした敵対関係に押しやっているということを覚えておきなさい。


聞く人の心の姿勢
1. 傾聴する。
 これが一番重要だ。受け入れるか入れないかを決定する傾聴する前に話をよく聞こう。性急に結論を出す場合が多いが、これは断片的な情報だけで考えを決定してしまうからだ。
2. 伝達者にすべての注意を傾けなさい。
 話を聞く者の注意が散漫だと混乱や誤解の原因になる。
3. 質問をしなさい。
 相手の話や意図、目的に少しでも疑問を持ったならば答えや判断を下す前に質問をする。自分の解釈を説明してそれが正しいのか確認する。
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2014-11-19 05:36:07 | 韓で遊ぶ

あまり先走るな
相手の話を先取りするくせは、大概先入観の強い人に多く見られる。
何日か前に引っ越してきた隣の人が餅を持って訪ねてきたからといって、無条件に自分に食べさせようと持ってきたと考えては混乱する。餅をくれる人はそんな考えもしないのに。
当然餅をくれようと持ってきたと思って「あ、これはありがたい。」と言ったのに、知ってみると引越しの餅ではなくて自分の家で食べようと買ってきた途中で、何かちょっと聞きたいことがあって入ってきたとしたらどんなに恥ずかしいか。
こんな失敗はいくらでもありうる。
社長がこっそりと呼んでおいて白い封筒をいじりっていたからといって、それが必ず自分のために特別なボーナスだと言う保証はないということだ。
それも知らないでこちら側では、
「社長、私は特に会社のためにやっとこともないのに、あまりにもよく見ていただいたようで身の置き場がありません。」と言ってしまったのに、
「そうだ、一生懸命やれ、私が君を特別に見守っていることを覚えておきなさい。」
社長がこんな話までしておいて、
「それで、これだけど。」
封筒を差し出して何か言おうとするが、
「いや、社長、なぜこのようなことをしますか。私はわかっていただけるだけでもありがたくおそれおおいばかりです。」と言いながらあなたが感激の涙を浮かべた。
その後でどんなことが怒ったか。
「君どうした。」
「、、、はい。」
「なぜ泣いているのだ。」
「私はただ、、、」
あなたは何か見当違いをしたことを、このあたりで気がついて、目にごみが入ったとでも言うようにとぼけることでもしないといけないのだが。問題はあなたのその依然として強い先入観だ。
「特別にやったこともないのに社長から特別ボー、、、、」
あなたがここまで言おうとして無常な社長の口からは、
「今日特別にやることがなかったならば、私の使いをちょっとやってくれるか。これはあの下のカフェへもっていく酒代のつけなんだが、、、」
こんな雷のような言葉が飛び出したら。
あなたはおそらく自分が馬鹿だという感じがするはずだ。
人の話を先走って聞くくせを治さない限りあなたは馬鹿みたいなことではなく馬鹿な人間扱いされるにはもってこいだ。
話をやり取りする順序だけでもちゃんと守ることができてもこのようなとんでもない状況を未然に防ぐことができるのに、いつもそうやって断定する習慣が賢いあなたを窮地に追い込むのです。
対話と言う単語を知っていても対話の能力を持つことができない人が私たちの周辺には意外とたくさんいます。
対話の能力とは外側に表現された言葉の真意を理解することができる力を言うのだが、そのためには間違った先入観とか固定観念から抜け出すことが上策だ。
江南には金持ちだけが暮らすのではない。
ヤンジェ洞ポナ街に少し入っていくと今もビニールハウスの集団村を形成して下層都市貧民として暮らしている人々がいて、ヨクサン洞とかサンソン洞周辺にも20年を超える庶民アパート団地で練炭を焚いて暮らす人々がいる。
こんな人たちのおかげで江南句は生活保護受給者数もソウルで上位圏に位置し奇妙な現象を見ることができる。
それも知らないであなたが今日始めて紹介された淑女に家がどこかと聞いた時、ヤンチェ洞だというその一言で「あ、いいところに澄んでいますね。」と答えたて気後れしたならば、その淑女が帰ってすまなく思うこともありうる。
先入観とか固定観念による人の話を先走って聞くことは対話のブレーキとして作用する危険がとても大きい。こんな危険から自ら脱皮するためにはいくつか努力しなければならない。
一つ目、できるだけ言葉数を少なくする。
あなたはおそらく対話の主導権を掌握しなければならないという固定観念に捕まっているかもしれない。
対話の主導権に対する脅迫観念がある人は大概沈黙とか対話の空白に耐えることができないと言う特性がある。
恋人と二人でデートしていても話の空白が生じると、それがすべて自分の責任のようでどうしていいのかわからない。
「どうしたの。何を考えているの。」
急に恋人が話をしなくなったのが自分のせいではないかと思って、慌てて詮索したりする。
「どこか具合でも悪いのかい。どうして何も話さないの。」
自分が言うことがなければ、相手が口を閉じている理由でも知るために、また一言投げかける。
「つまらないの。どこか他のところへ行こうか。」
「私がいつつまらないって言ったの。」
「何にもしゃべらないからさ。」
「私はただ、少しの間何にも考えないでいたのよ。」
何も考えなかったとは。
彼は到底その言葉を理解することができない。何も考えないでいたならば、何か話でもしないといけないんじゃないか。だけど退屈じゃないとはまた何だ。
彼は何の考えもしない人が退屈ではないと言うことが理解できない。
人はいつも何か考えるなり、せめて、コーヒーが苦いとか甘いとかという考えでもしないとならない、そう考えたならばそれをすぐに言葉に表現しなければならないと思う人だ。
ところが今横にいる恋人は何の考えもなくカフェに流れる音楽に酔っていたのだ。
人に会うと必ず対話を断ち切ってはならないという強迫観念で、沈黙は居心地が悪いという固定観念が一時も離れなかった彼としては本当におかしなことだったろう。
対話だからと言って無条件に何か話を続けてしゃべりまくらなければならないと思うことは間違った考えだ。短時間の中で結論を出さなければならない問題が生じたのでなければ単調な沈黙も対話のひとつの方便になりうる。
恋人と方を並べて座って静かに音楽に耳を傾けていることも実は心の対話になりうる。
対話の空白と沈黙は少し違うが、一定の主題を持って話をしていてしばし互いに言うことがなくなった状況を対話の空白と言う。この場合にも、必ずどちらか一方が発言の責任をとらなければならないと思ったならばそれも深刻な誤算だ。
「輸出の物量を定刻までに確保しないと会社側に大きな損害になるようです。」
「私もわかっている。何としても対策をよく考えないと。」
社長とここまで話をしたが対話が途切れたとしてもあなたの責任ではない。社長は今、しばし、対話の空白を持って対策をよく考えている最中だ。あなたもそうすればいい。
こんな場合は二人のうちどちらかがいいアイデアが浮かんだ時意見を言えばいいのだ。
対話の空白だからと言ってみても3分以内のものだ。それ以上の空白が生じたならばどちらかが一言言うようになっている。
適当なアイデアも浮かばないのに社長が先に空白を意識したならば「わかったからこれで帰りなさい。」と言うはずで、あなたが先にそれを意識したら「あの、それでは帰って対策をよく議論してみます。」と言ってでてくればそれまでだ。
この状況で何の助けにもならない空白でも埋めようと下手なこの話、あの話を並べてみたら、むしろ「考えがそれぐらいしかないのか。」と言われるのが常だ。
一般的な人間関係でも同じだ。
自然な沈黙とか対話の空白に負担を感じて、発言の総代を締めようとする人であればあるほどややもすると注意が散漫だという評価を受けやすい。
ちゃんと聞いて適切に話すことは、私たちの体の血と肉のように、対話において必ず持っていなければならない条件だ。また、自分の先入観と固定観念から脱皮することは知恵のある対話のために血となり肉になることだと言う事実を覚えておきなさい。


人の話を先走って聞かない方法
1. 間違った先入観とか固定観念を捨てなさい。
2. 沈黙とか対話の空白に負担を感じるな。
3. 対話の主導権に対する強迫観念を捨てなさい。
相手の意見を尊重しなさい。
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2014-11-18 06:45:56 | 韓で遊ぶ

対話の最終的な判断は聞く人のものだ
話す人がいれば聞く人もいるのが当たりまえだ。
私たちはよく話す人と聞く人が互いの役割を替えながらする話を対話と言う。対話を上手くやろうとしたらまず自分が何を言おうとするのかについてきちんと整理した考えがなければならない。
どんなに即興的で短い対話にも話の目的があるはずだ。
「どこへ行くのですか。」(A)
「ちょっと。」(B)
「じゃあ、行ってらっしゃい。」(A)
こんな風に短く終わる対話を分析してみても、話の目的と内容がある。すなわち、Aが対話を始めた目的はBの行き先を知ろうとしてのことだった。BはAの問いに対して「ちょっと。」と曖昧に答えた。これに対してAは行き先の方向に対する本来の疑問をたたんだまま別れの挨拶をすることで対話を終わらせようとする意思を伝達した。
この対話の明らかな目的に合うBの答えは「ちょっと。」よりは「ちょっと、薬局へ行きます。」「銀行へ行く途中です。」など具体的な内容でなされなければならなかった。しかし、Bは「ちょっと。」と答えることでAの質問に対して正確な情報を与えないという意思表示をしたことになることもあり、また、そんな意思があったとしても不適切な語彙使用で相手を混乱に陥れている。
しかし、ここで注目しなければならないことはAの2回目の言葉だ。彼は対話の目的がBから遮断されたと思ったのか、あるいはこの対話自体に興味をなくしてしまったとも言える。それで、Bにどこへ行くのかと聞いた対話の目的を放棄して「じゃあ、いってらっしゃい。」と対話を終結宣言をしたのだ。
私たちが短い対話を通して知ることができることがまだある。もしかしたら、AははじめからBが行くところがどこなのかその場所が気になって「どこへ行くのですか。」と聞いたのではないこともありうる。
「どこへ行くのですか。」と言ったAの問いの中には「どこか遠くへ行くのですか。」と言う時間的な距離概念に対する気がかりが内包されていることもある。だから、「ちょっと。」と言ったBの答えは時間的な距離概念に対するAの質問にある程度具体的な情報を提供したことと見ることもできる。
このように考えると結局対話の主目的であるAの気がかりを拒否されたり、自ら放棄したのではないということもあるという意味になる。
言葉というのはこのように奥深いニュアンスを含んでいるのだ。
もし、上のような対話が終わった後、A、Bが互いに違った誤解を抱いたならばこんな風に対話が再生産されることもある。
「どこへ行くのか聞いたのに、わざと答えないのだね。」(A)
「何だって。私はそんな覚えはない。」(B)
「ちゃんと答えないでそのまま行ったじゃないか。」(A)
「それが何でちゃんと答えなかったことになる。『どこか遠くへ行くのか』と聞くから『ちょっとそこまで。』行くと言ったのじゃないか。」(B)
「私が知りたかったのはそれではなくて、『どこへ、何で。』行くのかだったのだ。」(A)
「それならちゃんとそのように言ってくれないと。」(A)
「私はそう言ったのにそっちが聞き間違えたのだ。」(B)
誰でも一回ぐらいは言葉の伝達の過程で生じるこんな風な誤解で意思疎通の難しさをなめた経験があるはずだ。
対話とは聞く人を前提にしてするものだ。聞く人が話しを間違って理解したならば意味が間違って伝わる危険があるからだ。だから話をする人はいつも正しく正確に話を導いていくことができなければならない。
対話の最終的な判断は聞く人がするものだ。
「私はそんな考えで言ったことではないのに、あの人は誤解したようだ。」
こんな不平が出てくる理由は大概言う人が聞く人の理解を十分に確保できなかった状態で対話を終わるからだ。
相手は話す人の表情とか態度、言葉使いはもちろん対話の場所、時間など総合的に分析した後にその話の内容に対する最終分析に入るのだ。同じ話をしてもいつ、どこで、どのように、言ったかによって話の効果は大きく違いうる。
聞く人の決定権を最大限に意識して対話をすること。
そのためには聞く人の反応を見ながら話をすることも重要だが、何よりも自分の話が正確に受け取られるように相手を配慮する心を持つことが必要だ。

※ 対話とは聞く人を前提とするものだ。だから、話す人は
いつも正しく正確に話を導いていくことができなければならない
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2014-11-17 05:19:21 | 韓で遊ぶ

話すことと聞くことのバランスを維持しなさい
多くの人に好感を得て、時々その人たちから対話の相手になってくれと要請を受ける人の中に、相手の意志を無視して自分の主張だけを押し出す人は一人もいない。
相手に抑圧されたら人は当然反発心を持つものだ。相手が自分の言葉だけ押し出してこちら側の話に全く耳を傾けないならば、必ず、心の中で「自分だけすごいと、よくもまあ騒いで。」と思うはずだ。
話が上手いことと無駄口が多いことは厳格に違う。私たちは話が上手い人を「口が上手い」とか、「言葉使いが上手い。」と言う表現を使って尊重するが、無駄口が多い人にそのような表現を使わない。
それは単に「言葉だけ多い人」なだけだ。無駄口の多い人は大概話題を独占しようとするから、相手の口を封じやすい。
話が遮断された人はまるで水がいっぱいに満ちた器と同じだ。水はいっぱいに溜まったらあふれるものだ。話したい欲求でいっぱいに満ちた人の口には結局不満の声が出てくるものだ。
「あなたのしたい通りに思いっきり騒ぎなさい。私はこれ以上あなたの相手をしたくもないから。」
すべての対話が不可能な相手として、自分一人だけ騒ぐ言葉に疲れてしまった相手は一人ずついなくなって結局、彼は一人ぼっちになる。
大部分の人は他人の言葉を傾聴することよりも自分の話しに耳を傾けてくれることを望む。自分を主張したいし、自分を表現したい欲求に渇いているからだ。だから、穏やかな状況で自分の言葉を最後まで聞いてくれる人に会うとすぐに親近感を感じる。
「本当に意味のある時間でした。」
「機会があったならばもう一度お訪ねして話をしたいです。」
「おかげ様で楽しく貴重な時間を過ごしました。」
このような賛辞が相手の口から出たならばあなたはその人の心を完全に掴んだのに違いありません。
その人はあなたの洗練された言葉使いが好きになったのではなく、あなたの好意的な沈黙と積極的な肯定の表現に心を奪われたのかも知れません。
ある商売の上手い人に、客を引きつける秘訣が何なのか聞いた。
その答えはすごく簡単だった。
「私がやったことはただ客の言葉に耳を傾けることの他にありません。」
正にこれです。有能な商売人は体で対話のテクニックを会得した人です。
物を買ったり売ったりする所では製品に対する100の説明よりも顧客の話をよく聞いてやることが何よりも大きなサービスです。顧客の不平を言ったとしても1から10まで聞いてあげたら、すまなくてありがたい気持ちになってものを買うようになるのです。
ある時アメリカのある日刊紙にこんな広告が載ったことがあります。
「あなたの話を気分よく聞いてさし上げます。1時間10ドル。」
広告が出るとアメリカ全国から予約の電話が激しく降り注ぎ始め、広告を出した人はいくらも経たない内に大金持ちになったと言うことだ。
人の話を聞いてやることはその人の心を理解して受け取ると言う意味だ。
どんなに些細な話でも相手が注意深く傾聴しようとする配慮と関心を送ってくれるときに人は誰でも感動を受けるものだ。そんな時、あなたは一言も話さなくても相手に「有益な対話の時間を持ちました。」と言う充足感を持たせてやるのだ。

正しい対話の態度
1. 相手の話に一生懸命耳を傾ける。
2. 相手の話を止めない。
3. はじめて会った人の名前はすぐに覚えて使うようにする。
4. 相手の話が自分の意見と違っていてもその場で指摘してはならない。
5. 自分が相手よりはすごいと言う態度を見せてはいけない。
6. 自分の意見が間違っていたならば正直に謝罪する。
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2014-11-16 06:59:57 | 韓で遊ぶ

対話の目的に忠実であれ
すべての対話には目的がある。
合意を得るための対話、情報交換のための対話、探索のための対話など、私たちが誰かを相手に交わすすべての有形の対話は、それなりにある志向点に向っていく過程である。
もし、対話が相手との話自体だけで終わってしまったならば単純な雑談に過ぎなくなる。無駄口を叩くことと対話を交わすことは明らかに区別されなければならない。対話で重要なことはまず、結論を出さなければならないということだ。結論がないならば対話は無意味だ。頭の中に浮かぶ言葉を勝手にしゃべりまくることだけでは対話の目的を達成することができない。それはまるで主婦が買い物に行って買い物をしないで店主としゃべりまくっているのと同じだ。まず解決しなければならない問題は寄せておいて役に立たないことに時間と精力を浪費することがないようにしなさい。
対話とは一人の人の圧言を皆が一緒に聞いて、皆が一緒に考えて、そしてその内容をより価値のあることに磨き上げ完成することだ。だから、対話の質を高めるためには話しに一定した順序を決めておいて話をするのが効果的な話法になる。
もうひとつ、対話を本来の目的から離すような障害要素としては同じ話の反復をあげることができる。
仮に大勢でひとつの問題を討議しているのに、ある人がすでにでて来た意見を何回も反復したら、対話の空転が避けられなくなる。これは個人間の対話を通してもよく見られる現象だが、一つの言葉を何回も繰り返す人を相手にしたならば並みの苛々ではない。
対話の方向を、皆が向っている方向に積極的に推進していくためにはむやみに繰り返さず、新しいことを加えていくとか、他の意見と解釈を加えて全体的な思考を刺激していかなければならない。だからと言って、「それはそうじゃないか。」「今終わった話だ。」のような言葉でつっけんどんに抑えることは相手を対話から疎外させる危険があるので注意しなければならない。
しかし、どうして人は対話の途中、終わった話を繰り返したりとんでもない話を出したりするのだろうか。
それは一言で、他の人の話をよく聞いていないからだ。
対話が一人の人の発言を皆一緒に考えると言うことだとしたら、その真義がどこにあるのかを知ることが重要な目的になる。よく聞いていなければ、言った話を繰り返したり話題からそれた話を多くするようになることは当然だ。
同じ話が何回も繰り返されて話題とかみ合わなくなったら、結局一人の人のせいで他の人までも被害を受けることになる事実を知らなければならない。
対話を交わすことに嫌気がさすスタイルがもうひとつある。
真っ最中の話がどのように発展していくかわからないのに、人の話の途中で割り込んでなんだかんだと言う人だ。本当にこんな人は対話の過程から追放してしまいたいほどに苛々を呼び起こす人だ。
このような分をわきまえない人を称して「出しゃばり」だと言う事実をその人たちは知っているのだろうか。こんな人は少しの間でも口をつぐんでいいたらむずむずして耐えられないように発言の途中でなくても自分の意見を先んじて主張し、他人に強要するくせまである。
しかし、どんなにつまらない話でも自分の順序でなければ割り込まないのが対話の原則だ。つまらない演説を聴いているのはつらいと思うだろうが我慢する術を知ってこそ対話の相手としての資格があると言うものだ。
大概を見ると、規則違反をする人は決まっている。その人がもしかしてあなたではないか点検してみなさい。


効率的に話す7つの方法
1. 必要な内容だけ要約して話す。
2. とんでもない話はしない。
3. 短く説明して反応を観察する。
4. 同じ内容は繰り返して話さない。
5. 新しい問題を提起する。
6. 繰り返す時は新しい内容を添加する。
7. 具体的に話す。
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2014-11-15 05:12:15 | 韓で遊ぶ

断定的な反論は避けなさい
必ずこれでなければダメなのですとか、この方法しかありませんと言うような表現は聞く人の心を抑圧する。
「この問題を解決する方法はこの方法以外にはありません。」
公の会議の席で誰かがこんな発言をしたとしよう。
耳には自信感にあふれ迫力があるように聞こえるかもしれないが少し後になると何か知らずに非常に気まずい感じが波のように押し寄せてくることになる。
「あの人、何であんなにすごいんだ。」
「馬鹿じゃないか。俺はあんなに大きなことをポンポン言って上手くいったものを見たことがない。」
聞く人の立場ではこのような断定的な表現がとてもうっとうしく感じることもある。本人がどんなに確信に満ちて言っている言葉かもしれないが、言葉の裏面では他の人の意見のようなものは受け入れないと言う自分中心の傾向が強く内包されているからだ。
こんな風な決定的な言い方が口になじんだ人は大概融通性がない性格とか、深刻な権威主義に囚われている場合が多い。
周囲の人と議論する時もそうだ。
「ピクニックなら江華島ほどのところはないでしょ。」
「ちゃんとした物を買うなら○○百貨店でないとダメだね。」
このような発言は全的に対話の規則を無視した独断に過ぎない。結論がひとつだけならばはじめから対話だとか何だとか必要がなかったのではないか。
こういう時もし、他の人が、「江華島に何が見るものがあるとそんなことを言いますか。そこよりは沙里がずっといいですが。」「そんな話がどこにある。物を買う時には市場に行くのが一番だ。」と反論したならば結局極端な対立が避けられなくなる。
こんな極端な発言を理知的な発言と言うのだが、はじめから人の意見を受容しようとしない高圧的な姿勢ででてくるので、たやすく人の反感を買う危険がある。
どちら側かが一般的に対話の決定権を握っていたならば、それは対話自体を放棄したことだ。
対話と言うものは本来一方通行が不可能なもので、自分の主張にだけ絶対性を持ったならば何の意味があるだろうか。こういうことは独裁者の座に置いてこそありうることだと言うことを覚えておきなさい。
論戦の場では問題解決の方法が他の人にもあると言うことを認めなければならない。互いに意見を交わして合意する中であるひとつを採択することもあり、でなければ第3の解決点を探すこともできる。
はじめから意見収斂の過程も持たないですぐに通過されることならばそんな場を持つ必要もないことだ。
「私はこう思いますが皆さんの意見はどうですか。」とか、「今の言葉にも一理ありますが、私はその問題をこのように考えてみようと思います。」と言う風に対話が進行されてこそ他の人も意見を出すことができるようになるのだ。
もし、相手の意見が自分の主張と違う場合にも、
「「ちょっと待ってください。その意見には全的に反対します。」
「あ、それは間違ったことです。」
「そうではないです。」
このように急に反論を提起したり、自分の意志と関係のない話を聞く必要もないというような行動をとると、当然言葉がとんでもないところに陥ってしまう。
「そんなことを聞いたら、3歳の子供でも幼稚だというよ。」
「何だ、今、何ですべてのことをお前のしたい通りに解釈しようとする。」
もはや対話は論戦から喧嘩に変わってしまった。
どちら側かが椅子をけって出て行かない限り、このような対話は互いに噛み付いて食いちぎる言葉尻をつかむことで終わってしまうものだ。
「あんな人とは到底話が通じないから、私が相手をしないようにしなければ。」
「いったい、話になる話をしないと。やっぱり救済不可能なんだから。」
結局双方が対話の決裂の責任を互いに押し付けるところで、あわただしいままに言葉の乱闘場はやっと収集されるが、相手の意見まで否定するこんな風な対話によって人間関係は食い止めることができずゆがんでしまう場合もよくある。
対話の目的は互いの心を与えてもらうところにある。それが公の対話であろうと個人的に親しい関係に夜対話だろうと、内容それ自体を反対したり否定することはあっても相手の人間性まで否定することがあってはならない。
こういう時、対話が中断されることは言葉で互いの人間性を攻撃する段階まで至ったためだ。
対話を主張しながら結果的には喧嘩になって互いに対する不信を露骨に表すことは、相手の人間性まで否定してしまう高圧的で断定的な発言のせいで作り出されることが多い。
相手の意見が理知に合わないとしても、暖かい心でそれを包んであげれば、その心が相手にも伝わって戻ってくる反応は一層やさしくなることができるものだ。こういうことを正に「心の話法」という。
もちろん相手の自尊心を尊重してやる方法も程度を過ぎると不自然極まりない。中がはっきりわかっているのにうわべだけで言う言葉や心のないお世辞は対話とは関係ない。ただ、反対の意見を言う時は論戦にならないように注意しろと言うことだ。
「ところで、この方法はどうですか。」
「あの、ひとつ申し上げることがあります。」
こんな言葉をはじめに、緻密に反対の意見を提示することも論戦を避けるための方法になる。ただ、こういう時、急に声が大きくなったり感情的な発言にならないように注意しなさい。
言葉は精神の脈拍だと言った。声に均衡を失うことはあなたが平常心を失っていると言う意味だ。怒った時、自分が怒っていると言う事実にもっと興奮する場合がある。
このように声が大きくなると感情も激しくなるものだ。いつも冷静にやわらかい態度で対話をできるように平常心を維持しなさい。
何でも自分だけが正しいと考える人は、仕事が上手くいかないと人のせいにする無責任な面も合わせて持っている。そんな人であればあるほど、人に少しでも自尊心を傷つけられるようなことがあれば、かっとして大声を出すものだ。
対話を流しておく独善的な態度は自らを孤立させる口実になるだけだ。

対話が中断されることは言葉が互いの人間性を攻撃する段階に至ったからだ。相手の人格が理知に合わないからといっても暖かくこの人を包んでやる心を持つことが必要だ。
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面白く話す人が成功する

2014-11-14 05:40:55 | 韓で遊ぶ

ユーモアを活用しなさい
若い作家が何人か集まった。
「ここに面白い記事が載っているんだけど。」
その中の一人が本を開きながら皆に見せた。彼が集まりにくる時に持ってきた文芸誌だった。
「わが国の歴代新春文芸当選作家目録だ。」
なるほど、その本にはわが国で新春文芸制度が実施されて以来現在まで国内の主要な日刊紙を通して排出された作家の名簿がぎっしりと書かれていた。
「何で、作家がこんなに多いのだ。」
「知らない名前も多いね。」
「本当にそうか。大韓民国に作家がこんなにたくさんいたのか。」
皆不思議なように一言ずつ言いながら、名簿を読んでいった。
「この名簿に書かれた人たちの中で生き残っている作家がどれぐらいいるか見てみよう。」
「それはいい考えだ。」
「よし、今から一人ずつチェックしてみよう。」
こう言って特にやることもなかった若い作家たちは名簿の上から下に隈なく調べながら下線を引き始めた。
「この人は高齢だけど今まで活発に活動をしているでしょ。」
「そうだ、本当に大した人だ。」
「この作家はいつだったか絶筆したと言ったが、今回作品集が新しく出たよね。」
「作家が絶筆したと言ったって、何が絶筆だ。書かないのじゃなくて書けないのさ。」
数ある中で忘れられた人は飛ばして最近まで名前が知られていたり、作品活動を熱心にやっている作家の名前の下に印をつけながら、自分たちの未来像を占ってみる若い作家たちの表情はとてもまじめであるも、心がそわついて見えた。
「果たして自分の名前がここにあったら生き残っている方に属するだろうか。でなければ忘れられた名前になるだろうか。」
そんな錯綜した気持ちで、心の覚悟を新たにしている渦中にふと誰かがこういった。
「お、今作家デビューしてもうこんなになるのか。」
彼らの視線が集まったところは今から約20年前デビューしたことで記録されているある作家の名前だった。
「俺はそんなに経っているとは思わなかった。
「そうだな。初作品集が出たのが3年前じゃなかったか。」
「反応がすごかったよな。」
今さらながらその名前を探してみて作家たちの目にある種の残念な気持ちが漂う中、誰かが出し抜けに一言言った。
「だけど、本当に生き残れなかったね。」
「、、、、、」
しばし、皆は戸惑ったまま言った当事者に視線を向けた。
「俺、間違ったか。本当に生き残れなかったじゃないか。」
その話がいい終わらないうちにその場に漂う戸惑いの雰囲気はすぐに爆笑に変わった。
「それはひどい。」
「でも、その通りだ。」
問題の発言者がいきなり非難と賛辞の主人公になった訳だ。その作家が創作集を出していくらも経たない内に不意の事故で亡くなったからだった。
もしかしたら、上の発言者がこれからの文学的成果が期待される優れた先輩の死を残念に思いながらも、気持ちが沈んだ友達を笑わせようとユーモア感覚を発揮したのかも知れない。

ユーモアは人間生活の潤滑油の役割をしている事を誰も否定することはできない。また、ユーモア感覚は話術の最高のテクニックだと言うことができる。
大概、伝統的な儒教意識がにじんでいる東洋圏でユーモアが自然に根を下ろすことができなかった傾向はあるが、今日においては必ずしもそうだとは言えないようだ。
現代人たちは笑いに渇いている。もしかしたら、私たちは「言葉がなければ笑うことができない」そんな世の中で生きているのかも知れない。
新聞やニュースを見ながら笑うことができる場合はほとんどない。私たちが時に笑うことができるのはトークショーとかコメディー番組を通してだけだ。
毎日、悩まされる日常生活の中ではより、笑うことがない。いわゆる「職場生活のハイライト」だと言える月給日でさえ、TV広告のように買った果物の袋を持って笑いながら家に帰る父の姿が果たしてどれだけいるだろうか。
ユーモアはこのような息の詰まる日常生活に活力をくれる清涼飲料と同じものだ。サイダーのように新鮮でコーラのようにパチンと打つようなユーモア一言が提供する笑いが、疲れた現代人にどれだけ切実なものであるか、私たちは「マントギ シリーズ」や「チェブラム シリーズ」などの例にも見ることができる。
何々シリーズと言う名前で、瞬く間に広がって全国民の酒席での話題として、あるいはデート現場のよくでてくるなじみの話題として登場することもあるユーモアは最近も終わることなく拡大再生産されている。
笑いに渇いている現代人にユーモア感覚がある人は当然、人気者と賭して通る。
ユーモア感覚というのは積極的な性格からでてくるものだから、すべての人が主導的な立場になるのが難しい。しかし、ユーモアを受容することができる能力は誰にでも公平に与えられたものだ。人間には笑いに対する欲望と言うものもあるからだ。
こんな理由で今日、政治家とか指導的な位置にいる人にとってユーモア感覚は必須的なものになった。
だけではなく、一般的な対人関係でもユーモア感覚は好感を導き出すことに有利は条件として作用する。ついには、未婚の女性が望む配偶の条件としてユーモア感覚を上げる調査結果が出てきているほどだ。
ユーモアとは単純にばかげた動きを演出して人を笑わせる寸劇とは違い、言葉の聖餐と言う点で少し格が高い笑いを提供する。
一般的にユーモアとは多少誇張された側面があるものだが、笑いの後に否定的な余韻を残さないように注意しなければならない。相手をけなしたり、自分をこき下ろすために使用するユーモアは聞く人の心を不快にするからだ
ユーモアはひとりでに作られたり、無理に作ったりしてできるものではない。反面ユーモア感覚はユーモアを受け入れることができる余裕だけあれば誰でも悟らせることができるものだ。
人が笑わせた時に楽しそうに笑うことができる人はユーモア感覚がある人だ。
あなたが沙悟淨(西遊記にでてくる妖怪)でなければ十分にユーモア感覚がある人だ。そういえば、最近には沙悟淨もそれ自体がユーモアとして通る世の中だから、それも心配する必要はないようだ。いずれにしても他人を笑わせて楽しくできたならばあなたはユーモア感覚が豊富な人だ。

※ ユーモア感覚はユーモアを受け入れることができる余裕があれば
  誰でも悟らされることができる。人が笑わせた時楽しそうに笑うことができる人は
  ユーモア感覚がある人だ。
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今日のことわざ

2014-11-13 07:02:25 | 韓で遊ぶ
없는 사람도 7가지 버릇 있는 사람도 49개의 버릇
と言う諺があった。

「誰にでもくせがあるものだという意味」で

日本では

無くて七癖、有って四十八癖

どうして49と48なのだろうか
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面白く話す人が成功する

2014-11-13 02:08:45 | 韓で遊ぶ

感覚的な表現で勝負しなさい
「世の中で100万人が君を愛したならば、私はその中の一人で、10万人が君を愛したならばその中の一人もまた私だ。ただ一人が君を愛したならばそれはまさに私だ。」
このように美しい愛の告白を聞いても心が動かない人はいるだろうか。愛は理想の論理に支配されている感情と言うよりは、多分に末梢的で感覚的な感じによって進行される刺激的なゲームだ。言語はこのような愛の一次的な表現の手段として、恋愛という美しい事業の基盤となったりもする。
愛というゲームの1番目の関門は告白の段階。
「私はあなたを愛しています。」
聞き方によっては最も強力な訴える力を持った言葉だが一生大切にしまっておくにはどこか平凡なところがある。
こんな方法はどうだろうか。
ある男がある女性を愛していた。彼は機会を見て自信の愛を告白しようと決心したが、勇気が出なかった。そんなある日、女性のほうから先にこんなことを言った。
「友達の中に恋人のいない人いるかしら。」
「いるにはいるけど、どうして。」
「私に紹介してくれたらと思って。」
実はこの女性もこの男が好きだった。しかし、自分から先に話をするのは恥ずかしくてトリックをつかったのだ。
「わかった。私が責任を持って紹介するよ。」
「誰。」
すると、その男が自分のあごを両手で支えて、言った。
「この人はどうですか。」
こうやって二人は本格的に恋愛を始めた。しかし、女性は何か損害を受けたような感じを消せなかった。
「プロポーズがあんなものなの。遊びみたいじゃないの。」
女性の心の中にこんな不満が芽を出した頃、ある日男が女性の顔を深刻に見てこうつぶやいた。
「、、、、似ている。」
「誰と。」
「私が一番愛している人と。」
「それ、、、誰。」
「キムヘス。」
キムヘスはまさに彼女の名前だった。
ちょっと幼稚で馬鹿みたいな対話のようだが愛し合うこの二人には胸の中で爆竹が破裂するような激しい感動を伝えてくれたりもする。
このように感情を刺激する表現はどんな知的な表現よりも強く訴える力を持っている。
「私はお前にだけはガラスのように透明でいたい。」と言う言葉を例に挙げよう。
この言葉は、他の人の前ではいつも不透明は行動をする人だという評価を受けることもあるが、告白を聞いた当事者の立場では、最も恥ずかしい告白までもできる大切な存在だと言う意味で受け取られるのだ。
覚えておきなさい。
愛のための話術のポイントは感情的急所を狙うことだ。


強烈な印象を与える単語10(TEN MOST IMPRESSIVE WORD)
有名な辞典編集者ウォルフレット ポークが選んだ最も強烈な印象を与える単語10
1. 明るい印象を与える言葉
お母さん(Mother)- 最も尊敬の言葉
  愛(Love)- 最も美しい言葉
  友情(Friendship)- 最も暖かい言葉
  安定(Tranquility)- 最も平和な言葉
  信頼(Faith)- 最も大きな慰めをくれる言葉
2. 暗い印象を与える言葉
孤独(Alone)- 最も苦しい言葉
死(Death)- 最も悲劇的な言葉
忘却(Forgotten)- 最も悲しい言葉
復讐(Revenge)- 最も残忍な言葉
いいえ(No)- 最も冷たい言葉
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