スペックよりも優れた武器は夢!
世の中が急激に変っている。この変化の時期に合わせて私達の認識も変らなければならないのに、認識は時間が過ぎるほどにむしろ過去に戻り、硬くなる傾向がある。一度入り込んだ認識と観点が変わるのは本当に難しい。人は元々自分が決めた基準が正しいと言う観点を持っているから変化を拒む。
多くの若者がマスコミや既存の学習システムが教えてくれた観点で自分の人生を評価して診断するために苦しむ。そんな姿を見るたびに胸がひりひりする。だが、誰かが決めてくれた道には地雷原もあると言うことを覚えておいてほしい。
涙をこらえれば強くなれ、勝てるという昔の観点が痛い心をもっと痛くするのだ。世の中の観点が必ずしも答えではない。私が涙をこらえている青年たちに「思いっきり泣きなさい」言う理由がこれだ。世の中が決めてくれた基準に漠然と追随したならば、天がくれた価値のある人生を送ることができなくなる。観点は自分が積極的に、意図的に、変えようと努力するとき変えることができる。
この世の中の悲壮感を一人で背負っているような気分になるとき、失意の苦痛が深いならば,深い分だけ心を新しくすることが難しい。こういうときは思いっきり泣いて「これもまた、過ぎていくだろう」笑って超えられたらいいと思う。「今まで陥った苦痛の中で最悪」という思いがしてもこれもまた過ぎていくだろう。どんなにひどい傷も時間が過ぎると肉が上がってくるものだ。「現在は未来の過去」だ。現在は瞬間、瞬間過去になっている。今は現実に落胆し座り込んでしまうことは結局、過去に縛られて生きる人生だ。自分の身の上の不幸を笑って乗り越え、静かに眺めることができる認識の変化が自分を再び再起させるのだ。
ノーベル生理医学賞を受賞したケンブリッチ大学、ジョン カートン教授が少し前に来韓した。青年達を対象に講義をしながら、自身の幼い頃の話を聞かせてくれた。ワートンスクールへ通っていた16歳の頃、彼の生物の成績は260人中260番目、ビリだったという。先生が成績表に次のようなコメントをくれた。
「科学者になりたいようだが、今の成績では見当もつかない」
ジョン カートンは先生のコメントを回想しながらこのように講演した。
「科学者になりたかった私はとても失望したが、先生の言葉を信じなかった。『あきらめなければ必ず夢はかなう』という母の簡単な教えが本当だと確信したからだ」
彼は既存の枠ではない、変化された観点に従ったので世界的な学者になりノーベル賞まで受け取ることになったのだ。ジョン カートンは今もその時の成績表を自分の研究室に貼って学生たちに夢を持っている人はいつかかなえることができると力説した。
世の中は「成績がよければ科学者になれる」と教えた。しかい、ジョン カートンの母は「あきらめなければ夢をかなえることができる」という観点を持っていた。カートンはその観点に従った。成績がビリだったとき「大丈夫、これもまた過ぎていくだろう」という慰めと励ましがカートンを再び挑戦させたのだ。ジョン カートンを立派にしたのは公教育ではなく観点の力だった。「成績が悪ければ科学者にはなれない」は世の中が提示する普遍的な価値だ。しかし、真理は普遍的な価値を超越した。挑戦する人々だけが歴史の主人公になれるという信念は真理だ。真理を選択する勇気、夢に対する確信が不変的な価値を変え世界的な学者を誕生させたのだ。
なぜ私達の時代が絶望の時代だと見えるのか。真理は沈黙して普遍的な価値というものは仮面をかぶったまま日常においてうるさく私達を縛っているからだ。今、つらくて絶望したいのか。そうならば、自身を持ってこう言いなさい。
「大丈夫だ。これもまた過ぎていくだろう」
いくらか前に大学入試の試験を受けた女学生が望んだ成績が出なくて、アパートの飛び降りたという記事を見てとても心が痛かった。試験の成績が悪ければ人生が終わりだという認識は既存世代が作った罠だと言いたい。真理は何か。試験の成績が良くて望んだ大学に進学して良いスペックを持ったならば余生を少し楽に生きることができるが、必ずそうだと言い切ることはできない。
「試験の成績が悪ければ人生も終わりだ。これ以上私の人生に希望がない。良い成績が取れるように一生懸命やらなければならない。」という脅迫と束縛を通して息さえちゃんとつけないで、声を出して泣くこともできないこの女学生の絶叫は何を話したのか。誰か一人でも幼い頃から「大丈夫だ、これもまた過ぎていくだろう」と霊魂のメッセージを聞かせてやっていたならば救うことができなかったろうか。人生には試験よりも大切で貴いものがいかに多いか。何かを手に入れようと地団駄を踏んで見たらそれが全部であるようにその枠に閉じ込められる。空けてこそ新しい観点が生じる。
世の中で勝利したいのか。そうならば自分を締め付ける観念の枠から果敢にぬけだして見よう。自分を励まして慰めて、ほめて見よう。そして得意なことに少し関心を持とう。以外に得意なことが多いかもしれない。自分が、何が得意なのか。どういう人間なのかは問題にぶち当たった時に行う選択と行動を見ると知ることができる。どんな環境や行程においても機会の窓はいつも開かれていた。先発走者が提示したゲームのルールから抜け出そうとする意志と観点があればいい。「普遍的な価値」という束縛のせいで、自分の観点を逃さないことを願う。
私は多くの既存世代と若者に会って、その人たちの大部分が固定した視覚に囚われているということ悟った。いい大学をでると出世ができ成功すると言う間違った方程式だ。実は結果は半々ではないか。スペックより重要なものはどんな夢を持っているかどんな気持ちで挑戦しているかだ。
人生という長い行程で誠実感と挑戦意識を供えていなければ、いい学力とスペックは何事にも挑戦しなくても、過去の履歴が人生を楽にしてくれると錯覚させ、むしろ毒になる。
最近新聞を見るのが怖い。小さなことに余りにも大きな意味をつけて自ら挫折し落胆する。ややもすると自殺のニュースだ。試験がちょっと良くなかったから、失恋したとか、事業に失敗したとか、人生の勝敗が決まったのではないと誰かが対抗しなければならないのに、社会がこれを黙視して同調して沈黙しているのではないか。
だから大人の役割が重要だ。結婚して子供を生んで、ちゃんと食べさせ、ちゃんと着せることにだけ重点を置いたならば子供がぬきんでた容貌とスペックを持つようになるかもしれないが強くて節制して挑戦する人に成長することはできない。
ギリシャの哲学者エピッテツスは「人間はつらい事のためにつらいのではなく、そのことがつらいと思う考えでつらいのだ」と言った。全的に同意する。誰でもストレスのない生活はなく、失敗や間違いは人生の影とも同じだ。影のない人がいないように、失敗や間違いのない人はいない。「私は絶対に失敗しないようにしないと」という完璧主義と当為性の横暴にひるむことはない。試練は私達をつらくするが本当の力をもたせてくれるいい機会になることもある。
誰かの胸に抱かれてワンワン泣きたいのか。人生の波風に遭遇したときつらい現実を避けたい時、誰かの励ましと慰めが必要だ。同じようなつらい人生の行程をたどった人や人生の先輩を訪ねることを願う。それが、父母だったり、兄弟姉妹だったり、親しい大人だったり、先生だったり、誰でもいい。普段尊敬している人にeメールでして見ることもいい。インターネットが発達してソーシャルネットワークサービスが活発になったが、人生を先んじた人の代わりをすることはできない。若い人はどこでも歓迎される。今は無様で不器用な若い人というだけでまぶしいからだ。あなたが誰かに手を伸ばしたら拒否する人はいない。助けてくれと手を伸ばした人が助けが必要な人を抱くことができる。未来のための夢も、人生のための幸福になるための出会いも、努力して探すあなたを決して裏切らない。
少し前にある中学生の相談を受けた。間もなく中学3年生になる女学生でバレーボールの選手だった。友達が上手だとほめてくれるが、自ら満足できなくてストレス性の呼吸混乱も感じて心のコントロールもできず本当につらいということだ。中間試験は良かったがだんだん勉強もいやになって嫌気が差し、自分がいやになり、こんなときにどうしていいかわからなかった。私はいくつかの生きる方向を話した。上手くやりたいが上手くいかない時、守らなければならないことは絶対に自分を虐待してはならないことだ。むしろ自分を励まし無理にでも余裕を持とうと努力しなければならない。何より一日一日、手に負えるほどの具体的な行動単位を決めて結果が良かろうと悪かろうと自分との約束を守ろうとしなさい。一つ大切なことは、いつも1等をとれば成功したのではなく、あきらめたい気持ちを克服するところに人生の価値があると励ました。たくさんの慰めと勇気をもらったと笑いを取り戻した学生を見て精神科のやりがいを感じた。
精神科の用語の中に「心の換気」ということがある。自分の苦痛を誰かに話して払い落とし、助けをもらうと怒りを静めることができ、挫折と苦しみに勝つことができると言うことだ。この中学生は私を通して「心の換気」をしたのだ。
心がとても重くてつらいのか。誰かに会って慰めと勇気をもらいいなさい。読書を通すなり、講演を聞くなり、直接相手に会って話をしてもいい。心に積まれた苦悩を振るい掃う勇気を勧めたい。










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