私は
何をする
人なのか
アメリカのマンハッタンを、僧服を着て歩いてみると、時々黒人の子供たちが私の前で急にブルースリーのまねをしたりする。はじめはその子供たちがなぜそんなことをするのかと思ったが、いくらも経たないうちに、その子達にとっては僧服を着ている人ならば「武術をする人」に見えるのだと笑った。少し積極的な子供は私に中国少林寺の僧のようにカンフーができるかと聞く。その度、私はカンフーの振りをしたい衝動に駆られる。「イヤッ!!」気合を入れて腕を伸ばし、足を上げて強烈な目の光を放ちたい衝動!
一方、子供でない大人の場合は、私が韓国から来た僧侶だという事実を知ると、好奇心いっぱいの目で聞いてくる。
「どんな瞑想をするのですか。」
「一日、何時間修行をしますか。」
この質問を受ける私は、アメリカ人にとって僧侶の最も重要な正体性は「瞑想する修行者」だという点を知ることができた。
アメリカの子供たちと大人の反応は互いに違うことのようだが、また、互いに通じる部分がある。「僧侶」だといったならば、その人たちは、私がカンフー、あるいは瞑想をする人だという点だ。すなわち私が「何をする人」に焦点が合わされるという点だ。その人が「何をする人」なのかによってその人が誰であって、どんな人なのかを決定する西洋人の思考方式なのだということだ。
そして私が韓国へ来ると別の質問が私を待っていたりした。韓国で私に会って人々が聞く一つ目の質問は大部分が同じだ。
「今、どこの寺にいらっしゃいますか。」
「どの寺から来たのですか。」
僧の門中がどこか、元々どこの寺の所属か、今、どこの寺にいるのかが最も重要な関心事のようだった。
アメリカに住んでいる韓国人たちもやはりはじめて会った人同士は名乗りあった後、互いにこのように聞いたりする。
「今、どこの教会に通っていますか。」
「寺に通っていますか。どこの寺の所属ですか。」
こんな対話はわが国の人々にとって、ある人の正体性を規定するのに、「所属と地位」がどれだけ重要なのかを見せてくれる。その人が現在何をしていて、何をすることができるよりは、今、その人がどんなグループに所属しているのかがもっと重要だと思うのだ。
ある一人の人を知っていく過程、学校であろうと、職場であろうと日常生活において持続的に起こるこの過程において私たちはこのような大きな差をもっているのです。悩みなく受け答えする質問とその中にこめられた考えが、アメリカで僧侶として生きている私には大きな教えとなりました。
わが国に来る度に感じることは、なぜ韓国人は学閥にそんなに執着するのかという点だ。もちろんアメリカや他の西洋にもいい大学を出て勉強をたくさんした人を優待してくれ認めてくれる。しかし、後にはその人たちが何をどのようにするかがずっと重要になり、どの大学を出たかは段々無意味になる。
実際の例をあげると、アップルのスティーブチャップスの場合、アメリカのオレゴン州リード大学に入学して1学期勉強して学校をやめた。アメリカの教育に対して知っている人ならばリード大学がどれだけいい大学かよくわかっているだろうが、東部アイビーリーグだけを最高だとする韓国の人の場合は、リード大学を西部に位置する聞いたことも見たこともない大したことのない大学と見なしがちだ。
もし、スティーブチャップスがアメリカ人でなくて韓国人だったら、学閥を得ないので、彼の計画は明らかに難航しただろう。今もわが国の大部分の人は人の価値をその人が、今、しようとすることに置くことより、その人がどんなグループに所属しているかにおいてみようとするからだ。どんなにアップルのような会社を準備しようとしても彼がハーバード、プリストン、エールを出ていないから、「あの人の考えは見るに値しないのは明らかだ。」と思い、援助をしてあげる人はいないだろう。
だから、私は悔しい。私は「その人が何をすることができて、また、何をしようとしているのか。」に焦点を当てる社会を夢見るからだ。その人の背景をその人が所属されたグループからその人の正体性を探してみると、その人の「過去」ばかりを見て、「現在」を見ることができない過誤を犯すことになる。こんな社会にはいい背景に生まれていい学校に入った人、過去の経歴がいい人だけが成功の機会をつかむ循環だけが持続され、多くの可能性を持った人がいい背景、いい過去を持つことができない理由だけで試すことすらできないまま、失敗の道に入って行くしかないからだ。
「カンフーができますか。」と聞いた子供たち、僧服を着た私の前でブルースリー のまねをしたその黒人の子供たちに会う度に私を叱る声が聞こえるようだ。
「私は何をする人なのか。」
私はやはり、私自身自ら「僧侶」というグループの中に置いておいて自分がしなければならない本当の仕事をなおざありにしなかったのか。
「私はどんな目で人を見ているのか。」
私は、やはり、誰かに会う時、その人が所属するグループでその人の価値を判断しなかったか。
終わることなく学んで自らを叱る人。
子供たちの質問にまたひとつ学んだ、私は今、自分が「何」をする人なのか、「何」をしなければならない人なのか、ちゃんと1歩踏み出したと慰める。











