退屈しないように シニアの暮らし

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さて何をしようか

法頂 無所有より

2012-12-19 20:11:33 | 韓で遊ぶ
18 その夏に読んだ本

秋を読書の季節として受け入れられないでいるが、事実、秋は読書には一番不適当な季節のようだ。空気がとても澄んでいるために、青い空の下で本のページをめくることは、いずれにしても辛気臭く不快なことだ。それは秋の空に対して失礼だ。
そして読書の季節が特になければならないことも笑える。いつでも、本を読んだならばその時が正に読書の季節なのだ。夏は暑くて外で仕事もできないから、本でも読むのがいい。軽い下着姿で、ござを出して広げ、竹枕でもあればもってこいだ。だからわざわざ出かけて行く事もなく、波が寄せる海と渓谷の流れる山を自分の傍らに持ってくることができる。
8,9年前だったか、ヘイン寺のソソ山房で読誦しながら、ひと夏、蒸し暑さを忘れて過ごしたことがあった。その年、ウニョ老師から「華厳経」の講義を聞いたが、「十廻向品」にいたる菩薩の限りない求道精神に感泣したことがあった。いつか暇ができたら「十廻向品」だけを別に精読しようと決心したのが、その夏の季節の因縁だったのだ。朝夕にチャンギョン閣に上がって業情を懺悔する礼拝をあげて、昼には山房で読誦をした。
山房というけれども、部屋ひとつを分けて使う狭いものだった。垂木が出て、小さな明かり取りの窓と頻繁に出入りする戸口がひとつしかない部屋、だから、夏でなくても息苦しかった。それでも、あのデォゲネスの桶の中よりは広いと自己満足した。また、ひとつありがたいことは、前の山を眺める景色だった。それは、画幅が300歩ほどあるものだった。
「華厳経」は80冊にもなる膨大な経典だ。「十廻向品」はその中の9巻である。ひと夏、その狭苦しい部屋で袈裟と僧衣を着て正座して香を焚いて経を広げた。まずは、開経偈を暗記した。「又とない奥深いこの法文、百千万劫に会う事は難しいが、私が今、見て聞いて来て、如来の真意を正に知ったのだ」経は実叉難陀の韓訳の木版本で読んだのだった。最近はハングル大蔵経として翻訳が出ているが、その時は翻訳がなかった。ハングルの翻訳があっても表意文字が与える余韻や、木版本で読むというその柔軟な味は比較のできないものだ。時には声の調子を高めて読んだり、一字一字推し量りながら黙読したりもした。
雨が降るような重苦しい天気の日には、石垣の外の便所からむかつくような匂いが漂ってきた。そんな時は自分の体の中にも自分用の便所があるではないか。人の良心の腐った匂いよりはましではないか。このように考えたら何でもなかった。一切の唯心所造だから。夕方の供養をする時間を前にして席を立ったら、袈裟僧衣に汗がぐっしょりと染み、広げた座布団がじめじめと濡れていた。やっと暑いという気持ちになった。谷川に行きぱっと脱いでしまって小川の水に浸った。このとき、暑さが無くなり心身が飛ぶように軽くなった。すべての物に感謝したい気持ちが膨らんだ。
このようにして、その年の夏「十廻向品」を100余回、読誦したが、読むほどに新たに切々とした。誰が命じてさせたことならばこのようにはできないことだろう。読むということは何だろうか。他の人の声を通して自分自身の根源的な音声を聞くことではないだろうか。(東亜日報1972,8,2)
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