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kikoがスタート

2005年8月にスタートしました。
私が観た(見た)、感じた、覚書き、気になることを書いてます。(^^ゞ

1月度ハイキング 京都・鷹峯③ 源光庵「悟りの窓・迷いの窓・血天井」

2025年01月28日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
② 源光庵「丸い窓のある山門から書院」のつづきです。


書院から見える本殿へ向かいます。



本殿に入る廊下の敷居に
「萬徳殿」の扁額が掲げられています。



そして、本殿の入口から見えたのは
「伏⾒桃⼭城遺構の⾎天井」



本殿に入って右に見えたのは
「悟りの窓」と「迷いの窓」です。


悟りの窓

何事にもとらわれないおおらかな気持ちを
「禅と円通」の心で表しています。


迷いの窓

生きることや病、死ぬことなど日々のさまざまな苦しみの
「人間の生涯」を表しています。

どちらも仏の教えで、枯山水の庭園が見える窓でした。



あれは・・・?
茨木市「総持寺」・伊勢寺・金戎光明寺で見たことがある



少し耳が長いのですが「亀趺(キフ)」だと思います。



血天井 手形跡と



天井いっぱいに見えるのは



本堂の⾎天井は、伏⾒桃⼭城の遺構です。

慶⻑5年7⽉(1600年)徳川家康の忠⾂、⿃居彦右衛⾨元忠⼀党1800⼈が⽯⽥三成の軍 勢と交戦し討死、残る380余⼈が⾃刃したときの恨跡です。



⿃居元忠は「三河武⼠の鑑」と称される武将で
血の付いた床板を供養の為にこちらに移したものです。



ここにも足型跡が・・・

2024年9月度ハイキングで
模擬天守「伏見桃山城」へ行ったことが思い出されます。

京都には、養源院、正伝寺など
いくつかの寺に血天井が移築されていますが

私が血天井を初めて見たのは
2014年11月の「京都 ・大原 宝泉院」でした。



源光庵を後にして「光悦寺(こうえつじ)」にむかいます。
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1月度ハイキング 京都・鷹峯 ② 源光庵「丸い窓のある山門から書院」

2025年01月25日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
京都・鷹峯「源光庵(げんこうあん)」のつづきです。


通り過ぎた総門を見て駐車場に戻ると
他の人たちが山門に向かっていたので追いかけました。


山門

山門の上部分に「白い丸窓」が2つあります。
窓がある山門を見るのは初めてです。



山門の扁額「復古禅林」


右に鐘楼




山門を入ると正面に「本堂」が見えました。

本堂は卍⼭禅師に帰依した⾦沢の富商・中⽥静家居⼠の寄進によって元禄7年に建⽴され、ご本尊として華厳の釈迦牟尼佛、脇⽴に阿難尊者、迦葉尊者をお祀りしています。



本堂の扁額は「大寶荘厳」



本堂の右側に受付があります。
拝観料は大人400円(紅葉の季節 11月は500円)です。


書院の間

本殿の前に、書院から・・・



約3,000年前の屋久杉から作られたという「屋久杉屏風」



山口雪溪は漢画系の絵師です。








枯山水庭園

本堂と書院の北には
釈迦谷山を借景にした「枯山水庭園」



書院の廊下から本堂を見ています。

「悟りの窓・迷いの窓・血天井」の本堂へ行きますが
長くなりますので、次へと続きます。
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1月度ハイキング 京都・鷹峯(たかがみね)「洛北の名刹! 源光庵」

2025年01月24日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
1月度ハイキングに参加してきました。


JR京都駅前・四条大宮駅から
京都市営バス6号系統に乗り「鷹峯源光庵前」で下車して
源光庵に向かっていますが、ここが源光庵では・・・?
と思いながら、皆の後について通り過ぎて行きました。



入ったのは源光庵の駐車場からでした。
駐車場に「伏見桃山城の遺構 血天井」


9月のハイキングで行った「伏見桃山城」に
慶長5年(1600)家康の家臣である鳥居元忠と約300名の武士が、伏見城で切腹した血糊の床板を養源院(京都市東山区)の天井に使われています。

関ヶ原の戦い後、血糊の床板を見た家康が鳥居元忠らの忠義に供養するため、徳川家にゆかりある寺院で血糊の床板を誰にも踏まれることのないようにするため天井板にしたのでした。


源光庵の天井にも使われていたのですね。



駐車場で、みなさんが立ち止まっている間に
参道を通って、先ほど通り過ぎた右に見える「総門」へ



総門を目の前にして見てきました。

源光庵(げんこうあん)は
京都市北区鷹峯にある曹洞宗の寺院。
山号は鷹峰山  本尊は釈迦如来
正式には、鷹峰山寶樹林源光庵です。



正面に掲げられている扁額「源光善照」は
創建時から伝わるものだそうです。



皆のいる駐車場に戻ってきました。
その先に「山門」が見えています。

長くなりますので、私が源光庵で見たかった
「悟りの窓・迷いの窓」から眺める絶景へと続きます。
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2005年「第1回 健康マージャン」 

2025年01月09日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
1月7日は
2025年第1回目の「健康マージャン」の日でした。

玄関を出ると
西風が強くて、思うように前へ進めない状態でしたが
なまけ心を振り切って行ってきました。(^^ゞ


今年も、みなさんと笑顔で新年の挨拶をして
月に3回の健康マージャンが始まりました。

勝っても負けても笑顔で楽しんでいる人達ですが
上達することに、いつも努力されている姿があり・・・
広い知識を共有されているので、私も楽しんでいます。

今年も、美術館・ハイキング・マージャンなどの
記事になりますが、よろしくお付き合いくださいね。
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10月度ハイキング 京都・広沢池の西にある「兒神社」と「遍照寺」

2024年12月27日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
大覚寺 大沢門

大沢門から出て、広沢池へ向かいます。



見渡す限りのどかな田園地帯を歩いていると



畔道に貝殻がいっぱいです・・・
なぜ、こんな場所に貝殻があるんでしょう~?


愛宕山

京都市右京区にある標高924mの愛宕山が見えています。

山頂には全国に約900ある愛宕神社の総本社があり
「愛宕詣り(あたごまいり)」をしたいと思いながら
まだ行ったことがありません。


兒神社から見える広沢池(ひろさわのいけ)

広沢池は、別名「遍照寺池」です。


広沢池の西にある兒神社(ちごじんじゃ)

兒神社の由来は
遍照寺を建立した名僧であり、宇多天皇の孫である寛朝大僧正(かんちょうだいそうじょう)の死後に、その死を嘆いて広沢池に身を投げた侍児の霊を祀ったことからでした。



何が書かれているのか読めませんでした。


ハートストーン

きれいなハート型、修復工事中に出てきたそうです。


本殿

兒=幼い子/稚児/童/ちのみごなど


兒の石椅子

この石椅子は寛朝大僧正が座禅を組んでいる時に
その傍らで侍児が座っていた石のようです。


広沢池(ひろさわのいけ)

広沢池を見たのは兒神社の前からと
急いで撮った、この角度の写真だけでした。(^_^;)



予定には無かったのですが・・・「遍照寺」へ


京都嵯峨野「広沢山遍照寺(へんじょうじ)」

遍照寺は十世紀末(989年)平安時代中期、寛平法皇(宇多天皇)の孫、寛朝僧正が広沢池畔の山荘を改めて寺院にしたものです。



嵯峨富士と云われる端麗な遍照寺山を映す広沢池には金色の観世音菩薩を祀る観音島があり、池畔には多宝塔・釣殿等・数々の堂宇が並ぶ広大な寺院でありました。



しかし寛朝僧正没後次第に衰退し、鎌倉時代、後宇多天皇により復興されたが後、応仁の乱で廃墟と化しました。
奇跡的に難を逃れた赤不動明王と十一面観音は草堂に移され、文政十三年舜乗律師により復興されました。

昭和に収蔵庫、護摩堂。
平成九年客殿、庫裡を建立し現容となりました。


源氏物語 ゆかりの地

紫式部が二十歳の頃、村上天皇の子、具平親王が雑仕係の大顔を伴い、中秋の名月の夜お忍びで遠縁に当たる寛朝僧正の住む遍照寺へ出かけられました。

月見の最中、大顔が突然物怪に取憑かれ急死。具平親王の又従兄妹である式部にとってこれは衝撃的な事件でありました。
そしてこれが源氏物語「夕顔」の基となったとも云われております。(ホームページから転記させて頂きました。)



さと 嵯峨店

歴史クラブでは、毎回お弁当は持参しないで
現地のお店で昼食タイムにしています。


バス停

ここで解散でした。
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10月度歴史クラブ 京都・嵯峨③「大覚寺 日本最古の人工の大沢池」

2024年12月26日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
大沢池は、大覚寺の東に周囲約1kmの
日本最古の人工の庭と池です。

五大堂

大覚寺の本堂は「五大堂」と呼ばれている建物で
嵯峨天皇の勅願で、天明年間(江戸時代1781~1789)に建立。

内陣には大覚寺の本尊の五大明王が安置されています。
不動明王・降三世明王・軍荼利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王
人間国宝松久朋林とその息子宗林仏師の作。



五大堂の前から「大沢池」が見えました。



写真の左が大沢池です。
右側のお堂エリアから大沢池への出入口が見えます。



大沢池を散策するのには
五大堂の横(観月台)から下りて大沢池へ・・・


放生池

放生池と



放生池の奥に見えるのは


護摩堂(ごまどう)

放生池畔に建てられた2間四方、方形造瓦葺の建物。

不動明王を本尊として壇を設け不動法を修し
護摩の炎で皆さまの心願成就を祈願いたします。


石仏群(せきぶつぐん)

大沢池の北岸に、20基を超える如来や菩薩の石仏。
石仏群は古いもので平安時代後期の作と伝えられています。


心経宝塔(しんぎょうほうとう)

昭和42年(1967)嵯峨天皇心経写経1150年を記念して建立。

基壇内部に「如意宝珠」を納めた真珠の小塔を安置する。
宝塔内部には秘鍵(弘法)大師尊像を祀る。



左:閼伽堂(あかどう)
約1200年前、大覚寺の前身「離宮嵯峨院」時代、嵯峨天皇の命で弘法大師が建立した持仏堂「五覚院」の閼伽井として、弘法大師が自ら掘られた井戸である。仏に供える神聖な浄水を汲む。

中央:「大日堂(だいにちどう)」
大覚寺門跡が、明治初頭まで兼帯していた安井門跡蓮華光院が管理していた、洛東の岩倉山真性寺が廃寺となる際に移築されたもの。正面を入母屋造とし、内陣は六角堂となっている。石造の大日如来坐像(江戸時代)を祀る。

右:聖天堂(しょうてんどう)
当初は、望雲亭西側に建っていたが、昭和37年(1962)頃に現在地に移築。宝形造であり、歓喜天・十一面観世音菩薩を祀る。


もみじロード

行ったのは10月だったので、紅葉には早いですね。

天神島・庭湖石(てんじんじま・ていこせき)は、横目にして通り過ぎましたが、菊ヶ島と天神島に庭湖石を加えた二島一石の景色を「景色いけ」として伝えています。
そして天神島には、菅原道真公をお祀りしています。


菊ヶ島(きくがしま)

平安時代の初め、嵯峨天皇が菊ヶ島に咲く菊を手折り、花瓶に挿された。これがいけばな嵯峨御流の始まりであり、いけばな発祥の地とされている。


名古曽の滝跡(なこそのたきあと)

離宮嵯峨院時代の滝殿庭園内に設けられたもので
『今昔物語』では百済川成が作庭したものと伝わる。

  滝の音は
   絶えて久しくなりぬれど
  名こそ流れて
   なほ聞こえけれ

藤原公任ふじわらのきんとう (小倉百人一首 55番)
藤原公任は、康保3年~長久2年(966~1041)平安時代の歌人で、詩歌や管弦の諸芸に通じ、また故実に詳しく書は古筆として珍重されている。和漢朗詠集や拾遺和歌集などの撰に携わる。三十六歌仙の1人。


平田春一・島田保子等詠碑

この先からは、池の傍から少し離れた道になります。


望雲亭(ぼううんてい)

嵯峨天皇から高野山に帰山する弘法大師に贈られた詩
「道俗相分かれ数年を経たり、今秋晤語するも亦良縁なり、香茶酌みやみて日ここに暮れる、 稽首して離れを傷み雲煙を望む」より望雲の2字をとって命名された。

現在の建物は、裏千家の設計により昭和50年(1975)
「寺号勅許1100年」の記念事業として再建された。


大沢池(おおさわのいけ)国指定名勝

他にも詠碑が幾つもありました。
大沢門から出て、広沢池へ向かいます。
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10月度歴史クラブ 京都・嵯峨②「大覚寺 勅封心経殿から五色紐」

2024年12月24日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座

大玄関内部の障壁画、狩野永徳筆の「 松二山鳥図 」と
後宇多法皇の御紋である「九曜菊」の御輿を後にして・・・


村雨の廊下(むらさめのろうか)

宸殿と心経前殿を結ぶ回廊です。
縦の柱を雨、直角に折れ曲がっている回廊を稲光にたとえ「村雨の廊下」と呼ばれています。

高貴な人が通られる際の防犯の意味で、天井は刀や槍を振り上げられないように低く造られ、床は鴬張りです。



後宇多法皇の御紋「九曜菊(くようぎく)」


心経前殿(御影堂)

心経前殿(しんぎょうぜんでん)に入って行きます。

大正14年(1925)建造。大正天皇ご即位に際し建てられた「饗宴殿(きょうえんでん)」を式後賜り移築したもので、心経殿の前殿にあたるため「心経前殿」と呼ばれています。

そして嵯峨天皇、弘法大師(秘鍵大師)、後宇多法皇、恒寂入道親王の尊像をお祀りするため「御影堂」とも呼ばれています。


お砂踏み

令和6年10月11日(金)~ 11月30日(土)



四国八十八ヶ所霊場各札所の「お砂踏み」があります。


石舞台と「勅使門(ちょくしもん)」

心経前殿の正面から見えます。

勅使門は嘉永年間(1848~54)の再建。
勅使のご来山や門跡猊下出仕の法会などにだけ開かれます。


勅封心経殿(ちょくふうしんぎょうでん)



登録有形文化財




勅封心経殿から五色紐が



心経前殿の中に・・・



勅封心経とのご縁結びを象徴した五色紐は
心経前殿へと繋がっていました。



五代堂前から「大沢池(おおさわのいけ)」が見えました。

国指定名勝「大沢池」へと続きます。
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10月度歴史クラブ 京都・嵯峨にある1200年の歴史を誇る「大覚寺」

2024年12月22日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
10月度歴史クラブは、初秋の嵯峨野 大覚寺・大沢池でした。
「大覚寺」「檀林皇后がお描きになった薬師三尊」が、写仏の始まりと知った時から行きたいと思っていたところです。

日本の第52代天皇・嵯峨天皇の皇后
「橘 嘉智子(たちばな の かちこ)」は【檀林皇后九相観】で
知られる「檀林皇后(だんりんこうごう)」です。
※九相図は、遺骸が朽ちていくさまを9段階に描いた仏教画。


10月16日(水)

阪急嵐山駅から



ハイキングだったら、歩くところですが・・・
歴史クラブなので



京都バスに乗って、阪急嵐山から大覚寺へ
定員15名(参加希望が多いので定員)でスタートしました。



大覚寺に向かって歩いていると
道の左に見えたのは「嵯峨御流華道芸術学院」

嵯峨御流(さがごりゅう)は嵯峨天皇が創始されたとする華道で
峨御流総司所は大覚寺にあります。



閑静な小道を歩いて行くと門前を流れる御殿川
写真左の大覚寺へは、川に架けられた小さな石橋を渡ります。


大覚寺の「明智門」

大覚寺の二つ並んでいる門の向かって左の白い門。

明智光秀が居城としていた亀山城の一部を移築した
明智門と、その奥には明智陣屋という建造物があります。
この場所は時代劇の撮影に使われる事が多いそうです。


表門前には

  大覚寺 旧嵯峨御所
嵯峨山と号する真言宗大覚寺派の本山である。
 当山は、嵯峨天皇の離宮嵯峨院(のち仙洞御所)の一部で、天皇崩御の後の貞観十八年(八七六)に寺に改められ、大覚寺と名付けられた。その後一時荒廃したが、文永五年(一二六八)に後嵯峨上皇、続いて亀山法皇、後宇多法皇が入寺し、寺を復興するとともに大覚寺統を形成し、持明院統と皇位継承について争った。元弘三年(一三三三)、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇によって建武新政(けんむのしんせい)が行われるが、足利尊氏と対立し、南北朝時代を迎える。明徳三年(一三九二)当寺で南北両朝の媾和が成立した。

 宸殿は、後水尾天皇の中宮東福門院の旧殿を移築したもので、内部は、狩野山楽筆の「牡丹図」、「紅白梅図」などの豪華な襖絵で飾られている。その外、御影堂(みえどう)、五大堂、霊明殿(れいめいでん)、安井堂、正寝殿(しょうしんでん)、庫裏(くり)などの堂宇(どうう)が建ち並び、旧御所の絢爛さを今に伝えるとともに、勅封の般若心経を奉安する皇室ゆかりの寺院である。 京都市


表門

私たちは、明智門の右にある「表門」から入りました。


式台玄関

表門をくぐって、右側が式台玄関です。

式台玄関は、江戸時代に京都御所から移築したものとされていて、現在は特別な賓客がお越しになられたときなどに使われています。



私たちは式台玄関の左から入って参拝料を払うのですが
今日は歴史クラブへの援助がありました。(^^♪

みんなと中へ入って行くと
そこには、第91代天皇の後宇多法皇が使用した御輿が・・・
御輿には後宇多法皇の御紋である「九曜菊(くようぎく)」



そして、玄関内部の障壁画に描かれているのは
狩野永徳筆の重要文化財「 松二山鳥図 (まつにやまどりず) 」

心経前殿(御影堂)へと向かいますが
長くなりますので次へと続きます。
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初めて参加する「第8回健康マージャン大会」 追記あり

2024年12月20日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
今日(19日)は「〇〇会長杯 第8回健康マージャン大会」です。

昨年から月に3回健康マージャンに参加していますが、分からない事ばかりなので昨年の大会には参加しませんでした。

そして、今年も参加しませんと言っていたのですが・・・
「5卓に一人足らないので、参加してください。」と、お世話さんから頼まれて参加することになりました。(^_^;)


皆さんの迷惑にならないようにと思いながらも・・・
しっかりと楽しんで来ようと思っています。
初参加なので、ブービー賞狙いが良いかな。(^^♪


追記
ブービー賞狙いでしたが11位でした。
迷惑も掛けないでホーチャンは安い手の1回だけで、私はマンガンもしたのでプラスでした。でも後半の組替えで強い人と一緒の卓になり、その人は何回もツモであがり準優勝の女の人でした。

優勝は、ハイキングのお世話人さんでした。
お世話人さん、おめでとうございます!
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9月度ハイキング ⑤「 明治天皇 伏見桃山陵 と 230段の階段」

2024年11月26日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
 11月15日、101歳で亡くなられた三笠宮妃百合子さまは、昭和天皇の末弟の三笠宮 崇仁 ( たかひと ) 親王の妃で、上皇さまの叔母様でした。そして、明治以降の皇族で初めて101歳を越える最高齢でした。 ご冥福をお祈りいたします。


模擬天守だった「伏見桃山城」から

第122代 明治天皇 伏見桃山陵 へ向かいます。

明治天皇 伏見桃山陵には
高槻しろあと歴史館のボランティアだった時(2011年)
に行ったことがあり・・・その時のことは今も鮮明に覚えています。



道の右側に並べて置いてある石には
『 伏見城石垣に使用されていたと思われる石材 宮内庁 』
と書かれています。



第122代明治天皇は、明治45年7月30日に61歳(数え年)で崩御され、大正元年9月13日、東京青山(現在の神宮外苑のある場所)において御大葬が行われ、翌14日京都南郊の伏見桃山陵にお鎮まりになられました。

敷地は豊臣秀吉の築いた伏見城の本丸跡地で、京都に墓所が営まれたのは「明治天皇の遺言」によるものだといわれています。
(宮内庁の管理地)



上円下方式で墳丘に “さざれ石” が葺かれ
東方向に昭憲皇太后の「伏見桃山東陵 (ふしみももやまのひがしのみささぎ)」 があります。

2019年には上皇ご夫妻が
6月11~13日の日程で京都市を訪れ、孝明天皇陵と明治天皇陵にそれぞれ退位の報告をされました。



明治天皇陵正面から宇治方面を見ています。

これは、2011年のことですが
※宇治市を眺めていると、ボランティアの方から・・・
 階段の数について下記の説明をして下さいました。

天皇陵の正面にある階段は、1890年(明治23年)10月30日に、明治天皇の名で発表された「教育ニ関スル勅語(教育勅語)」の日にちなみ、23段(明治23年)の階段が、10(10月)あって合計230段あります。

お話を聞かなければ、ただ長い階段だけでしたが・・・
教えて頂いて、意味のある230段の階段だと知りました。



前に来た時は、来た道を戻ったので良かったのですが・・・
この階段だけは降りたくないと思ってました。

でも今回はお世話さんが
この階段を降りて行きます・・・と言われたので (^_^;)



私を含めて数人は足が竦む思いで降りてきました。

普段から、駅などの階段は使うようにしていますが
この高さの階段は・・・恐怖です。



藤森神社→桓武天皇陵→伏見桃山城→明治天皇陵
そして、乃木神社もコースに入っていたのですが
時間の都合で・・・? JR桃山駅へ直行でした。



乃木神社を横目にして、JR桃山駅から帰りましたが
前に来た時は、乃木神社から「明治天皇陵」へ行きました。


2011年に行った時の「乃木神社」

明治天皇陵の麓に建つ「乃木神社 (のぎじんじゃ)」

何故、乃木神社が明治天皇陵の麓にあるのでしょう
それは乃木大将などの呼称で呼ばれる乃木 希典(のぎ まれすけ)が、明治天皇による勅命で学習院院長に就任したことや、明治天皇大葬が行われた1912年(大正元年)9月13日の午後8時ころ、妻・静子とともに自刃して亡くなっていたことなどがありました。

明治天皇陵へ行かれたら「乃木神社」はお勧めです。
長くなりましたが、9月度ハイキングはこれで終わります。
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